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おねがい、ルイス  作者: 五十鈴スミレ
裏側 side.ルイス
8/9

三幕 憎らしいほどに、いとしい



 月日を重ねるごとに、ニーナはさらにきれいになっていった。

 姿形も、心も、いまだ覚めない夢すらも、きれいなまま。

 それはやはり恋とは呼べないだろう。

 純粋すぎる瞳に、僕が彼女に向けるような薄汚れた欲望は見いだせない。

 恋は、彼女が思っているほど、整ったかたちをしていない。


 おねがいルイス、キスをして、と。

 僕のかわいいお姫様はいつも残酷に僕を煽る。

 与えられるキスが、唇でないことに不満を隠そうとしない。

 ねえ、君の欲しいキスはどんなキスなのかな。

 優しいキス、甘やかすようなキス、いたわるようなキス、そっと包み込むようなキス。

 それ以外のキスなんて、きっとニーナは知らない。

 きっと、求めてくれない。


 自分を見上げる瞳の奥に宿る、信頼を砕きたくなったのはいつだろう。

 今まで積み重ねてきた思い出を穢して、今まで大切にしてきた関係を壊して。

 下卑た心のうちを曝け出したとき、彼女はどんな瞳で自分を映すだろう。

 見てみたい、と思う自分がいる。

 死んでも見たくない、と思う自分もいる。

 いっそ泣かせてしまいたい。けれど裏切りたくない。

 ……いとしい、という想いばかりが重さを増してゆく。





「君が何を迷っているのか、僕には理解できないな」


 卿家を継いだばかりのジルは、心底不思議そうにそう言った。

 それが何を指しているのか、わからないふりをするには態度に出すぎている自覚があった。

 同じ卿家の跡継ぎとして、いずれは共にラニアを導いていく同志として交流を持っているものの、どうにも彼は苦手だ。

 彼と一緒にいると、思い知らされる。所詮、僕はできそこないの優等生なのだと。

 天才に年齢なんて関係ない。むしろ、僕のほうが年上だからこそ、余計に惨たらしい。


「そうだろうね、君には」


 僕は苦い笑みをこぼす。

 手に入れたばかりの彼にはわからない。

 ずっと、最初から、無条件に差し出されていたものが、失われる恐怖など。


「信じることは、そんなにも恐ろしい?」


 不躾な、と眉をひそめそうになるのをすんででこらえた。

 どこまで、知られているんだろうか。

 それとも自分がわかりやすすぎるだけなのか。

 こんなことでは、ニーナにも勘づかれてしまっているだろうかと、心配になる。

 彼女の前では、“優しい兄”で、“完璧な王子様”でいたかったから。


「何を、信じればいいと言うんだい」

「簡単なことじゃないかな。彼女と、自分を」


 思わずこぼれた弱音には、正論が返ってきた。

 ああ、彼は本当に簡単なことのように言ってくれる。

 それがどれほど難しいことなのか、きっと彼は心から理解できないんだろう。

 心を取り繕うことなく過ごしてきた彼には、欠片も。


 怖くて、怖くて仕方ない。

 彼女の瞳に宿る思慕が、いつ色褪せるのだろうと。

 子どもの頃から、ずっと想われてきた。

 ずっと、変わらぬ想いを向けられてきた。

 大人の女性へと変わっていく中で、その瞳が変わらないからこそ恐ろしい。

 それは憧れとどう違う? 思い違いをしていないとなぜ言える?


 婚約なんて結ばなければよかったのかもしれない。

 なんの関係も結んでいない状態で、大人になったニーナに愛を告げたかった。

 その求婚を受け入れてもらえたなら、きっとまだ信じることができたのに。

 いつ失われるかわからない想いは、少しも僕を安心させてくれない。


 毎日が天国で地獄だ。

 幸福と絶望は隣り合わせ。いつ反転するかと恐怖していた。


 大好きよ、ルイス。

 彼女の声が、呪縛のように僕を絡みとる。





 だから、ついに来たのだと思った。

 ショーロ家でのガーデンパーティーで、いつのまにか姿が見えなくなっていたニーナが、弟のローランと部屋に連れ立ったと聞いて。

 何もあるわけないとわかっていながらも、ざわつく気持ちを抑えきれず、足早に向かった先で。


「まだ、夫婦じゃないもの……」


 気遣うローランに、ニーナがこぼした衝撃的なつぶやきを、僕の耳は拾ってしまった。

 ニーナは事実しか言っていない。婚約者と夫婦とは天と地ほどの差がある。

 けれど、まるで。

 僕と夫婦になりたくない、と、いう意味に聞こえてしまって。

 あきらめることには慣れていた、はずなのに。

 一瞬にして心を支配したのは、暴力的なまでの、執着心。


「そうだね」

「……ルイス!?」


 開いていたドアをさらに押し開けば、パッとニーナが振り返る。

 その表情からは驚きしか読み取れない。聞かれたくないことを話していたというわけではないようだ。

 それがわかったところで、聞いてしまった言葉を忘れることはできない。

 今すぐ問いただしてしまいたくなる。

 君は、僕のことが好きなのではなかったの? と。


 ――そうだ、僕は彼女の自由を奪う、正当な権利を持っている。

 婚約者、なのだから。


「けれど、婚約者を放って他の男の部屋で二人きりというのは、淑女としてあまり好ましくはないんじゃないかな」

「他の男って、兄さん」

「ローラン、リゼット嬢が君を探していたよ。フィランシエ家は都とも交易のある商家だ。失礼のないようにね」


 返答を許さず、言うことだけを言って、ニーナに向き直る。

 一気に距離を詰めて手首を取れば、反射的にかピクリとかすかに震えた。

 それすらも、今の僕には許しがたかった。


「行くよ、ニーナ」

「る、ルイス……?」


 さすがに何かおかしいと気づいたんだろう。

 心細げに名を呼ばれても、振り返らずに手を引いた。


「……やっぱり、二人ともよく話し合う必要があるみたいだね」


 部屋を出ようとしたところで、背中にそんな言葉を投げかけられる。

 兄思いの優しい弟の言葉さえ、素直に受け止められないほどに、神経が尖っていた。

 すぐ隣にある自分の部屋に連れ込んだのは、無意識に近かった。

 あるいはそれは、誰の目にも留まらない場所に閉じ込めてしまいたい、という本音からだったのかもしれない。

 下種な考えが頭をよぎり、部屋の奥の寝台に一瞬だけ視線を向けた。


「ルイス……」


 ニーナは不安そうな、いっそ泣きそうな声で僕を呼ぶ。

 今、自分がどんな顔をしているのかわからずに、振り返るのをためらった。


「ねえ、おねがいルイス、私を見て」


 切々とした訴えに、僕の心はいとも簡単に白旗を揚げる。

 ああ、こんな時でも君の願いは僕を縛る。

 憎らしいほどに、いとしいニーナ。

 いっそ、一思いに嫌われてしまえば、楽になれるんだろうか。


「ローランと何を話していたのかな」


 こんな声が出せたのか、と自分でも驚くほど冷ややかな声だった。

 ニーナが痛そうに顔を歪めて初めて、強く手首を握っていたことに気づく。

 手を放せば、ニーナの細い手首にはくっきりと赤い痕が残っていた。

 まるで、己の罪を見せつけられたように思えた。

 僕の抱く想いは彼女を傷つけることしかできないと。

 額に手を当てて、細いため息をつく。


「……いや、言わなくていい。君に答える義務はない」

「ルイス……?」

「違う、とわかっている。君はそんなことができるほど不義理じゃない」

「ルイス、何を言っているの?」

「責めたいわけじゃない。きっと、君に非はない」

「ルイス……!」


 何が正解で、何が間違っているのか。

 わからないままにつらつらと口だけが流暢に動く。

 焦るような声は聞こえているけれど、止められない。


「ねえ、ニーナ」


 名前を呼ぶ。

 大事な、大事な。

 特別に呼ぶことを許された、かつての小さな女の子の名前。

 今、僕を狂わせることのできる、一人の女性の名前。


「婚約を、解消しようか?」


 もう、解放してほしかった。

 長い苦しみから。抜け出せない迷路から。

 まっすぐに向けられる好意を失う、絶望から。



 僕はもう、君の夢の終わりを待てない。







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