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「ってことで、知り合いの刑事さんの名刺。自主的に自首を」
「いらねえっつーの! デカは大っ嫌いだ。捨てろこんな縁起の悪いもの、貸せっ!」
「あ、ちょっと! 破るなんてひどいじゃん! 人様の名刺だよ? そんな風に扱うなんて信じらんない!」
「つべこべ抜かすな鬱陶しい。ただの紙だろ、広告と一緒だ、駅前で配ってるティッシュみたいな。おいタバコ! タバコかせ。無くなった、クソが」
「もう……一体いつになったらマトモになるの君は。もう三十五を超えてるんでしょお? もう少しこう……さあ」
「んーんー、もういい、ちと黙ってろ。これもらお」
なぜかこの店には、おひとり様一本までという名目のもと、調味料差しの隣にマルボロが刺さっている。
こんな奇抜なサービスもここにきて初めてお目にかかった。
「ふーっ……」
煙を細く、長く、薬缶の蒸気みたいに吹きながら、頭の中を整理する。
今の俺の悩み。
・妹の病気
・カナコちゃんの世話
・組織の事とボスのこと
・虎目のゆくえ
・自分自身のこれからのシノギ
・身柄はまだ透明だが警察に追われてること
ほんと最悪だろ。
……最悪だ!!
「落ち着いた? 何か変わり始めてる?」
あいつは、さっきまでよりは幾分落ち着いた、しっとりとした口調で俺に問う。
食後の珈琲を飲みながら、たわいもない談話に興じる。
アルコールは一滴も入れていないのに、身体がポカポカして、酸素が身体の中をすいすいと巡っていくようだ。
それとは逆に、脳味噌は蕩けていく。
「何かってーと、なんだ」
「心の中、考え方、少しはこうしてみようとか、ちょっとこれに興味が出てきたとか、何かない? なんでもいい」
「うーんとな」
正直言うと、タヒチに心を開き始めていたのは事実だ。今思えば、だけどな。
と言っても、今まで頑として閉ざしていた扉を少し開けて覗いた程度だが。
「なんせとりあえず、ウジウジせず前向きに考えようって思うようにはなったわ。少しは頭の使い方が分かったっていうかな」
言葉だけでも、格好が付けられる程度には落ち着いてはいるかもしれない。俺なりに、一番の峠は越えたような気さえしていた。
そして、それは紛れもない事実だった。
事実として、久々に会話らしい会話ができる人間とこうして語り合うのなんて、どれだけぶりのことか。
「おお! それが大事だよ! そこ本当におさえといてほしいとこなんだから。嬉しいな~、私の仕事がちゃんと結果を出してる証拠だあ~」
「何を馬鹿みてえに拍手までして。そんなにおもしろいかこのやろう」
俺も思わず吹き出していた。
「おもしろい。よし。じゃあここでネガポジゲームしようよ」
「ネガ、なんだって?」
「ネガポジゲーム」
「なんじゃそらぁ。聞いたことない」
「私と君で交代交代で何か嫌な事やショックな展開を言っていくの。それがお題みたいなもの。それで、言われた方はそれをポジティブに言い換えたり、それの良いところを探したり、打開策を見つけたりして、なんとかしてポジティブな方向にもっていくっていう頭脳ゲーム。あ、バカバカしいとか言わないで。これ、実は想像以上に脳ミソ使うから、精神病院や脳神経外科でもリハビリでやったりするくらいだから侮れないよ。最近は認知症の進行抑止にも効果が期待されてるからさ」
「ああそう。なんかよくわからんけど、とりあえずハッピーエンドに着地させりゃ勝ちってことでいいな」
「そう。大正解」
「よし乗った。どっちが先に鬼やる?」
「私が先にネガを言うね」
「ネガか……それに対して俺はポジ……へっ。おもろいやないか。言ってみな、どれどれ」
「いい? 最初は簡単なのをいくね。じゃあね……しまった、学校に遅刻しちゃったどうしよう?」
「学校に遅刻か……これどうや。一限目は嫌いな算数だったからサボれてよかったね、と」
「お、いいね。じゃあ次。どうしよう、新しい机に傷をつけちゃった!」
「ドジな野郎だな。のび太を思い浮かべちまうわ」
「考えて考えて。多少無理やりでもいいから、ポジティブに着地させて、ほら」
「んー。あー。こういうのどうや。傷つけちまったんだから、この際イカしたテーブルクロスを買うきっかけができたって」
「うまいじゃない! いや、本当にいい筋してる」
「おっほほ、そうか。よし! どんどんこいや」
頬までポカポカしてきた。
お冷を呑んで喉を潤し、気合を入れる。
「ちょっとレベル上げてくよ。じゃあ……どうしよう、会社の車をぶつけちゃった!」
「うわ、難しいな。これは……うーん……うーん……おいヒント出せヒント」
「いやいや。ヒントも何も、正解がないんだからヒントも何もないよ。あなたの中のポジを発掘する深層心理ゲー」「あーもうごちゃごちゃ鬱陶しい。ちょっと待て」
俺は思い切り深く煙草の煙を吸い、ゆっくり、長く、吐き出す。
「――これや。車と一緒に交通事故も発明されたわけだ。インターネットと一緒にサイバー犯罪も生まれた。悪い面ばっか見てられるかってんだって、開き直って嫌いな上司にめちゃくちゃ食って掛かってやれる」
タヒチは大笑いした。今までで一番大きな笑いだった。
「あはははははは! それまた破天荒なポジだねえ! 君らしい! あはははは! 最高! 傑作!」
「どうだ。さすがだろ。ちょろいわ。事故くらい起きるんだよって言ってやりゃいいんだよ、そんなもん」「ちょっとちょっとなに、楽しそうじゃないのよぉ。あたしも混ぜなさい」
マダムが艶々の天津飯と共に到着。湯気の向こうの笑顔が神々しく見えてしまう。
この時ばかりは、いつも圧巻のマダムがまるで女神様のように感じられるんだな。
「あ、ちょうどいいところに。ねえマダムならどうする? 自分がサラリーマンで、会社の車をぶつけちゃったとしたらさ」
「あらま。ネガポジゲームしてたのね」
なんだ。
俺が知らねえだけで、流行りなのかこれは?
「なるほどね~。うーん、あたしならねえ……これを機にもっともっと運転を気をつけなきゃ、人を跳ねたんじゃなくてよかったわって、そう思うわね」
なんだよ。そんな簡単なのでよかったのかよ。
ちょっと肩に力が入り過ぎてたのか、俺は。




