第一話 箱の中の猫 ~Prologue
『どうか親切な人の元へ届きますように』
梅雨の日の夕暮れ時。
僕は黒い傘を挿しながら、バイト帰りの線路沿いを歩いていた。
ふと、線路脇の覆い茂った草むらに視線を落とす。
すると灯り始めた街灯の光の先に、小さな白いダンボール箱がひっそりと置かれてあることに気が付いた。
足を止めて箱に目を配ると、表面には『どうか親切な人の元へ届きますように』と黒いマジックで書かれてある。
その脇には可愛らしい子猫のイラスト。どうやら捨て猫だ。
先日から降り止まぬ雨模様。そのせいか箱は随分と萎びている。跳ね返りの土で汚れてみすぼらしい。
吹きすさぶ風が服を塗らす。すこし肌寒い。
傘を持つ薄手の長袖シャツの腕の辺りや襟元をさする僕。
細い首筋と細い肩と腕。我ながら頼りなさげだ。
電車が横切る。軋む線路の音が耳に痛い。湿った風圧が僕の長い前髪を乱す。
くすんだオレンジ色の遠退く車体を追い掛けるように、今度は背後から迫り来る排気音。
びしゃりと水しぶきが、捨て猫を入れた箱と僕のジーンズに掛かる。
通り過ぎるテールランプを僕は睨んだ。
狭い路地なのにスピードの出しすぎだ。
まったく、ただでさえ今日は機嫌が悪いというのに。
帰り際、バイト先のコンビニの店長に『君、客商売に向いてないんじゃない?』と小言を言われたばかりだ。
電車、車、徒歩。みんな同じ方向へと平行線を進んでいる筈なのに。
こうやって歩行者である僕だけが追い越され、雨に濡れ風に吹かれて不快な思いを被っている。
沁みたスニーカーが、更に苛立ちを助長させる。靴下までじっとりだ。
濡れた前髪をぬぐう。ちょっと長すぎて不衛生に見えると、いつも店長に指摘されている。
僕は身をすぼめながら、眉をひそめて口篭った。
「誰かに見付けて欲しいなら、もっと目立つところに置けばいいのに」
線路沿いとはいえ、周囲にひと気の無いひっそりとした場所だ。
中央線のない道路に、車だけがまばらに行き交う。
どうにかしてあげたいが。我が家は母さんとふたりの狭いコーポ暮らし。
だからペットは飼えない。ぼっちな今現在の自分には「誰か貰ってくれない?」と声掛けする友達も職場の仲間もいない。
「それに――」
それ以前に、箱の中から子猫らしき鳴き声が聴こえない。
捨て猫は生きているのか、それとも既に息絶えているのやら。
安否を確認したいところだが、恐くて身が竦む。
まるで、あの時の自分と同じように――。
「箱の中の猫……か」
ふと以前、聡史が言っていた『猫』の話を思い出す。
『なあ、淳。これは量子力学における「シュレーディンガーの猫」っていう思考実験の定理なんだけど――』
理屈っぽい彼の言うことだ。難しいことは理解し難いが――。
『50パーセントの確率で毒ガスの出る装置とともに、猫を箱の中に閉じ込めたとする。イコール箱の中には、「死んだ猫」と「生きている猫」が五分五分の確率で存在すると定義付けられる。蓋を開けてみないと生死は分からない。いわゆる生と死が同じ世界で並列に重なり合っている状態だ』
なのだそうだ。
『重なり合っている状態は蓋を開けて観測した瞬間に、はじめて「猫が生きている状態」か「猫が死んでいる状態」のどちらかに収束し、その時点で世界線が分岐する。つまり猫が生きている世界と死んでいる世界を決めているのは、蓋を開ける俺たちなんだ』
分岐する世界線。いわゆるSF映画やアニメなどで言われるパラレル・ワールド、並行世界ってやつだろうか。
聡史とは高校時代、同じ美術部の仲間で友人だった。
すこし理屈っぽくてキザな面はあったけど。優等生でスポーツ万能で社交的、おまけに背が高く甘いマスクで女子からの人気も高かった。
現在は地元国立大学理工学部二回生の筈。絵に描いたような勝ち組エリートだ。
対する僕は大学受験に失敗し、今では冴えない負け犬フリーター。
彼とはもう随分と会っていない。進む道が大きく異なってしまったせいもあるのだが、それ以前に――。
『全ての事象は観測された瞬間に確立される。しかも、こうやって各瞬間ごとに枝分かれする世界というのは無数に存在するんだ。だからさ、淳。きっと――』
放課後、校舎の屋上。足元に長い影を落とす秋空の下で。
久しぶりの再会だった。
あの時、僕は聡史と美術部の部長であるミチル、後輩の彩音の三人に呼び出された。
僕の肩にそっと手を添えながら、遠い目をして聡史は言った。
『分岐された並行世界で、きっと織原さんは生き続けている』
美緒の居ないこの世界を、抜け殻のように彷徨う僕に向かって。
理屈っぽげな慰みの言葉だ。分かりにくくて回りくどくて、実に彼らしい。
そうやって理系な自分自身に、大切な仲間を喪ったという受け入れがたい現実を、無理やりに理屈で言い聞かせていたのだろう。
聡史の横で、ミチルは無言でまっすぐに僕を見つめていた。
野暮ったいショートボブで飾りっ気のないミチル。
いかにも真面目そうな彼女は、美緒の親友だった。
あの時のミチルの眼鏡の奥の潤んだ瞳が、今でも目に焼き付いて離れない。
その数ヶ月前。たしかあの日も、こんな薄暗い梅雨の夕暮れ時だった。
あの時、僕らは白い棺の蓋を開けなかった。
開かなければ、生死を確認できない。世界は分岐されない。
開けなければ、僕らの世界はひとつの命を亡くした事実を決定付けられない。
だから――。
「ごめんな」
僕は箱の中身を確認せず、雨の線路沿いを立ち去った。
◇
三年前の高校二年生の夏。僕らは美術部の仲間である織原美緒を失った。
死因は部活帰りの交通事故、即死だったそうだ。
彼女は僕、星野淳の幼馴染でもあった。
通夜の席で彼女の眠る棺の前に立った時から、美緒を失ったあの瞬間から。
世界は止まった。僕の時間は、完全に凍り付いてしまった。
僕だけじゃない。クラスメイトだった聡史は大粒の涙を流し、美緒を姉のように慕っていた後輩の彩音は泣き崩れた。
部長で彼女の無二の親友だったミチルに至ってはショックのあまりか、その通夜の場で気絶してしまった。その後のミチルは情緒不安定な状態がしばらくの間、続いたそうだ。ちょうど同時期に重なった、家庭環境の変化による複雑な事情もその原因だったのかもしれない。
その件をきっかけに、僕は美術部を辞めた。当時の部活の仲間たちとは次第に疎遠になって行った。
親友の佐山聡史だけでなく、天野ミチルや川瀬彩音とも。
すべては僕自身が、心を固く閉ざしてしまった結果である。
美緒の三回目の命日を間近に控えた今。
この時の僕らはまだ誰も、夢にも思っていなかった。
数日後の不穏なLINEメッセージをきっかけに、僕らの失われた歯車が再び回り始めることになろうとは。