1
いつもと何も変わらない朝だった。
鳥のさえずりを吹き飛ばし、6.2リッター12気筒の怪物エンジンが唸りを上げる。
闘牛のように雄々しい低音から、一気に高音域のレッドゾーンまで吹け上がる。
「じゃあな……」
「うん、もう行くね。これでリフォーム完了だからさ」
ガルウイングドアの下に現れた低い座席に、小柄な体躯を嵌め込むようにして乗り込み、朗らかな笑顔が西日を受けて輝いた。
いつか映画で見た古代ローマの英雄のような、神々しいオーラを一杯に纏ったその恩人は、次に会う時はきっと、十年後。
「あぁ。達者でな……イイ男見つけろよ」
目元にむずがゆさを感じた。
目を擦ってごまかす。
「だからぁ、男には興味ないし独り身がいいんだってば。君こそ、ちゃんとした奥さん見つけなよ」
「あぁ。分かってる。大丈夫。あのさ」
「なに?喋り方、変だよ」
「わかってるわかってる……ほんとに、あんたのおかげで助かったよ、俺。ずっと独りぼっちだったからさ、ずっとどうしたらいいのかわからなくって困ってて。でも、助けられた。ありがとう。これからも、誰かを助けてやってよ。おっちゃんとの、約束な」
情けなく涙に濡れた声だったが、相手の耳にはしっかりと届いていた。
「ふふふふ。なんてことないよ~。まだまだリフォームしなきゃいけない物件は山積みだからね。こんなご時世だし仕事には困らない。そんじゃ、元気でね~」
蝙蝠が翼を折り畳むようにガルウイングが閉じ、ピストンが激しい上下運動を始める。
夕焼けでより一層赤く輝く深紅の高級スポーツカー、ランボルギーニ・ムルシエラゴは遠慮を知らないフルスロットルでその場を走り去った。
「はじめは疫病神かと思ったら、ありゃとんでもねえ福の神だったんだなあ」
それを見送る中年の男は、暮れゆく街並みを背に、いつまでも赤い車体に手を振り続けた。
「さぁて次の物件は……これはまた、直し甲斐ありそう」
高速道路に乗り、次のワクワクを目指して加速する。
厚木から東京へ、テールランプの赤い光の間を縫いながら、自然と口角が上がる。
自分の役割がある。
自分の使命がある。
今はそれだけで、十分すぎるほどに幸せだった。
疫病神の蝙蝠。
最初の顧客に言われたこの皮肉が、今は自分の心の支え。
ありとあらゆる人に、目には見えない情報を配達するのだ。
もっと、みんなに伝えなきゃ。
本物の幸せは必ず、不幸が連れてくるのだと。