呪い
怪異の研究所といっても、その多くは人間の病院や研究所をそのまま利用していたりする。怪異を解剖したり製造したりといった研究所は、本当に一部の人間、それこそ数名の幹部クラスでないとその所在は明かされない。生半可な知識を持った人間があそこの光景を目にすれば発狂するからそうならないように、との配慮らしい。
話を戻すと、それらの病院や研究所は絶賛稼働中だ。
じゃあ怪異の研究はそこのどこで行われているのか?
異次元だったりする。
例えばこの世界を一枚の絵だとしよう。既に完成されているその絵にもう少し描き足したい。だが絵の上に直接描いて失敗したら調和が乱れてしまう。誰も彼もが他人の家に勝手に上がり込むことが出来れば秩序が乱れてしまうのと同じだ。
だからその絵の上に透明なシートを一枚被せる。元の絵は透けて見えるから描き足しに支障はないし、失敗してもシートの上なので元の絵には何の被害も無い。ただ何枚も重ねていけば当然元の絵が見にくくなって描きづらいだろうし、カッターを突き刺せば絵にも傷がつく可能性が生まれる。
この元となっている絵が世界で、シートが異次元となる。絵で表現されている世界観は共有しているが、互いに干渉し合うことのない空間。
普段どおり機能している病院の上にシートを一枚被せる。シートの上から病院の設備を勝手に使おうとそこにいる人間を全員消去しようと、それはシート上の出来事なので病院側には何の影響も無い。
ただカッターなどでシートごと突き刺すようなことをすれば元の絵にも傷がつく可能性が生まれる。シートを何枚も重ねていけば元の絵が見づらくなり、全く関係のない所に絵を描いてしまうかもしれない。
“天秤”の規律に反したあの研究所も、そうやってシートを何枚も被せて元の絵から遠く離れた次元、それこそ月の位置をいじったりしても元の次元に影響が出ないほどに離れた場所に在ったのだろう。それは何千枚ものシートをシワやゴミを混入させずに被せるようなもので、完遂には多大な労力と技術が求められる。少なくとも一研究者にできるはずのないそれは、協力者の存在と研究が成功すると確信していたことを裏付ける。現に最後の女の子は、首を切断したはずなのに、生きてしゃべってこっちに手を伸ばした。
一体誰が協力した? なんて考えるのは俺の仕事じゃない。
俺の仕事は、“天秤”の殺意を代理すること。それだけだ。
「…………」
それだけのはずなのに、俺は無人の総合病院のロビーで、あの不死の女の子のことをだらだらと考えていた。
どの診察室へ向かう場合も、まずはここの総合受付を済ませる必要があるため、全ての患者が集まるこのロビーはとにかく広い。席も三桁はあるが、埋まっているのはこの一席だけ。受付カウンターも空っぽ。壁の液晶ディスプレイにはそもそも電気が通っていない。
首をぐるりと回すと、ガラス張りの入り口の向こうには、ただただ真っ黒な空間が広がっている。シートは病院の上だけに張り付けているから、言うなればここは病院しか存在しない次元であって、その外は宇宙の外と同義になる。宇宙の外側なんて人間には知覚しようがなく目の毒でしかないから、とりあえず真っ暗な空間に見えるように常世が処理した、らしい。というのも俺は次元を作ったり渡り歩いたりといったことは一切できない。先ほどの講釈も全て常世からの受け売りなのだ。
「赤川さーん。赤川粋さーん」
首を戻すと、さっきまで空だと思っていた受付に、一人だけ女の子が座っていた。
黒髪は短めのシャギーカット。黒眼には黒縁眼鏡。カウンターに隠れて服装は見えないが、いつも白のカッターに黒のスラックスなので、今日もそうだろう。初対面の相手にはほぼ男だと思われるが、自己申告では女だ。
「……んだよ、普通に呼べばいいだろ」
俺は常世のもとへ向かい、開口一番に不平を述べた。こいつはどんな時もユーモアというものを欠かせない。
本当に、どんな時も。
「どうしたの? 化け物でも見たような顔してるよ?」
俺は声を荒げた。
「化け物ならいくらでも見てるっての! 不死だぞ不死!」
常世は人差し指を口の前に立て、“静かに”のジェスチャーをした。
「ここは元の世界に大分近いからさ、あんまり騒ぐと、あっちでラップ現象とか起きたりするから、静かにしてよね」
「そりゃまた随分な手抜きだな」
「まさかあんなに完成度の高い個体がいたとは思わなかったからね。他の研究員のいる施設に連れ帰るのもマズイし」
その言葉で、自分が見たものは幻覚じゃないと改めて思い知らされた。
「……やっぱり不死だったんだな、あいつ」
ところが、常世は首を縦には振らなかった。
「不死っていうのを厳密に定義すると、そこからは外れるけどね」
常世は思わせぶりな言い方だ。
「どういう意味だよ?」
「……君は“不老不死”って、どう定義する?」
俺は腕を組んだ。
不老不死?
「年を取らず、怪我や病気で死ぬことがない」
「それだと単語をそのまま読んだだけだよ」
常世は指を組んで背もたれに体を預けた。
「老いない、って状態には二種類あって、細胞そのものが老化しないか、プログラムされてる細胞分裂の回数が制限されていないか。同様に死なないって状態にも二種類ある。死の要因をそもそも受け付けないか、死の要因を上回る生命力を持つか。でも、彼女はそのどの属性も持っていなかった」
それがどういうことか、俺にはうまく理解できなかった。
「結論から言おうか。――彼女は不死じゃない」
その言葉の意味は一瞬で理解できたものの、腑には落ちなかった。
「……おい、ちょっと待てよ」
俺はなぜか気が遠くなって、カウンターに両手を置いて支えにした。
「ってことはあれか? 俺が見たことしたことは、全部夢幻でしたって片づけちまうのか?」
「落ち着きなよ。君が見たものは全部真実だから」
「じゃあ――」
まくしたてようとした俺を制止するように、常世は手を俺の顔の前に立てた。
「まぁ黙って聞きなよ。君が探してる答えはもう見つかってるからさ」
「……わかった」
俺も常世も、元の姿勢に戻る。
「君が彼女の首を斬ったとき、彼女は首から血を流して『痛い』と言った。これはものすごくおかしいことなんだよ。
首を切断されれば人は死ぬ。けど彼女は生きていた。それは不死に他ならないということになる。でも彼女痛みを訴えた。痛覚は生物が死の要因を把握し避けるための機能なんだから、不死であれば必要はないはずなのに。
君が持っている情報だけだと考察できるのはここまでだから、混乱するのはわかるよ」
常世はイスから立ち上がった。
「ここから先は、君から引き渡された彼女を、僕が調べた結果を加えた考察と結論だ。ここじゃなんだから、少し場所を移そうか」
そういうと常世は、受付から出て脇の通路を進んでいく。俺もその後ろに従った。
「彼女の許可をもらって色々と調べてみたよ。まずは身体構造。これは人間と全く変わりがなかった。細胞単位では、人間と同じように老い、死ぬ。これで少なくとも彼女に彼女に不老の要素はないわけだ。では不死はどうだろう? と考えて、僕は彼女にあるお願いをした」
やがて診察室の並ぶ通路を抜け、入院用の病室の並ぶ病棟に入る。
「『後で治してあげるから、その首、ちょっと外してもいいかな?』ってね」
「…………」
なんでそんなむごいことを、と責める資格は、俺にはない。
「彼女はそれを承諾した。だから僕は彼女の首を外してみた。どうなったと思う?」
答えを予想しかねていると、常世は立ち止まってくるりとこちらを向き、にやりと笑った。
「死んだよ」
「……死ん、だ?」
ありえない。おかしい。首を外すと死ぬのなら、首を斬った時点で死んでいたはずだ。いくら寸分違わず胴の上に乗っていても、気管も延髄も分断されているのに。
「おかしいと思っただろ? その通りだよ。でもね、本当におかしいのはそこじゃない。“首を外したら死んだ”ところじゃなくて、“首を外すという自殺に等しい提案を、彼女が『首を治す』って条件でのんだ”ところさこれがどういう意味かわかるかい?」
首を治すという条件付きで、自殺してくれと言われているような頼みをのんだ。それは彼女にとって、死のリスクよりも首が治るというリターンのほうが大きいということだ。首よりもちっぽけな死。
ちっぽけな死?
「……首さえ治れば、生き返る確信があった?」
「生き返る、と原理は少し違うようだけど、概ねその通りさ」
常世は踵を返し、また病棟を進む。
「首をちゃんと治すと、彼女の体はまた生命活動を再開した。そして目を開けた彼女はこう言ったのさ。『ああ、苦しかった』って」
ああ、苦しかった。
その言葉は、死んでもなお意識があったことを意味する。
「結論を言おうか。彼女の不死はとても不完全なものだ。もはや呪いと言ってもいい。それでも不死という単語を無理やり使うなら、“魂だけが不死”って状態だね。体が死んでも、魂が死を認識しないから、体は死を魂に認めさせようと苦痛を発し続ける。
体が老いて衰弱しきったら、一体どうなるんだろうね? 体が朽ち果てる痛みを永遠に味わい続けるんだろうか? 君はそんな彼女の首を斬っちゃったわけだ。首を斬られたときの彼女の絶望は、どれほどのものだったろう?」
何がそんなにおかしいのか、常世の楽しそうな口調は留まるところを知らない。
「そして――」
常世は病棟一階、一番奥の病室の前で足を止めた。
「そんな彼女が、君に会わせて欲しいってさ。僕としては断る理由はなかったから、こうしてここまで連れてきた。けど会うか会わないかの判断は、君に委ねる」
「…………」
常世が移動を始めた時点で、どうせまた何か企んでるな、とは思っていた。
「どうする?」
どうする、ね。
この扉を叩けば、何か面倒なことが、確実に始まる。
けど、命令したのは常世だが、手を下したのは紛れもなく俺だ。
だったら会うか会わないかなんて選ぶ権利は、俺には最初からない。
「決まってんだろ」
俺は扉を叩いた。我ながら育ちが良くわかる乱暴さだった。
「どうぞ」と入室の許可をもらってから、部屋の中に入った。
不完全な不死を収容している病室、といっても、備品などに目に見える違いはない。ただ一応捕虜扱いの彼女を収容しているので、目に見えない形で監視網を張り巡らせているはずだ。
個室らしく、ベッドは一床。
「突っ立ってないで、座ったら?」
そのベッドの主は、傍らのパイプ椅子を指差した。拒否する理由などあるはずもなく、俺はのそのそとそこに腰掛ける。
一般的な入院着では似合わないと常世に判断されたのか、髪の色と同じネグリジェを着せられている。首のちょうど真ん中あたりには、地肌から明らかに浮いた色濃いかさぶたに覆われた傷跡が、くっきりと残っていた。
「……残したんだな、傷跡」
常世なら痕も残さず治療するなど簡単のはずなのに。
「ええ。あなたがこの傷を見るたびに、自分がしたことを思い出せるように。まるで首輪みたいね?」
かさぶたに触れながら、彼女はそう言って笑う。
飼われているのは、むしろ俺の方だ。
そのかさぶたの色濃さは彼女の怨恨の深さを物語っているようで、それは“お前を許さない”という意志を否応にも俺に思い知らせるのだった。
「…………」
「……謝らないのね。他の皆には、謝りながら斬っていたのに」
彼女以外の実験体のことを言っているのだろう。
「謝って、それで許されるのか?」
「じゃあ事前に謝ったら殺してもいいの? それで許されるの?」
「…………」
反論できない。
そもそも斬る前の謝罪も、殺されるいわれのない相手を殺さなくてはならないときに、気が付いたら口癖のように言うようになっただけだ。任務と倫理の板挟みに苛まれて、そこから逃れるために口に出す言葉。
いつからだ?
いつから俺は、殺すことを罪と感じるようになった?
“天秤”の殺意を代理するだけの、この俺が?
「殺す前に謝ることで、これは任務で仕方なくしていることだ、こっちも被害者だ、と訴える。殺してしまえば相手は何も言えない。だからそれで許されたような気分になる。……とんだ卑怯者ね、あなた」
「……卑怯者、か。確かにそうだな」
ごめん、と謝ったところで、許さない、と返ってくるに決まっている。その言葉を聞く前に斬り殺すことで、いいよ、と許してくれたかもしれない、という選択肢を強引に作り、それを選び取ることで、勝手に救われた気分になる。
これが卑怯でなくてなんだというのだろう。
……いや、それだけじゃない。
本当に卑怯なのは、誰かにそう言われるまで、それは卑怯だと認めなかったことだ。
「ねぇ」
す、と彼女が俺の右手を取ったことで、俺は我に返る。彼女はそのまま、首のかさぶたに俺の指をあてがう。ぷくりとわずかに盛り上がったかさぶたのざらりとした感触が、指先から伝わってくる。
「あなたは感じたことがある? 首と胴を斬り分ける刃の冷たさ。少しずつ気管に染み入ってくる血でむせそうになって、でもむせたら振動で首が滑り落ちて“死にっぱなし”になってしまう恐ろしさ。少しずつ脳に酸素が足りなくなっていく苦しさ。……あなたには解る? 死ぬほどの痛みから死んでも解放されない、文字通りの永遠の苦しみに苛まれ続ける私の気持ちが」
解るはずがない。誰にも死んだ後のことはわからない。ただ死の先に何が待ち受けているかわからない恐怖はあれど、死の先にその死の原因となった苦痛が約束されている苦しみなど、解るはずもなかった。
「あなたを許さない。死んでも恨み続けるわ。……でもね、少しだけ、感謝もしているの。あなたが首をものすごくきれいに斬ってくれたおかげで、首を支えていればどうにか生きていられた。あなたはそんな私を不死の実験の成功体と勘違いして、研究所から連れ出してくれた。ここで首を治してくれたから、私はこうして死に損なって、あなたに生きたまま呪詛を吐き続けられるんだもの」
……ああ、そうか。
あの時俺が首を斬って落としていれば、彼女はこうして生き残って、俺に呪詛を吐きかけることもできなかった。鎮まらない痛みと息苦しさに蝕まれ続けながら、俺に届くはずのない呪いをかけ続けることになったのだろう。
「……どうすればいい?」
それはなんだかとても、悲しいことのような気がした。
「どうすれば、お前の恨みを晴らしてやれる?」
人間も怪異も、もう数え切れないほど殺した。今更、一人の恨みを晴らしたところで、大して変わらないのは解ってる。
それでも俺は、救われたい。
殺すだけの、“天秤”の殺意を代理するだけじゃなく、その気になれば誰かを救えるんだと、大手を振って地獄に堕ちたいのだ。
そんな俺を彼女は、ふふ、と笑った。
「なあに? 私が願ったら、一緒に死んでくれるっていうの?」
「……お前が望むならな」
常世には許可なく死ぬことを禁じられているが、精神の限界が来れば、そんなのはもう関係ない。
「願い下げね。そんなの、何の解決にもなってないじゃない」
彼女は首を横に振る。かさぶたがかりかりと俺の指の腹を擦った。
「生きることへの未練は別にないわ。生きてても、痛くて苦しいだけだもの。でも苦しみながら死ぬのは嫌。安楽死も嫌。あれ実は後々苦しいのよ?」
どうやら経験済みらしかった。
彼女は身を乗り出し、俺に顔を近づけた。
「私を殺して。やさしく、微塵の痛みもなく、安らかに。出来るでしょう? いくつもの命を奪ってきたあなたなら、たった一つの命を苦しめずに奪うことぐらい」
俺は殺すことしかできない。
「……わかった」
だから、相手を殺すことで救うというのは、どうにも皮肉な話だった。
「どうしたらいいか皆目見当もつかねぇけどさ、約束するよ。お前の不死の呪い、必ず解いて、安らかに殺してやる。……えーと」
そういえば彼女の名を知らない。実験体に個体名がつけられているのかは知らないが、一応聞いてみた。
「名前とかってあるか?」
彼女はしばらく記憶を探るように思案していたが、やがて、
「Tues le dernier」
「……チュ、エル……?」
予想のはるか真上を行く返答に、俺は思わずポカンとした。
「 “あなたが最後”。フランス語でそういう意味よ。私であることが特定できそうな単語はその最後、デルニエだけ。だからデルニエでいいわ。ふふ、我ながら変な名前ね」
「いい名前じゃねぇか。“粋”なんかより、よっぽどな」
粋とは優れているもの。純粋とは混じり気のないこと。
どちらの意味を取っても、俺には名前負けなことこの上なかった。
「……そう言われたのは初めてだわ。そもそも名乗ったこともないのだけれど」
デルニエはそう言うと俺の手を離し、姿勢を元に戻した。これで話は終わり、という意味だろう。
俺はイスから立ち、部屋から出ようとドアノブに手をかける。
「別に急かしはしないわ。けど、私が老いて朽ちる前にお願いね」
そのデルニエの声を背に、俺は病室を後にした。
「今まで斬ってきた者達の怨みは目をつむって、目に見える怨みは取り除くのかい? 僕にはそっちの方が卑怯に思えるね」
病室から出ると、正面のガラス窓の枠にもたれかかって立っている常世が目に入った。病室からは二メートル程離れているが、こいつのことだから余すところなく盗み聞きしていただろう。
「……んだよ、罪を償うことも許されないのかよ」
「償う罪を選ぶなって言ってんのさ。本当に償いたいのなら、自分のしたことを帳消しにしようとせずに、潰れるまで全部背負いなよ。君のその贖罪ってのは、僕にはどうも自己満足のようにしか聞こえない」
そこまで言ってひとしきり空間の温度を下げたところで、常世は肩をすくめた。
「ま、僕は君のサポーターかつ観察者であり指導者じゃないから、君のすることに口出しはしないよ。茶々は存分に入れさせてもらうけどね」
自分の言いたいことは言ってこっちの言動を否定しておきながら、直後には君の勝手だと突き放す。
俺はこいつが大嫌いだ。
「……常世」
だが役には立つ。深呼吸を一度挟んで気分を落ち着け、話を切り出した。
「あいつの処遇はどうなる?」
その問いが来ることは解り切っていたとでも言うように、常世は口の端を歪めた。
「それは君もよく解ってると思うけど? “天秤”が不死をどう扱うか」
“天秤”は、それがどんなに不完全でも、不死の存在を許しはしない。それはいつか必ず滅びるという生命の在り方と矛盾するからだ。
だから“天秤”は不死の存在を何が何でも抹消しようとする。死なないなら死んだも同然の状態にすればいい。何もない異世界に放り出すとか、精神の方を腐敗させるとか。
でもそうせずにデルニエをここへ運んだのは、あいつにまだアレクシア女史を引き寄せる餌の役割を期待しているから。“あなたが最後”なんて実験台に言ったのだ、デルニエが女史にとって不死に一番近い存在、もしくはそれに至るための布石である可能性は高い。なら多少のリスクを侵してでもデルニエを回収しにくる、とでも踏んだのだろう。
「ならこの一件、俺に任せちゃくれないか?」
つまりアレクシア女史の尻尾がつかめるまで、“天秤”としても彼女には餌としての価値があるということになる。少なくともその間は彼女は処分されない。アレクシア女史の件が解決してからがむしろ問題だったが、それはどうとでもなるだろうし今考えても仕方がない。
「それは構わないけどさ、この件は僕が独断で動いていたのを、君が引き継ぐ形になる。だから“天秤”のサポートは一切ないよ。それでもいいの?」
「別にいいさ。要はあいつが朽ちる前に完遂すりゃいいんだからな。気長にやるさ」
デルニエの寿命が人間と同じぐらいで、彼女の年齢を十代後半と仮定するなら、タイムリミットはおよそ七十年。俺とあいつの根気さえ続けば、なんとでもなる。
「期限の心配はないけどさ、彼女の不死を解くアテはあるの? それがつかめないと、何年経っても一緒だよ?」
「…………」
俺が答えに詰まったのを見て、常世は嘲笑した。
「教えてあげよっか? 彼女の不死を一発で解く方法」
「……何だよ?」
何となく嫌な予感はしながらも、俺は一応聞いてみた。
「簡単だよ。彼女を喰べちゃえばいい」
俺は常世の顔面目がけて拳を放った。
コンマの壁をぶち抜いて二メートルの距離を詰め、常世の顔面めがけて繰り出した俺の拳は、常世がもたれかかっていた窓枠を上下二つにちぎり飛ばした。両サイドの窓は木っ端微塵に割れ、拳の衝撃は周囲の窓枠も歪ませ、窓ガラスに大きなクモの巣を張った。
「相も変わらず沸点低いね。僕言ったよね? あんまり騒ぐなって」
さっきまでいた位置から拳一つ分だけずれた所に、ガラスを被ることもなく常世は立っていた。
「冗談で言ったんじゃねぇよな」
さめきった心とは裏腹に、腹の中では熱をもった何かが、下卑た笑いを浮かべてひしめいている。
こういう時、俺は自分が人間の面を被った化け物だということを、思い知らされる。
「もちろん本気だよ。冗談だと思ってたら本気で当てにきてたでしょ?」
本気で狙ったとしても、こいつには当たる気がしないのだが、そういうことにしておいた。
「他に手がなかった場合の最終手段、ぐらいには考えておいた方がいいよ。ま、出来損ないとはいえ、不死を喰べるんだ。それなりの悪影響は覚悟しておいた方がいいね」
「悪影響?」
「少なくともメリットはないってこと。不死は甘美なものって幻想を持ってるなら、なかなかの地獄を見ることになるだろうね」
「……地獄、ね」
俺はデルニエのことを思い出す。死んでも生への望みを捨てることを許されず、体は死の痛みを訴え続ける。
あそこが地獄でないとしたら、はたしてどこに地獄はあるのだろう。
「『贖罪(笑)』もいいけどさ、“天秤”本来の職分も忘れないでよね。明日から“山王祭”だよ」
「……へいへーい」
祭りか。全く嫌な行事だ。
「君も一旦部屋に戻って準備しなよ。今回は実質、君一人なんだからね」
俺は返事がてら手を仰いだ。常世も廊下に異次元への真っ黒な扉を作り、常世直轄の研究所しか存在しない次元へ消えた。扉と表現したがドアノブなんて洒落たものはなく、闇が深くて奥が見通せないトンネルが口をあけているだけだ。その気になればもっと凝った形にも出来るらしいが、常世は普段使う場合は手軽さを重要視する。ちなみに俺も何度も通っているが、特筆すべき違和感はない。強いて挙げるならば次元間の距離と呼べばいいのか、どれだけこの次元から隔たっているかで内部の体感距離が変わる程度の、何の脈絡もなく風景が変わるだけのただのトンネルだ。
さて、俺も戻るか。窓も常世が気が向いた時にでも直すだろう。
「……ああ、そうだ」
帰ろうとした俺の前に、異次元の扉から顔だけ出した常世がいた。生首が浮いているみたいで気持ち悪い。
「君のやる気煽りを兼ねて、ちょっとだけマジレスしてあげよう」
「日常会話でマジレスとか使うな」
「彼女はいわば“死”という概念が欠けた状態だ。だから死に至るための苦痛というステップまでしかない。彼女を死なせようと思うのなら、彼女の欠けた“死”を埋める何かを探すのが一番手っ取り早いんじゃないかな」
俺の苦情を当然のように無視して、常世は話を進めた。
「欠けた“死”を埋める何か……?」
「そこからは自分で考えなよ。あんまり手取り足取り教えても、君の成長にはつながらないしね」
そう言いたいことだけ言うと、生首は今度こそ姿を消した。
「…………」
あの言葉はあいつなりのエールと受け取っておこう。そう思わないといちいち付き合っていられない。
次元同士をつなぐ扉になっている正面玄関を抜けると、無人の静寂に慣れた耳に街の喧騒が押し寄せ、初夏の日光が肌を焼く。
「……?」
病院の前にしては、どうも騒がしすぎる。とくに、その音源のほとんどはむしろ静かにするべき病院の内部から聞こえてくる。
どうやらいきなり窓枠が吹っ飛んだとかで、大騒ぎになっているらしかった。