君のいない日常に、
『君が眠るようになってから、初めての夜となった。可愛らしく、愛らしい笑みが見えるのが当たり前のことだと思っていたのに、君は今苦しげに眠ってる。
僕に出来ることは君の手のひらを撫でることと、こうして何気なく抱いた感情を綴ることしか出来ないことに、初めて悔しいと思ってる。もし、目覚めたとして、君の愛らしく可愛らしい笑みを見れないとしても、君が壊れていたとしても、お兄様は構わないよ。
君の声が聞けるなら、君がまたその瞳を開けてくれるならそれだけで良いんだ。暴力的にも、不安定になっていても良いんだ、お兄様は強いから安心して目を覚まして。普段情けないお兄様だけど、これでも翡翠家の血縁だから、君より長く生きているから、情けないお兄様だけどこれでも戦闘経験だって君より多いから傷つけることを恐れないで。どうか目を覚まして。
お兄様は、どんな雪未ちゃんでも嫌いになったりはしないよ。大切な弟だから』
そう、綾芽は綴る。
廃人のような顔をして、ただたくさんの世界の話を書いてきた彼。それでも、瑞樹が認めてくれるから、物語の世界を創り出せない時でも、内心ではとても楽しくて楽しくてしょうがなかった。
今回ばかりはとても辛そうだった、綾芽は雪未を本当に大切に想ってるから。
発売されることはない、たった一人のために書かれた日記。それは綾芽の素直な気持ちが書いてあった。
最後の行に書かれた文。
『親愛なる雪未ちゃん、儚く消えないで』
それだけでどれだけ大切に思われているのかわかる、切なる願いだった。
『二頁目に入った、二日目だね。
まるで童話みたいだ、あの童話みたいにハッピーエンドになってくれるよね?
雪未ちゃん、君がいないと、家が暗いよ。君が生まれていない時はこんなことなかったのに、君が生まれて君が笑っていない日はなかったから、いつも家は笑顔に溢れてた。翡翠家はもう、君なしじゃ笑顔になれないんだよ。だから、早く目覚めてよ。君さえいてくれれば、皆君の分まで笑うから、無表情で無反応でも良いから目覚めてよ、お願いだから。
雪未ちゃん、僕も壊れちゃいそうだよ。
親愛なる雪未ちゃんへ、どうか儚く消えないで』
たった二日、されど二日。
二日目の日記を書くだけで、綾芽はポロポロと涙を流していた。そんな彼を、瑞樹は抱きしめた。
小説書け、なんて言わずにただただ静かに抱きしめて側にいるだけだった。
「俺も、雪未と会いたいよ。あの笑顔を見たいから、だから綾芽。俺達は待っていよう、何時までも」
雪未が眠りについてから、瑞樹は初めて言った言葉。その声は優しくて、悲しそうだった。
その言葉に、たくさんの涙を大きな目から溢れ出させながら、綾芽はうんと返事した。
『三頁目に入った、ってことは雪未ちゃんが眠りについてから三日目になったんだね。
最近、騎士舎に静夜くんが入り浸ってるんだって。元々、剣術とかの武術もまあまあ使えるみたいでね、隊長さんに鍛えてもらっているみたいだよ。強くなりたいんだって、静夜くん変わったよ。……壊れなきゃ良いけど。
ねえ、雪未ちゃん。雪未ちゃんが今までどんな辛いことにあったかは知らないよ、でもずっと眠りたくなるくらいに辛いことだったんだね。だからお兄様待ってるよ、ずっと。だから綾芽お兄様って目が覚めたらまた呼んでね。
親愛なる雪未ちゃんへ、君だけは僕らが儚く消えさせたりしない』
『もう何頁目だろう?
静夜くんの夏休みも、三ヶ月も前のことになっちゃった。ねえ雪未ちゃん、お兄様は話聞くよ。
だから、一人で抱え込まないで』
そう綴った瞬間、綾芽の目から涙がポロポロと溢れ出してきた。
綾芽は優秀だ、性格には難ありだが。
だから、授業に出なくても単位はもらえる。だけど、無遅刻無欠席を今まで貫いてきた。
綾芽だって一応、宰相の息子だ。
七緒のように、雪未のように学園に入る前から膨大な量の教育を受けていた。
綾芽が通っている学園は、入学当日単位保持テストが分野ごとに行われる。単位保持とは、所謂休学してもその単位で補えるこの世界では特殊な校則である。彼の単位保持数は三年半分だ、それだけ本人は無自覚ではあるが優秀なのだ。
だけど、どんなに忙しくても学園に毎日通うのが綾芽のポリシーなのだ。
だが、ポリシーよりも雪未を優先した。
それほど綾芽は雪未が大切な弟で。
「……ねえ、雪未ちゃん? 僕はね、どんな雪未になっちゃったとしても……、大切な弟であることは変わらないから。だから、眠ってないで、その苦しさをお兄様達にぶつけてよ。お兄様達は、強いから大丈夫だよ。雪未ちゃんが癇癪起こしたとしても、呆れたりしないからどうかその目を開いてよ。……どうか、声を聞かせてよ」
元々から弱々しい声だと言うのに、綾芽の声は雪未が眠る前より弱々しい声へと変わっていた。
綾芽は、十キロも痩せた。
綾芽だけじゃない。七緒も顔色が悪く、目の下にはうっすらとクマが出来、体重は五キロも痩せてしまった。体調管理さえしっかりしている彼でさえも、悲しみから生活バランスを崩してしまっている状態にある。
雪時は、女装する気力もないようで。学園には通っているものの、普段は毎日女装していると言うのに、男子制服を着て、尚且ついつもの元気さは全くなく、しかも周りに無関心な状態のまま、ただ呆然と過ごしている状態になってしまっていて。
それだけ翡翠家にとって、雪未はなくてはならない存在になっていたのだ。
「どんな雪未ちゃんでも、僕らにとっては大切な弟に変わりはないんだよ」
そう呟くように、綾芽は言った。
その瞬間、ぴくりっと雪未の指が動き、引きつり、かすれた声で、
「ぁ、やめお兄さま……?」
綾芽の名前を呼ぶ、雪未。
それでも雪未の目は開かれない。
まるで、世界を見ることを拒絶しているかのように頑なに、目に開かれることはなかった。
「……そうだよ、雪未ちゃん。良かった、どれだけ僕らがこの日を待っていたと思っているの。早く七緒お兄様と雪時お兄様に雪未ちゃんが起きたこと、伝えてこなくちゃ。あの二人、憔悴しきっていたからいつも通りなお兄様達に戻すためにはね、雪未ちゃんが必要不可欠なんだよ。だから……、いつも雪未ちゃんに戻らなくて良いから早く起きている姿を見せて? それだけで、お兄様達は満足なんだよ」
じゃあ、呼んでくるね……そう言おうとした瞬間、服の袖を雪未が掴む。
その目はしっかりと開かれ、その目には強い意志が宿っていた。
「綾芽お兄様、お願いがあります」
かつてないくらい真剣な雪未の表情に圧倒され、綾芽は思わず頷いてしまった。




