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「はぁい、お待たせあそばせ」
夢見心地の俺の目の前に黄金色の物体が現れた。
ハッとする。本当に気配というものが無いのだ、マダム。
――天津飯。
こんな洋風の雰囲気の店に似合わない、ごま油の香りが鼻の奥で火花を散らし、唾液がスプリンクラーのように分泌される。
「あ、どうも。いただきます」
柄の先が猫の肉球になった変なスプーンで一口掬う。
「……あ、うんま! おお。美味いなこれ!」
「でしょ。あたしのオハコ料理よ」
本当に美味いんだ、これが。
どうやったら蟹玉をここまでフワフワに肉厚に焼けるのか、不思議で仕方がない。
濃い目の餡には辣油が程よく絡み、ネギとニラ、シラスがいい味を出している。
飯もイイ米を使っているのか、粒立ちがよくて甘くて最高だ。
米のホクホクした風味と、濃いめの鶏ガラだしがまるでオーケストラのような威風堂々たる味の交響曲を奏で、口内は満座の拍手喝采となった。
「ふふふ。いい食べっぷり。マダムの天津飯、中毒性あるもんね。野球少年みたいにガツガツいきたくなるよね。わかりみ」
「ったりまえよぉ。愛情っていう麻薬成分入ってるんだから。溺れちゃいなさいな。だけどそう言う割にあなた、いつもナポリタンばっかりじゃない? タヒチちゃん」
「若いとパスタが恋しいんだもん。女子って中華よりイタリアンのイメージだし。ってとこで、私のはまだなの?」
「まだよ。待ってなさい。恋もパスタも、絶妙なアルデンテになるまで待った方がいいんだから! 女は焦っちゃお終い。線香花火みたいにそーっと時期を見計らうの。恋も結婚も同じ。わかったあ?」
「ふええー。お腹減ったよお~死ぬうううう~」
「ごっつあんです!」
二分で完食。
「あ~早食いだったわね。さすがダンディーさん。感動しちゃったわよアナタ~お食事シーンもセクシーだった」
「ああはい、もういいっすから。でもほんとに美味かった。さすが一人で店やるだけあるもんだ。感心したぜ」
「嬉しいこと言ってくれるじゃないのよぉもう。そうだ、はじめてのご来店だし、コーヒーおかわりサービスしてあげる。カップかして」
「あぁ、どうもすんませんね」
腹が一杯になったからか、俺もだんだんとその場の空気に馴染み始めた。
久しぶりだ、他人とこんなにリラックスして話をするのは。
ここ数年、いや数十年、他人はみんな敵か、自分を笑っている連中しかいないと思っていたから。
「なあ、おい。タヒチよ」
ナポリタンにタバスコとパルメザンチーズを交互に振りかけながら「ん?」と丸い目を更に丸くする。
「さっきから俺ら以外の客が来ないけど、どうしてなんだ? 正直、立地も雰囲気も味も悪くないじゃねえか。マダムはちょっとアレだけど……飲み食いする分には申し分ねえ。もっとこう、外回りの会社員とか学校帰りの学生とかいてもいい気がするんだけどな。どうなってんだか」
「そう思うでしょ? それはね、この店が完全紹介制だからだよ」
「完全紹介制?」
「そう。私みたいな既存の客が、絶対に誰かを引き連れていかなきゃいけないところ。既存の客が、この人をここに連れていきたい、って思わないとこの店は見えないの」と、フォークでパスタを巻き取りながら得意げに言った。
「……見えない? って、どういう意味だ」
「そのまま。見えないの」
「目に見えないって事か?」
「そう。インビジブル」
「じゃあ、さっきから外を歩いてる奴ら、俺らの事は全く見えてないのか?」
「いえす」
「……ふぅん」
なるほど。
そういう、小洒落た謳い文句で店を盛り上げてるのか。商売上手なこった。
「はい、おかわりあそばせ。砂糖とミルクあるからね」
「お、サンキュー。ちなみにここって酒は無ぇのかい酒」
マダム・カフェモカはカップから立ち昇る湯気の向こうで少し困った顔をした。
「ごめんなさい、ここはあくまで喫茶だから、お酒は置いてないのよ」
「ああ、無いならいいぞ」
「……お酒はね、あたし苦手よ……」
マダム・カフェモカはブルーな雰囲気を醸し出した。
俺は人を励ましたりするのは苦手だが、やはり気にはなる。目の前に糸があれば引っ張りたいのが性。




