いぇぬびーの箱と消えたシベリアウルフ
ドッグカンフー。
それは、秋になると里に下りてくる人畜有害なヒツジから、市民とその財産を守るために、大陸のウォッチドッグが編み出した格闘術。
2本の後ろ足で立ち上がった状態から、前足でヒツジの攻撃を捌き、必殺の後ろ回し蹴りを繰り出すのが基本のスタイルだ。
「そして極めれば、あのアーバンワイルドキャットアーツにも後れを取らないと言う!」
ドヤ顔で解説する、なる。
フタハは、なるほどなあと言って、なるほどでない表情を浮かべた。
理解できないのも仕方がない。
ヒツジは、4本の角が生えた3つの首と、47本の足と、全長17メートルにも達する巨体を持っている。ウォッチドッグごときが、格闘術を身につけたくらいで、対等に戦える相手ではないのだ。
だが、現実にウルフの後ろ回し蹴りは、トラックの荷台を煎餅みたいに割ってみせた。本来はドッグ用だったものを、何の因果かウルフが習得したことによって生み出された圧倒的な火力があったのだ。
おかげで、サメはさっきから防戦一方である。
なるは腕を組んで、しみじみと言った。
「ビースト和尚も、カケジクに封印するわけだね」
和尚はビーストではない。
「何で、もっとしっかり封印しておかないんだ和尚」
まるで他人事のように文句を言うフタハの元に、背中からもくもくと煙を上げながら、サメが這ってきた。
キャリアーを壊されたのだ。
これをやられると、本来陸上生活に向いていないシャークは、まともに身動きをとることができない。
余談だが、陸上呼吸機と翻訳機、そしてこの移動補助装置であるキャリアーは、フィッシュの陸上生活必須装備と呼ばれている。
フタハが叫んだ。
「サメ!」
「まだだ。水中において、シャークがシャーク以外に敗れる事は無い」
サメはそう答えるが、ここは陸上だ。
ウルフは、散らかった3等市民の山を飛び越えて、こちらにやってくる。口元にニヤリと笑みを浮かべて……
<シベリアウルフ:回想>
――最初は、シベリアの寒さに耐えかねて。次は、働けども働かずとも苦痛を排することのできない世の中に耐えかねて、逃げた。そして、大陸の山奥の山奥の、さらに山奥のとある寺院で、世界の真理を見つけたのだ。このドッグカンフーと共に。
結局は、強さがすべてだ。金持ちの特権階級市民どもも、世界政府を裏で操る世界動物労働協会も、そいつらが勝手に決めた特別動物も、強さでこの世を支配している。
だから自分も、周辺の町という町を片っ端から力で支配していった。気に入らない強者共に、交代の時が来た事を知らせてやるために――
「残念だったな! どういうつもりで俺を解き放ったのかは知らないが、貴様らの思い通りにはならん!」
「おなかが減っているのかな?」
なるは、ウルフの言葉がわからない。だが、この見解は案外正解なのかもしれない。
ウルフは「手始めにそこの2人とシーフード1匹を俺のゴールにダンクシュートだ」などと言いいながら器用に2本の前足でポーズをとって見せた。
残念なことに、フリースローの動作だ。
ウルフとフタハたちの中間に転がるサメは、少し時間を稼げと、フタハに目配せする。絶体絶命の無茶振りだ。
フタハは、チラッと、先程までレイザア伯爵のいた場所を見る。
可愛らしいタイガーのぬいぐるみが、小さなティーカップを持って、座っていた。
ぬいぐるみの首に巻かれたスカーフには、きれいな筆記体で"健闘を祈る"と書かれた、メッセージカードが挟まれている。
フタハはきょろきょろと辺りを見渡すが、もう誰も残っていない。振り返ると、なるがにこりと笑顔を向けてきた。
行け。という事である。
フタハは、特別な身体改造を施されていない普通の人間だ。それでも、苦笑いを浮かべてうなづくと、サメをまたいでウルフの前に立ち、こう言った。
「あー、あれだ。私のいぇぬびーで2次元の生活に戻りたくなかったら、今日はこのくらいにしておいたらどうか?」
フタハは気づいたのだ。
先程からウルフの言葉がわかることに。そして、仮にサメと同じで双方向に言葉が通じるのなら、なんらかの交渉が可能かもしれないと。
ウルフは超常的な力でカケジクに封印された経験があり、今もその力を恐れている。ならば、それっぽい超常的な力の名を口にすれば、なんらかの反応があるのではないか!
もし当てが外れたら、まずはそこに転がっているサメを盾にして、ウルフがそれを食らっている間に部屋に逃げ込む。ウルフが部屋に入ってきたらアパートに火をつけて、窓から部屋を脱出し、今夜は焼肉パーティーだ。
とでも考えたのだろうフタハは、不敵な笑みを浮かべ、震える手でサメを盾のように構えていた。
ウルフは襲いかかって来なかった。
フタハの妄言を信じたのか、本能が恐怖したのかはわからない。
"いぇぬびー"なんてものは一般人が聞けば、旧時代に宇宙からもたらされたオカルトだと、笑うだろう。だが、笑っていられるのは本物を目にしたことがないからだ。
「おねえちゃん……」
「いや、嘘だから! 通報とかやめてよ!?」
フタハは即訂正した。
いぇぬびーは間接的に旧時代を終わらせた忌むべき力なので、これに関わる事は犯罪なのだ。
しかし、なるから返ってきたのは予想外の言葉であった。
「やるなら十分距離をとってね。サメが作ってる、いぇぬびーの箱と共鳴すると危ないから」
フタハの両手からサメがこぼれ落ちた。
いぇぬびーの箱とは、旧時代に使われていたとされる、いぇぬびー兵器の事である。
地面に横向けに転がったサメは、逃げ出すフタハの背中に礼を言い、なるを遠ざけるために、翻訳機のスイッチを入れると、『箱を作るので離れてください』と伝えた。
いぇぬびーの箱は作られた。
中身のない立方体から無いはずの中身が取り出され、だまされた宇宙は12分割された全チャンネルで踊りだす。
いぇぬびー崩れ発生時特有の奇妙な音が4方に響くと、埋め切れない矛盾から発生する、みしたも放射が、近くにあったトラックをトラック以上にする。
地面と混じりつつどろりと溶けた車体だったものからは、見たこともない植物が色とりどりの花を咲かせている。
アパートの角から頭だけ出して様子を見ていたフタハは、後ろから同じく様子を見ようと出てきたなるに押されて、前のめりに倒れた。
逆に、横向きに倒れたままだったサメは、いぇぬびーの海をヒレでつかみ、空中に体を浮かせる。
それは半重力キャリアーを使った水棲生物の、違和感あふれる浮き方とは全く違う。まるで地上60センチの生簀を泳ぐ寿司フィッシュみたいだと、なるは形容した。
にらみ合う二匹の猛獣。
魚肉もありだなと言うフタハ。
先に動いたのはウルフだった。
構えは解かれ、4足歩行のゆっくりとした動作でサメの周りを回りだす。そして、ウルフの姿がぼやけて見えた次の瞬間には、4体のウルフがサメを取り囲むようにぐるぐると回っていた。
これは、緩急をつけた高速移動により発生する残像で分身を見せる、ドッグカンフーの奥義である。
「たかがフィッシュ風情が、あの忌々しい和尚と同じ力を持っているのには驚いたが、お前の力は空中を泳ぐだけで、俺を封印することはできない!」
ウルフは勝ち誇ったように、敗北するキャラクターがよくやる、演出を始めた。
サメは、弱点である腹側を地面につけて、動きを止める。
あくまで冷静なサメに対してウルフは、これならどうだと残像による分身の数を8体へと増やし、次々にサメに襲いかかる。と思いきや、ウルフが攻撃を仕掛けようとする度に、サメが牙をむいて威嚇するので、8体のウルフは手を出しかねていた。
今まで戦ってきた生物で、この動きについてくる事ができるものなど、いなかったというのに。どうして、このフィッシュはついてこられるのか。
そんな苛立ちを見せながらウルフは更に加速した。
実のところ、サメの目でもこのウルフの動きを捉えきれていなかった。だが、シャークは目に頼らずとも、電気的に相手の位置を把握できる上に、空間を海として捉えている今なら、空気の流れからでも、ウルフの器用な動きが丸見えであった。
しかし、サメもまた手を出しかねていた。
こんな高速で動く目標に一撃加えようものなら、自分はともかく、ウルフはウルフの肉に変わってしまうのではないか? 今注文されているのは肉ではなくバターなのだ。
実際、アパートの角から、スポンサーのなるが殺すなとジェスチャーで念を押し、さらにその後ろでは、オーナーのフタハがステーキを食べるジェスチャーをしている。
どうしたものか。
思案しすぎたサメは、ウルフの位置を見失う。
肉眼で確認できるウルフの数は、強化改造されたドッグの物理的限界とされる16体を余裕で上回る、32体に達していた。
32体のウルフは、ウルフではなくなりつつある自身の体に鞭を打ち更に加速する。
ぐるぐる回っているうちに楽しくなってきたのだ!
純粋な強さ? 豊かな生活? 温かい土地? ウルフは、自分にとって本当に必要だったものを、もう思い出せない。
なぜなら、幸せは今ここにあるのだから。
恍惚とした表情でウルフはまだ加速する。
サメが、もうやめろと言うために、翻訳機のスイッチを入れようとした瞬間。ついに限界を迎えたウルフの身体は、どろりと形を失い、サメの周りの地面を白くきれいな円形に染めた。
香ばしい匂いが辺りを包んだ。
「さあ、どうぞ」
エプロン姿のなるが、暖かな湯気の立つホットケーキが5段に盛り付けられた皿を、チタン合金製ちゃぶ台の上に置いた。
食欲をそそる5重の塔の頂上では、"手作りのバター"が部屋の照明を反射している。
フタハは最上段のホットケーキを、フォークに刺して、サメの口に放り込む。
サメは表情を変えることなく、一瞬で飲み込んだ。結構苦労したのに一瞬である。
唖然とするフタハ。ペットを飼う事はかくも大変なのだ。
「おねえちゃん」
フタハが振り返ると、なるが、可愛らしい魚介類のイラストが描かれたフォークにホットケーキを刺して、差し出してきた。
「はい、あーん」
「ん……」
フタハもまたホットケーキを小さく切ると、自分のフォークに刺して、なるに差し出す。
ちゃぶ台を挟んで本日の収穫が交差すると、その天板には上下反転した二人の少し照れた顔がぼんやりと映る。
「「あっ」」
手作りバターはマーガリンの味がした。