第四十二話 君の名前は?
「そんなの三沢ミチルに決まってんじゃない」
そう、天野ミチルはこの約四年間の記憶をすべて失っていたのだ。
◇
一ヵ月後の五月。
数年間の記憶を無くしたミチルは、しばらく大学を休学することとなった。
京都市左京区北白川通りのマンションを引き払い、ここO県の実家に戻って来たミチル。神経内科の医師による診断は『偏頭痛とストレスによる長期記憶障害』。現在、自宅療養で地元の総合病院にて通院治療を行っている最中だ。
ある日、僕と聡史は病院の前でミチルが出てくるのを待ち伏せした。
例の一連の夢物語における『最大の疑問』を確認するために。だから彩音はこの場に連れてこなかった。
「淳、来たぞ」
「うん」
病院の出入り口から出てくるミチル。
ぼさぼさのショートボブ。よれよれジーンズに地味なトレーナー姿。身なりもお構いなしだ。せっかくの美人が台無しである。
僕らは足早に、彼女の前へと歩み寄った。
「ジュンくん、サトシ……」
◇
病院傍のファミレスに入り、窓際の一角を陣取る。平日の昼下がりなのでひと気は少ない。
聡史と僕が横並びに座り、対面にはミチルが座る。僕らはドリンクバーの飲み物を各々取りに行くと、彼女の知らない近況を伝えた。
「へえ、サトシはO大学理工学部の三回生か。志望校に合格できて良かったじゃん。おめでとう、なんか入学のお祝いしなくちゃね」
「ああ、ありがとう。それよかさ」
「ねえ、それより天野さん」
「なにジュンくん、ていうか……そのお母さんの苗字で呼ばれるの、どうも聞きなれないんだけど」
露骨に無粋な表情を見せるミチル。
「あ、ごめん。じゃあミチルちゃん」
ぷっと吹き出すミチル。
「それ、もっと聞き慣れないんだけど。うけるー」
ミチルの失礼な態度を受け流し、僕は『最大の疑問』を問い質した。
「あのさ、君にひとつ確認があるんだけど。美緒は生前『ミチルとは友情の証としてLINEパスワードの交換をしてたの』って僕に言ってたんだ。それって本当なの?」
僕は京都での一件を回想した。
【「元々、高一のときからお互いにLINEのパスワードを教えあってたんよ。だからみおも、アタシのを知ってた。ふたりの友情の証っていうか……自分たちにもしものことがあったら、家族とかにLINE見られるの恥ずかしいから……『お互いにパスワードを使ってLINEアカウント消去しようね』って」】
今の療養中の彼女に対して「君が『みお』を演じていた」と真相を告げるのは、流石にはばかれる。だからすこしアレンジを加えて聞いたのだ。
パスワードの交換。親友同士の友情の証だからと言って、やっぱり常識的に考えて普通ありえない。それが、あの夢物語に残された最大の疑問なのだ。
ミチルは口を歪めて言った。
「みおにLINEのパスワード? そんなの教えるわけないじゃん」
「…………」
「常識でしょ? 親友同士だからって、そんなのありえないよ」
ズズズと音を立て、オレンジジュースを飲み干すミチル。
横の聡史が問い質す。
「じゃあミチル、おまえも織原さんのパスワード知らないんだな?」
「みおのパスワード? そんなの知ってるわけないよ」
ミチルが無骨な態度で言う。まるで高校時代と変わらない口調で。
「まったく、やれやれよ。だからそんな当たり前のこと何度も言わせないでよね、ふたりとも」
僕と聡史は、顔を見合わせ生唾を飲み込んだ。
「ねえ、それよかさ。うちらの美術部LINEグループ、知らない間になんかめちゃ盛り上がってたみたいだけど。あの『みお』って誰なの? やっぱ、正体はおねえさん? 遺族だったら美緒のスマホを未だに持っててもおかしくないしね」
ミチルが興味深げに目を輝かせる。
「それとも、もしかしてサトシが作ったAIとか? だとしたら凄いじゃん。ノーベル賞取れるよ」
「聡史、これって……」
「ああ……」
僕らはアイコンタクトで互いに心の中の疑問を確認した。
――じゃあミチルは、どうやって『みお』のパスワードという鉄壁の牙城を突破したんだ?
僕は夏祭りの花火大会で、聡史が言っていた台詞を回想した。
【「淳は知らないだろうけど。むしろ卒業前までの方が、よっぽどアイツらしくなくておかしかったよ」】
四年前の七夕の夜。親友の美緒を亡くし、しばらく情緒不安定な状態が続いたミチル。その不幸な事故から卒業するまでの一年半。そして、京都で大学デビューしてからの陽気なおちゃらけキャラ。
どうしてミチルは美緒のお通夜の席で気絶して以来、二度も別人のように性格が変わってしまったのか。まるで何かに取り憑かれたかのように、芝居を演じる女優のように。
そう、この四年もの間、僕らがミチルだと思い込んでいた彼女は――。
天野ミチルを演じていたのは、一体誰だったんだ?
(次章へ)





