Parental Affection Station 2
「まずは、自分の状況を理解してもらおうかな」
少年は言葉を続けます。
「問1 自分の名前を覚えている?YES/NOでいいから」
自分の名前…、それは本来人であれば一番覚えているべきものです。これがあるから、私は私でいられるとても大事な記号なのです。それなのに…。
「嘘……」
そんなに大事な記号は、おかしなことに、私の心からすっぽりと抜け落ちてしまっているかのように消えていて、自分の異常さに私はようやく理解をして、なんだか泣きそうになってしまいました。
「………」
「ちょっと、泣かないでよ。ちゃんと思い出させるから」
ね!と私に向けた少年の笑顔は不思議と安心させてくれるような、少し言い換えれば信頼できそうな笑顔で、私も少しだけ微笑んで言います。
「…ありがとう」
「いえいえ。問2 ここに着くまでの記憶ある?」
そういえば。私は何故電車なんてものに乗っているのか。だって、私は電車を使って仕事になんて行かない筈なのに……。
「…仕事?」
「ん、あるの?」
「い、いいえ、無いんですけど。あの、私以外にも話したなんて言っていましたよね?」
「うん、あるよ。ただ、みんなどうしてここにいるかは分かっていた。あなたみたいなのは結構珍しいみたいだね」
「なんでわたしだけ…」
この電車に乗る、ほんの数分前の出来事。小規模な記憶喪失だったとしても、いいえ、どう考えても大規模な記憶喪失であると思いました。自分の名前も、記憶もありません。ただ一つ確かなこと……。
「私には、息子がいた…」
「そういえば、さっきも言ってたよね。自分の名前も覚えてないのに、息子のことを覚えてるなんて」
「それだとしても、私、息子の名前も…」
そこまで言いかけてふと硬直します。私には、息子の顔も姿も思い出せないけれど、脳の中であるひとつの単語が浮かび上がった気がしました。
「ゆうくん…」
小さく目の前の少年が反応しました。
「それ、息子さんの名前?」
確証はありません。だって、不自然なまでにこれだけ覚えていることは可笑しいんですから。まるで、真っ暗な中でそこにだけスポットライトを当てられたように、そこだけがはっきりとして映り、私の心に異様な居心地の悪さを与えていました。
「多分、そうです…」
「良かった。安心したよ」
「え……?」
その言葉はおかしい、そう直感します。だって、まるで私になにが起きたか、私のことをなんでも見透かしているような、そんな口振りだったのですから。
「あなた、私になにが起きたかご存じなんじゃありませんか?」
「なんでそう思うの?あぁ、これじゃあルール違反だね。質問を変えるよ。あなたは、あなたが持っていない記憶を僕が持っていると思っている?」
つまり、私がなくした記憶を彼が知っていると私が思っているか、ということですから、私は少し目つきがきつくなりながらも小さく頷きました。
「………正解だよ」
その言葉に私は戦慄します。信じていたことを裏切られた気分でした。最初から彼のことを深く信用していたわけではないのにも関わらずに。
「ここからはすべてが見える。丁度、あなたの時もここから覗いていたんだ」
少年はそっと窓に手を触れます。手の触れた部分が彼の体温で白く曇り、ひどく生々しさを感じさせました。
「ますます分からなくなりました。ならば、あなたはどうして私にありのままの事実を伝えてくれないんですか?教えて下さいよ…」
膝の上で握り締めた拳は力を込めすぎてぷるぷると震えます。それを私は俯くようにして見つめました。
「それはいけないことだよ」
私ははっと少年を見ます。彼の顔は少し強ばっていて、怖い顔になっていました。
「あなた、自分で言ってたでしょ、大事な息子って。自分の名前だってそうだ。あなたが生きてきた今までの人生すべて、あなたが本来知らなきゃいけないことであり、それを他人から伝えられたところで、その記憶は他人から形を与えられた贋作なんだよ。決してそれはあなた自身の記憶にはならない」
「無くした自分の記憶は自分で取り戻せと…。そう言う訳なんですね…?」
少年はゆっくり頷きます。
私には、正直に言うと今の状態ではまるで記憶を取り戻せないのでした。まるで切り立った崖のように、私の記憶はそこでストンと落ちて無くなっていて、その先だって、崖の下であったって、少しだって目視ができないのです。
それに、底のない沼にはまったように、記憶を取り戻そうともがけばもがくほどに沼にはまっていき、もうすでに私の心はこの現実に打ちのめされてただ虚無感だけが心の中を支配しているのでした。
「あなたみたいなのは、さっきのことを繰り返すようだけど本当に珍しいんだよ。俺も人のことは言えないほど記憶がないけど」
「あなたは思い出さなくていいんですか?」
「思い出したくとも、思い出す為のキーワードがないし、俺に何があったのか知る人もここには存在しないんだ。あとはもう、当事者である僕以外の誰かがここに来ないことには何も分からない」
彼は諦めの目を見せながら俯き、少しだけ笑いました。その笑いはなんだか何も思い出せない自分を笑う自嘲的なものであると同時に自分の運命に半ば諦めた笑いであると私は思いました。
「でも、そんなことはどうでもいいさ。今はあんたのこと」
彼はそんなことと言いましたが、私にはどうしてもそんなことというものには思えませんでした。私が、私の記憶を大事にしているのと同じ様に。
「息子さん、ゆうくん、っていったっけ?あなたにはこっちから考えた方がもとの記憶も思い出しやすいようだし、こっちから考えよう」
ゆうくんとの記憶は、何故だか全然思い出せません。名前だけはしっかり覚えているのにです。
「他に思い出したり、引っかかったこと、何でも良いから言って」
「……仕事」
先ほど私の心に違和感を与えた単語を呟きます。
「私、仕事で電車は使わなかったんです。でも、何で、ここに……」
「仕事か……。仕事に行く前の光景覚えてない?」
仕事に行く前…。起床のときや、朝食を作っているとき、夫の出勤を見送るとき……。そう言えば、夫はどんな顔をしていたんでしょうか。
夫の顔も名前も姿も声も一切思い出せません。ここまでくると、なんだか私はその夫自体いないものだったのではないかなんてことを巡らせます。
「私、夫なんていなかったんじゃないですかね。なんか、そちらの方がしっくりくるんです」
ほぼ自暴自棄になったつもりで発した言葉でした。愛すべき夫の姿形を思い出せないならば、もういっそのこと存在がないと認識した方が私の精神は安定するのではと感じたからです。
「ぴんぽーん。そう、君に夫なんてものはないよ」
少年の明るそうなしゃべり口調とは裏腹に、理解が出来ずに言葉が何もなくなってしまいました。少年の表情も、どこか影の差した笑顔で、私はよけいに不安を感じて震える右手の拳に左手を乗せて包み込みます。
「………え?」
「言った通りさ。君に夫はいないんだ」
「そ、それは、彼が亡くなったと言う意味ででしょうか?」
「いや…。あなたは結婚なんてしていない。夫という存在そのものが幻だったんだよ」
心のわだかまりが、一つ消えたような気がしました。しかし代わりに、また一つ疑問が生まれます。それは、息子の存在です。
「ゆうくんは、確かに存在していたんですよね…?あの子自体が幻だったなら、私は、私は一体どうすればっ……」
「そんなことはない。彼はいたよ。もっとも、あなたが彼自身をきちんと認識していたかはまた別の問題になるけどね」
ゆうくんを、認識……?
目の前の彼は何を言っているのか。認識していたからこそ私は今ここでこんなにも頭を抱えて悩み、苦悩しているのではないか。
なんだか、私の思考全てが不毛に思えてきてしまい、私は一度その考えを振り払おうと軽く頭を振りました。だからといって、それで私の疑問がすっきりと解消されることはないのですが。
「あなたは、人をおちょくっているんですか?」
「えぇ?そんなことはないさ。それにしても、なんだか堂々巡りをしているようだ」
「それは、私の台詞ではありませんか?」
「いーや、俺の台詞だと思うがね」
遂に少年はぐでっとして頭を座席の後ろにもたれかけてしまいます。なんだか私はイライラとしてしまって叫びます。
「真面目にしてください!」
突然、少年が歌を口ずさみ始めました。
「『ゆーやーけーこーやーけーでーひーがーくーれーてー♪』好きでしょ、この歌?」
「はぁ?だからなんです?好きでもなんでもありませんが…?」
しかし、私ははっと心の中に響く音を耳にします。それは、私の持つ最後の記憶を縛り付け、蓋をし閉じこめていた錆び付いた鍵がボロボロと崩れ落ちるような、耳障りな音だったのでした。
「私、あの時、仕事帰りで、交差点にいた、五時丁度で、懐かしいその歌が流れてた……」
少年はようやく顔を私の方に向き直していましたが、そんなこと、私には見ているほど余裕など無かったのでした。
「……それで?」
「近くの、子供連れの母親、子供の少女、手にぬいぐるみ、気を取られてた……。それで、私」
「………車に轢かれて死んだ」