御縁比べ その六
肉を刺した感触が、まだ手に残っている。
体が勝手に、とはこういう感覚のことをいうのだろう。意識ははっきりしていた。自分の行動も全て覚えている。やってはいけないことだとわかっていた。ただあの数十秒間の間、頭でも心でもないどこかに突き動かされるかのように立ち上がり、ご丁寧に靴まで履き、落ちていた小さなナイフを拾って袖に隠し、戦いで疲弊した彼に近づいて――。
涙が止まらない。
何が“自分に近づいた者は死ぬ”だ。
母も、父も、祖母も、孤児院の仲間達も、友達も、そして唯一全てを知った上で手を差し伸べてくれたクラスメイトさえも。
殺したのは紛れもない、自分ではないか。
離れようともせず、異変を訴えようともせず、抗おうともせず。
そんな自分を嫌悪し続けているのに、体がすくんで、肩に置かれた狐坊主の手を振り払うことも出来ない。
「これにて“御縁較べ”終了である。判定を下してもらおう」
自己嫌悪の連鎖に陥っている一葉を置いて、話は終結に向かおうとしていた。狐坊主は刀身についた血を振り払い、“御縁比べ”の終了を求めて常世に向き直った。
「首はちゃんと切り離した?」
まるでお遣いで買ってきたものを確認する母親のような気軽さで、常世は一切姿勢を変えることなく尋ねた。
「心臓はちゃんと貫いた? 両腕両脚切り離してだるまにした? 全身ミンチよりひどくしちゃうのがベストなんだけど」
「……何を言っている?」
唖然とする狐坊主の返答に、常世はやれやれと言わんばかりのため息をついた。
「君さ、あいつを化け物扱いしたんだよね。なのにとどめはまるで人間を殺すような温いやり方でいいんだ? 君たちみたいなのを相手にするような奴がそんな程度で死ぬと?
……そいつはね、僕の最高傑作なんだ。どんな相手にも対等以上に戦える玩具と経験を与え、いくつもの上質な修羅場をくぐらせてきた。あとはそうかな、協調性が欲しいかな。ああ、精神のリミットが近いのが非常に残念だ。まだまだ伸びる余地があるのに」
いつの間にか、狐坊主の手が一葉の肩から離れている。一葉でも感じる、自分のちっぽけな自己嫌悪など軽く押しつぶしてしまうぐらいの、圧倒的な息苦しさが拝殿を、この神社全体を包んでいるのだ。
「さて、以上の彼に対する僕の意見を聞いてもらった上で、その敵である君にこの言葉を贈ろう。
――狐さん、敵に背を向けるなんて、随分と余裕だね?」
一葉は襟を掴まれ、拝殿の中に投げ込まれる。一葉は悲鳴を上げる暇もなく、拝殿の床に体をぶつけた。強く打った膝の痛みを堪えながら自分がもといた場所を振り返ると、その視界の黒さに唖然とした。
台風を黒で着色すれば恐らくこうなるのだろう。凄まじい密度の衝撃が、黒の質量をもって絶え間なく拝殿に襲い掛かる。
ただ台風と明確に異なるのは、その黒が腕、爪、触手、一葉の語彙ではとても説明できないような形状の物など、その衝撃の一つ一つが何らかの形を持っているという点だ。無数のそれらが集って暴力を成し、見るもの全てを打ち壊さんと暴れているように見える。だが拝殿全体が四方を壁に囲まれているかのように、その威力が拝殿に届く様子はない。涼しい顔をしているところを見ると、恐らく常世が何かしているのだろう。
「分かれ道だよ、粋」
楽しそうに、とても楽しそうに、常世は言う。
「人のまま死ぬのか、それとも人ならざるものの道を拓くのか。僕としては後者がいいなぁ。もっと君の可能性を見せてよ」
そんな言葉を呟きながら、常世は仲間の窮地を笑って見ているのだった。