色々失う帰り道
「箱を作る。離れていろ」
サメを連れてきた以上、最悪の状況に見舞われた場合、"いぇぬびーの箱"を使う事も視野に入れていた。だが、用水路のごみ止め柵からの脱出の為に、宇宙を捻じ曲げる必要があるのだろうか?
「いいよ」
少なくとも、橋の上に置いていた買い物袋を回収して、サメから距離を取ったフタハはありと判断した。
いぇぬびーの箱は作られた。
中身のない立方体から無いはずの中身が取り出され、騙された宇宙は次元軸上に一列をなして、渡るものにその数をカウントさせる。
いぇぬびー崩れ発生時特有の形容不可能な音が四方に響き、埋め切れない矛盾から発生するみしたも放射は、ごみ止め柵と橋を直撃し、大げさなアーチ橋へと組み替える。欄干のかがやきはうごめくLED。強力な余波が、舗装の石畳と周辺道路をパステルカラーに染め上げる。最寄りの電柱は火を噴き夜空の彼方へ。地面から現れる代替品の巨大鉄塔は、控えめに1車線を占有した。
吹き抜ける風も、みしたもの衝撃波。道に積もった毒埃を吹き飛ばすついでにフタハの服を乾燥させ、髪にかかるパーマはゆるふわ系。
再び自由を取り戻したサメは、用水路を飛び出すと空中に海を掴み、鉄塔の隙間をくぐり抜けて、頭を抱えてしゃがみこむフタハの横に着陸した。
「……サメ」
フタハはカラフルになった石畳に両手をついて顔を上げる。押さえるものがなくなった髪がふわりと広がった。
割と似合っている。
それよりも、予想外の規模で発生した、みしたも汚染の方をどうするべきか。そう言って惨状に目を向けるサメ。
この道路の常連であるフタハは、元からこんな感じだったから問題ないと返す。一度だけ背後を振り返り、微妙な顔で「多分」と付け足しながら。
旅立った電柱は未だ星のない夜空に輝いている。
再びサメを小脇に抱えて歩き出したフタハは、いよいよ喋る話題がなくなってきたのか、サメとしりとりをしながら、用水路とは反対側の歩道を歩いていた。例の一件にこりて、サメを泳がせるのはやめておくことにしたのだ。
どのみち用水路は、この辺りで歩いてきた道路と交差する道路に沿って曲がって行くので、使えない。
サメの背ビレにひっかけられた買い物袋が、フタハの歩調に合わせて、わさわさと音を立てていた。
アパートはまだ遠い。
それに気づいたのは、サメの方がわずかに早かった。
高速で接近する2つの光源は車のヘッドライトであり、その勢いは収まることなく、まっすぐフタハたちに向かってきていた。
車はガードレールが無いのを良い事に、片側のタイヤを歩道に乗り上げたまま、突っ込んでくる。
運転手は何をしているのか! 否。運転席は存在しない。
これは、トラックから運転席部分を取り除き、荷台を前部まで延長した、フルフラットの全自動車なのだ。
全自動車は、目的地を入力するだけで後は勝手に走って行く優れものだが、OSの問題で長時間起動させると暴走のリスクがある。
最近急増した悪質なブラック運送会社は、全自動車に一定時間ごとの休憩を与えることなく働かせ、結果、交通事故の一定割合を確保するまでになっていた。
ブラック会社所属の全自動車がカーブを曲がりきれずに崖下に転落した一件を、労働車の自殺として取り上げたニュースは記憶に新しい。
そしてこの全自動車もまた、ブラック会社所属であった。
サメは体をひねって、尾ビレの一撃でフタハを反対車線まで叩き飛ばし、自身はその反動で歩道の向こう側にある空き地へ飛び込もうとした。が、非常に残念な位置に生えていた電柱に弾き返され、あろうことか暴走車の荷台に転がりこんでしまう。
物言わぬ労働車は、荷台側面の液晶タッチ式操作盤のブルースクリーンを輝かせながら、サメと買い物袋を乗せて、闇の彼方へ走り去ってしまった。
上体を起こしたフタハは、なすすべなく全自動車を見送り、買い物袋は左手で持っておけばよかったなぁと思った。
「おねえちゃん? もしもーし、どうしたの?」
聞きなれた声にフタハが振り向く。
サメに叩き飛ばされたときに落としたのであろう携帯端末が、無線通話状態になっていた。
フタハは、服についた粉状アスファルトをはたいて、路上に転がった携帯端末を拾う。
「なるちゃん? ごめん。間違い電話」
「何で? おかしいでしょ? こんな時間だよ。丑三つ時も終わっちゃったよ」
「寝返りうったら携帯端末を落として……」
「うっそだー。インドアーなおねえちゃんが、空白地帯でキャンプなんかするわけないよ」
携帯端末から位置情報を知られていた。
フタハは、サメを連れて買い出しに行った帰りである事を話すと、こんな時間にわざわざ遠くの店まで買い出しに行くのは、不良のすることだと怒られた。
「でも、サメに散歩させてあげるのはえらいと思うよ。えらいえらい。あ、あとその髪型も似合ってるよー」
「え、なんで髪の事まで?」
「んー、ヒントはおねえちゃんから見て正面の塀の上です」
正面にあるのは、3メートル程の高い塀に囲まれた、新しい2階建ての1軒家。その塀の上に取り付けられた防犯カメラが、フタハをじっと見つめていた。
「ここ、なるちゃんの別荘?」
「ちがうよ。今カメラだけ借りてるの」
俗にいうハッキングである。
思えば、なるがネットゲームのランダムマッチングで、狙ったようにフタハの対戦相手として参加していたのも、あるいはそうなのかもしれない。
ならば、その能力を生かして、逃走した暴走車を何とか連れ戻すことができるのではないだろうか。
フタハはダメ元で聞いてみた。
「まかせて! そんなブラック会社、必ず廃業に追い込んじゃうから」
なるの返事は、大変良いものだった。
そこまでしなくても、アルコール飲料とつまみとついでに、サメが戻ってくれば良いのだが。
「なるちゃん、あの……」
「安心して! 責任者の一族郎党には二度と朝日は拝ませないよ!」
それは、地下に引っ越してもらうとかそういうものだろうと解釈したい。
「いや、そうではなくて……」
「あ! そっか、そうだよね。つるんでた取引先も潰しておかないとね。経済的に叩く? それとも物理?」
物理とは?
「えっと……」
「まだ足りない? 言ってくれればついでに潰すよー」
「あ、もういいです」
これ以上何か言ったら被害が拡大しそうなので、フタハはそっとしておくことにした。
電話越しに、なるがネットゲームで勝っているときに良く口ずさむ"恋するMLRSの歌"(作:なる)と、何かの機械が動く音が聞こえてくる。
買い物袋とサメを回収する話が出なかった以上、今夜の晩酌は、もうあきらめた方がいいかもしれない。
フタハの目からノンアルコールの水分がこぼれた。