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おねがい、ルイス  作者: 五十鈴スミレ
裏側 side.ルイス
7/9

二幕 見くびっていた、のかもしれない



「キスをしてほしいの」


 その“おねがい”は、ニーナが十二歳になってすぐのことだった。

 か細い声は緊張からか恥じらいゆえか、震えていた。

 ニーナは大きな瞳をうるませながら、僕をじっと見上げる。

 こんなときでも彼女は、僕が必ず願いを叶えてくれると信じている。それが見て取れる。

 今まで一度だって期待を裏切ったことがないんだから当然かもしれないけれど。

 ニーナの僕を見る目は、恋をする相手に向けるには、あまりに純粋すぎる。


 正直、ついに来たか、という思いがあった。

 姉や周囲の年上の女性に感化されて、色気づいてくる頃だ。

 好きな人には、触れたくなる。触れてほしくなる。それは当たり前の欲求。

 たとえ子どもじみた憧れでしかなくても、ニーナはちゃんと恋をしているつもりでいる。

 発展途上の少女特有の、欲とも呼べないようなかわいらしい興味。

 婚約者という、なんの咎めも受けない関係がそれを助長する。


 子どもらしい丸みを帯びた頬に手を添える。

 彼女の小さな震えが伝わってきた。

 ぎゅうっと閉じられたまぶたに苦笑しながら、僕は顔を近づける。

 触れたのは一瞬。

 ぱちりと開かれた目が、いつもの距離に戻る僕に抗議する。


「……どうして額なの?」


 不満そうに頬をむくれさせるニーナは、やっぱり子どもにしか見えない。

 その頬をつつきたくなるけれど、そんなことをすれば余計に機嫌を損ねるだけだろう。


「ニーナが大人になったら、ちゃんとしたキスをしてあげる」


 つつく代わりにそっと撫ぜると、薄く色づいていた頬はさらに朱に染まる。

 文句を言いながらも、額へのキスですら恥じらいを隠せないらしい。

 かわいいものだと思う。

 まだまだ、恋の機微を知るには早すぎる。


「大人って、いくつになったら?」


 少女はあどけない表情で、無邪気な問いを口にする。

 夢を砕かないよう、僕は微笑みを答えにした。


 その、甘いだけの夢が終わったら。

 きっとそうなればもう、僕のキスはいらないだろうけれど。





 成人の年になってもニーナは変わらなかった。

 変わらず、僕に夢を見ているままのニーナだった。


「これでやっと、ルイスの隣に並んでも釣り合いが取れるかしら」


 ニーナの十五歳の誕生日。

 リーヴ家でのガーデンパーティーで、いつもより着飾ったニーナは僕にエスコートされながらにっこりと笑う。

 ここ数年で身長差も縮まり、ニーナはずいぶんと大人びてきた。

 五年前は大人と子どものままごとにしか見えなかった婚約関係も、今は周囲の目にどう映っているのか。

 わざと考えないようにしていたことを、他でもない彼女から指摘された気分だった。


「ニーナは今までも充分かわいかったよ」


 僕のフォローに、ニーナは頬をむくれさせる。

 いくら歳を重ねても、こうして愛らしく幼い仕草を見るたびに、まだ子どもだと思ってしまうのだけれど。

 無理に大人びてほしくもないから、彼女には内緒にしている。


「もう、そういう意味じゃないわ。私、大人になったのよ?」

「そうだね」

「これからは、大人扱いしてくれなきゃ嫌よ?」


 思わず苦笑してしまいたくなる。

 何が大人だろう。何が大人扱いだろう。

 これほどに、わずかにも変わっていないというのに。

 たしかに身体つきは変わった。声も、所作も、ふとした瞬間に見せる表情も。

 すらりと伸びた姿勢のいい背。子どもらしい丸みから女性のそれへと変化した頬。一本一本が芸術品のような白くか細い指。

 婚約してから五年で、いっそ劇的な変化と言ってもいい。

 けれど。


「僕にとっては変わらずかわいいニーナだよ」


 そう、変わらない。

 かわいいニーナ。妹のような存在。彼女は何も変わっていない。

 成長し、魅力を増し、何もかもが変わった中で少しも変わらない、僕へ向ける想い。

 変わらず、僕を映して輝く瞳。変わらず、僕を好きだと告げる唇。変わらず、僕を癒やす花のような笑顔。

 いまだに彼女は甘いだけの夢から目を覚まさない。


「……ルイスは、ずるいわ」


 ぽつりとこぼされたつぶやきは、僕を責めるものだった。

 半歩後ろのニーナを振り返る。

 うつむいている彼女の表情が確認できずに、なぜか胸がざわつく。


「私、期待してたのよ。ルイスのプレゼント」

「あの花束は気に入らなかった?」

「ううん、とってもすてき。でも、私の欲しいものじゃなかったわ」 


 誕生日に一番にプレゼントを渡せるのは、数ある婚約者の特権のひとつ。

 ピンクに黄色に白、かわいらしく清純なイメージの花束を、ガーデンパーティーが始まるよりも前に贈った。

 そのときニーナは笑顔で受け取ってくれたけれど、どうやら不満があったらしい。


「ねえ、ルイス」


 もったいぶるようにゆっくりと、ニーナは顔を上げる。

 バラの葉のような濃緑の瞳が、まっすぐ、僕を仰ぎ見て。


「私が、一番欲しかったもの、わかる?」


 挑むような強い視線を向けてくる。

 まるで、首に剣先を突きつけられたときのような緊迫感。

 たしかに、見くびっていた、のかもしれない。今さらになってそんなことを思う。

 ニーナが一番欲しかったものなんて、少し考えれば、いや考えなくてもすぐにわかる。


 僕からの“愛”だ。


 誕生日に、異性から身につけるものを贈られること。

 それは、『あなたのこれから重ねる年を私にください』という意味。つまりはプロポーズだ。

 僕とニーナはすでに婚約関係にあるものの、誕生日にアクセサリーや衣装を贈ったことはない。

 今日こそは、と思ったんだろう。

 成人するのだから。大人になるのだから、と。


 直接おねがいされたわけじゃない。

 けれど僕は今日、初めてニーナの期待を裏切ってしまったらしい。


「……いいの。祝ってくれただけでうれしいわ」


 どう返そうか思いつかない僕を気遣うように、ニーナは表情を和らげる。

 不満を押し込めて笑う彼女は、もう、子どもと断じることはできなかった。

 本当の子どもは、どちらだろうか。


「私が、ルイスを好きなんだもの」


 あまい、あまい声が、全身を駆け巡る。

 やわらかく、どこか切なげな微笑みに、ドクンと胸が奇妙な音を立てた。

 好き、と。そんな言葉は今までいくらでも聞いてきたはずだった。

 何が違うのか。何が変わったのか。

 変わらず思慕の情を宿した彼女の瞳に、惹きつけられるのはなぜなのか。


 次に、キスをして、と乞われたなら。

 僕はどこにキスをすればいいんだろう。

 どこに、キスをしたいと、思ってしまうんだろう。

 認めたくない。認められない。認めてしまえばおしまいだとどこかで気づいていた。

 彼女は、妹だ。そのはずだ。妹でいてくれなければ困る。

 けれど。

 そう考えてしまっている時点で、きっと、これはそういうことなのだと。

 自覚と同時に、絶望した。


 いつのまに僕は、“兄”としての道を踏み外していたんだろう。





 一度自覚してしまえば、あとはもう、滝の水が流れ落ちるように一直線だった。

 見ないように、気づかないように、無意識のうちに自制していたんだろう。

 僕を見上げる瞳も、バラ色の髪も、白磁の肌も、彼女を形作るすべてが輝いて見えるようになった。

 これまでどうやって妹だと思っていたのか、すでにわからない。

 僕の目に、ニーナはもう一人の女性としてしか映らなくなってしまった。


「ねえルイス、今年もバラが咲き始めたのよ」


 リーヴ家に顔を出せば、いつものようにニーナが一番に出迎えてくれる。

 花のような笑顔に癒やされながらも、胸が不規則な音を奏で始める。

 バラよりも鮮やかに色づいた唇に、自然と目が吸い寄せられてしまう。


「おねがい、ルイス。ルイスの時間を少しだけちょうだい」


 その唇は、あまい、あまい毒のような“おねがい”を紡ぐ。

 まっすぐ見上げてくる瞳から、無性に目をそらしたくなった。

 深い色の奥には、僕への無条件の信頼が浮かんでいる。

 今の僕は、それを受け止めるだけの余裕がなかった。


「ニーナは甘えん坊だね」

「ルイスにだけよ」


 ごまかすように苦笑すれば、ニーナは人の気持ちも知らずに追い打ちをかける。

 特別扱いを、ただ心地いいと思えていた過去の自分はもういない。

 際限なく甘やかしてあげられる自分でいたかった。いられればよかった。

 気づいてしまったら、もう駄目だ。

 求めたくなる。想いを、愛を、心すべてを。


 きっとニーナのそれは、刷り込みでしかないというのに。





 子どもの頃から、どこか冷めた考えをしている自覚はあった。

 努力ではどうにもならないことがあると、早いうちから思い知らされていたせいだろう。

 才能は時に残酷だ。どれだけ力を尽くしても決してたどり着けない域に、簡単に到達できる一握りの人間が存在する。

 アレクに、ジル。一つ年下の卿家の嫡男。

 幼い頃から彼らと比べられ、彼らより劣っていると見なされてきた僕は、早々に現実を知った。

 あきらめることには慣れていた。『一番』に執着しなければいいだけのこと。

 自分は特別な存在ではないのだと自覚していれば、悲しいことなど何もなかった。


 ――なかった、はずなのに。

 ニーナが、僕を好きだと笑うから。

 ずっと一緒にいたいと、特別なんだと、甘やかな毒を注ぎ続けるから。

 その気持ちが恋ではないと、わかっていながら、夢を見てしまいそうになる。

 彼女の隣を、彼女の一番を。

 あきらめられなくなりそうな自分がいて、恐ろしかった。







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