君と僕の一ヶ月1
静夜くんは低血圧なようで、一度起こしに行ったものの、返事はしてくれたけれど起きなかったため、ふらふらと屋敷内を彷徨っていた。
知り合いが遊びに来ているならと一ヶ月、僕も休みをもらえたの。
だから何もすることがなくて困っているんだけれど、いつものクセで早起きしてしまった。昨日、七緒お兄様が起こしに行けばその一時間後には起きるからと言っていたため、起こしに行ったんだけど結局は一時間は暇を潰さなければいけない。
……さて、どうしようかな。
僕は口元に人差し指を当てて、廊下のど真ん中で考えていれば誰かに肩を触れられた。……きっと、この足音の持ち主は多分、
「乃亜さん、どうかしました?」
いつもなら梨紅お姉様の側にいて、一人で行動することが少ない乃亜さんの足音で、珍しくあの騒がしい足音は側にはなかった。
「静夜くんが起きるまででいい、私の話に付き合ってくれるかしら?」
「ええ、勿論」
僕は梨紅お姉様が苦手だ。
真っ直ぐで、素直で。あの人を見ていると、曖昧だった前世の記憶が見え隠れをするんだ。そのたびに、胸が裂けそうなくらいに痛む。
梨紅お姉様がいないならば、乃亜さんの誘いを断る必要もないだろう。
僕は、乃亜さんが向かう方向へ、躊躇うことなく歩き始めた。
何処に向かっているかわからないけど、乃亜さんが行きたい目的地へ着くまでに僕は、合計六回くらい転びかけた。そして自然な動作として、乃亜さんに全部助けられてしまうというね、ことがあったんだけどね。それでも嫌な顔一つせず、自然に助けてくれて、僕は何故か安堵したような気持ちになったんだ。
……嫌われてなくて良かった、嫌そうな顔をされなくて良かった。
だなんて、思ってしまっただなんて、僕らしくない。乃亜さんは、僕のことを面倒くさそうに相手にしたことなど一度もないと言うのに。
……前世の記憶が原因だろうか?
でも、何故だかはわからない。だけどね、前世の記憶を思い出したくないと思ってしまうんだ。それに、思い出さない方が良いような気がしてしまって、今まで僕は自分のあまり前世の記憶を思い出させようとしてこなかった。
……今の自分ではなくなってしまうような気がして怖かったから。
「雪未くん、私ね。ちゃんと、梨紅のことを好きだと思っているのよ」
……バレバレですよ。気づいてないのは、梨紅お姉様ぐらいです。
……なんて言えるはずもなく、僕はそうですかとしか言えなかった。
「雪未くんは、私が義兄になって良いと思っているのかしらと思って。オネェ口調で話すとある意味有名になっている私が義兄だと知って、もうすぐ学校に通うと言うのにいじめられないかと思うと……、ほら今の子って手段を選ばないところがあるから」
僕が代償魔法の使い手じゃなかったら、そんなに気にする必要だなんてなかったんだろう。だけど、僕なりに身を守る手段は持ってる。
「大丈夫ですよ、気絶させる手段くらいは持っていますから。絡まれても逃げますし、いざどうしようもなくなったら静夜くんに助けてもらいますから。それに、世の中そんな人ばかりではないでしょうし、今考えてもどう対処も出来ませんからね。一応、僕も宰相の息子ですから、どうにかしてみせますよ。だから、僕のことは気にしないでください」
それからにっこりと笑って見せれば、乃亜さんは苦笑した。
「ああ、忘れてたわ。常識人っぽかったから油断してた。あの人の弟だものね、私が心配するまでもなかったのかもしれないわね。それに、貴方が何かされて、梨紅も綾芽くんも雪時くんも黙っている訳がないものね、……勿論あの人も」
いつもそう、乃亜さんは七緒お兄様のことを“あの人”と呼ぶ。
そう、七緒お兄様のことだけを。
「乃亜さん、七緒お兄様が何か嫌なことでもしましたか? 七緒お兄様はああ見えて、時折お茶目な部分を見せますから何か嫌なことをされたなら、僕から伝えますけど……?」
そんな僕の言葉が予想外だったのか、乃亜さんは目を見開いた。
そしてクスクスと笑われてしまう。
……僕は、何か可笑しなことでも言ってしまったのだろうか?
そう不安になれば、どうやらその不安な気持ちになっていたことが、表情に出てしまっていたらしく、慌てて乃亜さんは僕の頭を撫でてきた。
「むしろね、私はあの人に感謝をしているのよ。あの人……ううん、七緒くんがいなかったら今の私はいない。七緒くんがいなかったらきっと、今頃私は生きているだけの人間になっていたわ。七緒くんを、あの人と呼んでしまうのは照れ隠しなのよ、私は天邪鬼だから素直に感謝を伝えられないの。だからね……」
乃亜さんは一度、言葉を詰まらせた。
そしてほんの少し黙った後、覚悟を決めたような顔をして、乃亜さんはこれから言う言葉だけは、当たり前だが、心の読めない僕でさえも偽りの言葉を述べないとわかるくらいにとても真剣な顔をして、
「あの人にね、まったく嫌なことをされたことがない訳じゃないわ。違う人間だし、感覚が違うことは当たり前のことだと思う。だけどね、あの人のこと嫌いになれるくらいに酷いことをされたことはあの人と関わってきて一度もないわ、気にしてくれてありがとう。だからこそ言えないのよ、素直に感謝しているって。言ったでしょ、私は自分でも呆れるくらい天邪鬼なのよ」
いい表情で、乃亜さんは笑った。
まるで吹っ切れたかのように、爽やかに。心からの笑顔を浮かべて。
……良かった。
素直にそう思える。
「雪未、探したよ」
額に汗を滲ませながら、静夜くんは僕の元へと駆け寄ってきた。
……時間が経つのは早いものだ。
と、内心そう考えながら僕は、ごめんねって静夜くんに謝った。
そんな僕に、静夜くんは別にいいよと言って手を差し伸べてくれた。
僕は躊躇うことなくその手を取り、乃亜さんのいる方へと少しだけ振り向いて、僕はにこやかに微笑んで、自分でも驚くくらいに穏やかな声で、
「乃亜さん、幸せになってね」
僕はそう言うことが出来た。
静夜くんに支えられながら、僕は屋敷内を歩いていれば、唸り声が綾芽お兄様の部屋から聞こえてきた。ああ、定期的に来ると言う、何にもアイディアが浮かばないスランプの時期に入ってしまったのだろうか? とそう考えながらも、スランプを乗り越えれば爆発的に自分の作品達を生み出していくんだけれどともそう考えつつ、一応心配なので綾芽お兄様の部屋へと足を運んだ。
「ああ、……書けないよぅ。やる気が出ないよ、瑞樹くん!」
やはり、案の定そうだった。
綾芽お兄様の担当になってから数年くらい経つ、瑞樹さんはスランプに入ったことくらいじゃ動揺もしなくなってしまい、平然と冷静に、可哀想にと綾芽お兄様の頭をひたすらに撫でているだけだった。スランプに入ると、抜け出せるのは何時になるのかは予想は出来ない。短い時は一日だったし、長い時は半年だったり、様々である。
綾芽お兄様は天才肌と言う奴だ。
閃くことにより、たくさんの作品達を生み出し、人々を魅了してきた。
綾芽お兄様は、閃きが生まれない限り、作品達を生み出すことが出来ないのだ。
「綾芽お兄様、大丈夫ですか?」
精神的に不安定になり、泣き出してしまっている綾芽お兄様が心配になり、思わず声を掛ければ、綾芽お兄様は瑞樹さんの懐から抜け出して、僕をぎゅっと抱きしめて、肩に顔を埋めてきた。
お願い、綾芽お兄様。前髪が当たってくすぐったいからやめて……なんて言えるはずもなく、静夜くんと繋いでいない方の手で髪をとかすように撫でてあげれば……、
「どうしよう、書けないよぅ」
「焦ったところで閃きは生まれませんよ、綾芽お兄様。一度泣き止んでください、僕も一緒に考えますから。落ち着いてくださいな」
それでも泣き止んでくれない綾芽お兄様に、僕は困ったように笑っていたようで、流石に何か言う気になったのか瑞樹さんは口を開いた。
「別に書かなくていいぞ、綾芽。
焦らずに、考えれば良いって。お前は今までたくさんの作品達を生み出してきたんだから、閃きが生まれない時期があったっておかしくはないだろ? 俺は、お前の担当を誰とも変わるつもりはないし、編集者としての仕事はしてるからあまり気にしすぎるなよ?」
……相変わらず、瑞樹さんは綾芽お兄様には甘いんだから……。
思わず、僕も呆れてしまうくらいだ。
まあ、身内や友人に甘い人は、周りにたくさんいるから、慣れてはいるんだけどね。お父様は春斗さんに甘いし、七緒お兄様は兄弟達にも、使用人にも凄く甘いから。だから、瑞樹さんはまだいい方かもしれない。
まあ、静夜くんは静夜くんで? 七緒お兄様に似た部分があるから、同級生なはずなのに、甘やかされてしまっているなとは感じている。
「そうなんだろうけど……!」
僕の服を握りしめ始めてしまった、綾芽お兄様。何となく、そう言って言葉を詰まらせた理由を僕はわかってしまい、再び彼の頭を撫でた。
……甘やかされていることが子供扱いされているような気がして、瑞樹さんと距離を感じているように思ってしまうんだろうなぁ……。
僕の脳内にある辞書では、上手く綾芽お兄様の気持ちは複雑すぎて表情出来なかった。それに、作品達を生み出せないことに焦る理由さえ、合っているかもわからないのに、瑞樹さんに伝えることは出来ないし、綾芽お兄様のスランプから抜け出させることに協力した方が良いのかもしれない。
「綾芽お兄様、街へ出掛けては見ませんか? 僕達もお伴しますから」
僕は一度も馬車から降りて、街を歩いたことがない。お父様も、七緒お兄様も街へ行かないかと誘ってくるが、あの時の恐怖が忘れられず、その誘いをずっと断ってきた。行ってみたいとは思っていた、いつもなら遠くから街並みしか見ることが出来ないから。あの街並みを遠くから眺めるだけではなく、あの街の中を歩いてみたいと思ってはいたのだ。
「大丈夫なの、雪未ちゃん」
いつか克服しないといけないとは思っていたのだ、今しかないだろう。
静夜くんもいるし、綾芽お兄様だっているのだから、また誘拐されかけても連れ戻してくれるはずだ。だから、きっと大丈夫なはず。
額からつーと冷や汗が流れていく。
「……無理しなくて良いんだよ?」
その優しい声で、そう甘やかすようなことを言われれば思わず、やっぱり行きたくないと言いたくなってしまうが、言いかけた寸前でその言葉を飲み込んで、僕は冷や汗を掻きながらもにっこりと笑って見せた。
「大丈夫だよ、大丈夫。
本屋を巡って、点字にして欲しい書籍を見つけて、お父様に頼むんだぁ。綾芽お兄様達には、僕に振り回されてもらわないと困るよ?」
そう言って見せれば、綾芽お兄様は口元を緩ませるように笑っていた。
「勿論、可愛い弟の可愛い我儘くらいなら、それに振り回されるのは苦痛じゃないよ……。僕も……、本屋には行きたいと思っていたし……」
そう口にした後、やっと綾芽お兄様は、泣き止んでくれたのだった。
「でも、……あれ? 僕のお伴をしてくれるんじゃなかったの……?」
と、冗談まじりの声で綾芽お兄様がそう言ってきて、僕も負けじと、
「そう言えばそうでしたねー」
そうとぼけて見せたのだった。