禁煙することは、全く苦ではない
間もなく駅に到着するとアナウンスが流れたので、座席を立ちドアの前に立った。電車がホームに入ったところで、腕時計に視線を落とした。
十時十五分。乗り換えのバスの発車時間までは十五分。一服する時間くらいはとれそうだ。そのためには、電車を降りてすぐにタバコの吸える場所を探さなければならない。十五分は微妙な時間だ。
駅舎から出てコンビニの看板を見つけた。店頭に灰皿を探したが見当たらない。
次にバスターミナルの片隅に喫煙スペースがないか探したが、ここも見当たらない。最近の街は愛煙家に冷たくなった。
駅の反対側に移動した。駅直結の百貨店があったので中に入ってフロアガイドを見た。思った通り九階のレストラン街の隅にトイレのマークと並んでタバコのマークを見つけた。
急いでエスカレーターを駆け上がった。九階について天井から下がる案内板でタバコのマークを確認する。案内板のとおりに進んで、やっとトイレの横の喫煙スペースにたどり着いた。ここは愛煙家にとってのオアシスだ。
喫煙スペースの中に入り、ポケットからタバコの箱を取り出したところで、嫌なことを思い出した。
ここにくる電車に乗る前だ。喫煙できる喫茶店を見つけてテンションが上がった。
電車まで時間があったので、その喫茶店に入った。思いっきりタバコを吸ってやろうと何本も吸った。箱に残っていた最後の一本にも火をつけたから、今、この箱の中にタバコは残っていないはずなのだ。
さっきのコンビニの前で、なぜそれを思い出さなかったと自分に腹が立った。タバコの空箱を握りつぶし、喫煙スペースから飛び出した。九階から一気にエスカレーターを駆け降り、コンビニに向かった。
コンビニでタバコを買って、百貨店の九階に向かおうとした時、バスターミナルに停まるバスを見て、もっと重大なことを思い出した。タバコを吸ってる場合ではなかった。
三十分発のバスに乗って行くところがあったのだ。今日、ここに来たのはそのためだ。三十分発のバスに乗らなければ、完全に遅刻してしまう。
腕時計に視線を落としたら、ちょうど時間は三十分。腕時計からバスに視線を移すと、バスはまだ停まっていた。バスに向かって猛ダッシュした。
もっと早く思い出すべきだった。バスは十メートル手前でドアが閉まり動きだした。
「待てー、待ってくれ」
右手を振って、運転手にアピールした。運転手は気づかない。バスはそのまま走って行ってしまった。
赤く灯るバスのテールランプを眺め頭を掻いた。
気を取り直して、次のバスの時間を確認した。次も十五分後だった。一服する時間はあるなと、ポケットのタバコと百円ライターを確認した。
「よしっ、タバコ吸お」
百貨店の九階の喫煙スペースへと向かった。
箱からタバコを取り出し咥えた。ライターで火をつけ思いっきり煙を吸いこんだ。肺に目一杯の煙を感じ、タバコの先を眺めた。
灰皿に灰を落としてから、「フゥー」とゆっくり煙を吐いた。立ちのぼる煙を眺めた。
「なるほど、それで遅刻したというわけですか?」
「はい、どうも、申し訳ありません」
「交通機関の遅延や、本人の体調不良などで面接に遅れる方は、これまでにいましたが、タバコを吸うためにバスに乗り遅れて遅刻したという人は、あなたがはじめてです」
「そうですか。すいません、どうしても吸いたくなって、バスの発車時間のことを忘れていました」
面接官は苦笑した。
「これまでにもこういったことはありましたか?」
面接官が少し笑みを浮かべて訊いた。
「こういったこととは?」
首を傾げた。
「ええ。今回みたいにタバコが吸いたくなって、時間を忘れて、大切な何かに遅れてしまったようなことですが」
「あ、あー、そうですね。前の職場でもちょくちょく遅刻はありましたね。あと、取引先との約束に遅れて怒られたことはあります。なんせ、昔と違って喫煙スペースが少なすぎて、探すのに一苦労なんです」
「ほんとあなたは正直な方ですね」
面接官は呆れるように言った。
「まっ、そうですね。嘘をつかない。それが取り柄ですから」
「遅刻することで、周りに迷惑をかけるという風には思いませんか?」
「もちろん、思ってますよ。次からは注意しようといつも思ってます」
「でも、また今日もやってしまったわけですよね」
「そうです。それは申し訳なく思っています。次からは絶対に遅刻しません」
「禁煙しようとは思わないんですか?」
「そりゃ、思います。禁煙した方がいいかなってね。経済面や健康面のことを考えてもそうですし、今回みたいな遅刻もなくなりますからね」
「あなたを採用するかは、まだわかりませんが、もし採用させてもらう場合の条件として、あなたが禁煙することを条件にさせてもらってもよろしいですか?」
「もちろんです。今日もタバコのせいで、ご迷惑おかけしてますから、その条件をのみます」
「でも、あなたはそんな簡単に禁煙できますかね?」
「大丈夫です。禁煙することには全く苦ではないです。禁煙する自信があります」
胸をはって答えた。
「あなた、禁煙は苦ではないんですか?」
面接官は首を傾げた。
「ええ、全く苦ではないです。実はこの半年間で、すでに二十回は禁煙やってますからね。だから、いつでも禁煙は出来ます」
「そ、そうですか」
「ええ、任せてください」
次の日に『不採用』の通知が届いた。