ビンタと頭突き
「平岡ッ!! いい加減にしてっ! 言うこと聞いてっ!!」
茶色の物体を奪い取ろうと必死に手を伸ばす鈴木。
人の話を聞いているのか聞いていないのか、平岡はケタケタと楽しそうに笑いながら、取られまいと必死に逃げ回る。
このままでは埒が明かないと思った鈴木は、くすぐり作戦にでた。
「ギャアアッ!! きゃッはッはぁああ~ッ!! きゃッはッはッああああああ~ッ!!」
脇腹をこちょこちょされて、たまらず身をよじった平岡は、笑い転げて芝生の上へ倒れ込む。
「きゃあ……ッ!」
平岡にもたれかかっていた鈴木も、一緒に倒れ込んでしまった。
すかさず起き上がり逃走を図る平岡。
鈴木は、逃がすまいと黒ズボンの裾を掴んだが――、
ビリリ!
(あっ!?)
無情な音を立ててちぎれてしまった。
手にしたズボンの切れ端を見て、やっちゃったどうしよう申し訳ないと思ったのもつかの間。
片脚だけ短パンになってもケタケタと笑いながら逃げ去っていく平岡を見て、今はそれどころじゃないとすぐさま跳ね起き、後を追った。
「待てえええ~ッ!! 平岡あああ~ッ!!」
「キャアアアアア~ッ!! ぎゃははははぁああ~ッ!!」
全力で疾走した平岡は、グラウンドの端にある木の裏に隠れると、こっそり例の茶色い物体をまた一口かじった。
隠れているつもりなのだろうが、木の幹から身体がはみ出しているので鈴木には丸わかりだった。ていうか隠れるところも見てた。
そうとは知らない平岡は、口の中でガリガリと咀嚼しながら、鈴木の様子を確認しようと木の陰から顔をのぞかせる。
が、目の前に鈴木が立ちふさがっており、バッチリ目が合ってしまった。
ビクッとした平岡はまた木の後ろに引っ込み、反対側から逃げようとする。
だが鈴木も素早く反対側へ回り込み、道を塞ぐ。
平岡はまた逆側へ。
鈴木もまた逆側へ。
二人は真剣だ。
一本の木を挟み、右へ、左へ、左へ、右へ。途中、フェイクもかけたりしながら反復横跳びみたいに大忙し。
鈴木が足を滑らせて体勢を崩した一瞬の隙に、平岡が木の陰から飛び出したが――、
ビリッ! ビリビリビリッ!
「うわあッ!」
「きゃあ!」
執念で伸ばした手がシャツの裾を掴み、二人はもつれ合うようにして激しく転倒した。
平岡の白いシャツはちょうど乳首のあたりで派手に千切れてチビシャツになっていた。倒れた時に顔面を豪快に地面に打ち付けたというのに、それでも茶色いやつだけはラグビーボールのように両手で掲げ、守り抜いていた。
すぐさまくるりと仰向けになり、頭を起こして、自分の足元を見る平岡。
足元のほうでは、鈴木がちょうど起き上がろうとしていて、二人はピタリと目が合った。
すると平岡は、いたずらっぽくニヤニヤして、大事そうに両手で掲げていた茶色いやつを、口元まで下してパクッと大きくひと齧り。
モグモグと食べ始めたではないか。
その表情はあきらかに、鈴木の慌てる反応を期待していてこれから笑う気満々ていう顔だった。
その憎たらしい顔を見た間瞬――。
鈴木の中で、何かがブチッと切れた音がした。
勢いよく起き上がった鈴木。
ドスンと平岡の股にまたがると、左手で胸元をグイと鷲掴みだ。
それから右手を高く振り上げて――、
バチンッ!!
思いっ切りビンタをお見舞いした。
吹っ飛ぶ茶色い物体。
本気でブチギレた鈴木の凄まじい剣幕に、平岡は驚いて目を丸くして、口元に両手を構えたまま固まってしまった。
口の中にはご飯がたくさん入っていて、ほっぺがパンパンにふくらんで、おまえはハムスターかと言いたくなるような感じで停止している。
そんな平岡の頭を、鈴木は両側からガシッと鷲掴みにすると、ぐいっと持ち上げて自分の顔に引き寄せた。
ギロリと大きく見開いた眼で瞳孔を覗き込む。
「出せ」
いつもの鈴木からは想像もつかない、低く、腹の底から絞り出すような声。
平岡は、目を丸くして見つめ合ったまま固まって動けない。
「口の中の物を今すぐ吐き出せ。全部」
鈴木はさらにドスを利かせ顔を近づける。
重苦しい威圧感が平岡の全身を金縛りのように縛りつけていく。
「はやく」
まだ平岡は固まってる。
「おい、平岡」
(……きれいだ)
恐怖で固まっていた平岡は、いつの間にか別の意味でなんだか緊張してきていた。
至近距離で見る鈴木の瞳に見惚れていた。
ガラス細工のように透き通った角膜。
火星の地表みたいな虹彩。
その中心にぽっかりと開いた丸い漆黒の闇は、まるで光を吸い込むブラックホール。
『深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ』
どこかで聞いたその言葉が、ぼーっとした平岡の頭にふと浮かんでは消えていった。
「平岡、聞こえてるのか?」
(息が、当たってる……)
「おい、平岡!」
(……くさい)
「なに固まってるんだ」
(……けど、なんか、……ずっと嗅いでいたいような)
「何か言え!」
(……いい匂いだ)
なんだか緊張した平岡は、頬にいっぱい溜め込んでいたものを、ゴクリと飲み込んでしまった。
「ああっ!? なに飲み込んでんのっ!!?」
「……ㇰゥ?」
「あんた、ホント、バカあ!??」
鈴木は信じられないと言わんばかりに目を見張った。
そして「……はぁ」と深く肩を落とすと、掴んでいた平岡の頭をそっと地面に戻す。
「……もういい。……なんか、もう疲れた……」
吐き捨てるように呟き、力なく立ち上がる。
解放された平岡は、すぐさま起き上がって四つんばいになると、さっき鈴木にビンタされた時に飛んでいった茶色い物体のところに駆け寄って、顔を近づけた。そしてクンクンと匂いを嗅ぐと、手も使わずにムシャムシャと貪るようにして食べはじめた。
それを見た鈴木は、どん引きして言葉を失った。
もはやツッコむ気力すら残っていない。
「……もう好きにして」
鈴木は一人、収納ケースの置いてある場所へ戻ると、黙々と後片付けを始める。
芝生に散らばったご飯粒やら昆布やらを拾い集めてケースの中に入れ、パチンと蓋を閉める。
風呂敷をパッと広げてその上にケースを置き、きれいに包みながら端と端を結び合わせる。
その時だ。
鈴木の二の腕の辺りに、誰かが頭突きをしてきた――。




