九章 止まらない彼女
「どうした、蓮? 具合でも悪いのか?」
施設に帰宅して食堂まで足を運んだものの、食事は全く進まなかった。
「少し気分が悪いんです。すいません、今日はもう休みます」
「おお…大丈夫か? 何かあったらすぐ言えよ?」
「はい…」
実際そこまで体調は悪くはない。ただ、今は一人で色々と考えたいだけなのだ。
「ふぅ…」
自分の布団に横になり今日の事を思い出す。何度思い返しても分からない。吉野が俺に好意を持ってくれたことも、あそこまで執着して板垣の事を俺に問い詰めてきた事も…。
「意味分からん…」
同室の中学生達は今頃食堂で食事をしていて、その後はすぐに入浴でもするだろう。幸いなことに一人で考える時間はあるわけだが…当然考えてどうこうなる問題でもない。分からない事が多すぎて何を考えればいいのかすら分からなくなってくる。
「…俺の事が好き…か」
ふと思い出してしまう…。
好意が齎す歪んだ状態を…。
「蓮…好きよ…。愛しているわ…。だから…」
母の歪んだ愛が部屋を覆う…。それでも大好きな母の為に…。
「かあ…さん…」
恐怖を堪えてただ立ち尽くす…。逃げたい…今すぐに駆け出して…。でもそれはできない…。
「蓮…」
赤く染まった母の手に抱かれ必死に恐怖に耐える…。来るべき時を待たなければならない…。
ゆっくりと振り上げられた包丁を見ないよう目を瞑り、そして間も無く…。
世界は赤く染まった…。
布団を蹴り上げ目を覚ます。
「かっ…は…はぁはぁ…」
息ができない。ここまで酷いのは久々だ。喉が焼けるような感覚…水が…。
部屋を出て洗面所に行き喉に水を流し込む。非常灯と窓から入る込む月の明かりでぼんやり明るい洗面所で時間を見る。
十二時半くらいか。考え事をしたまま眠ってしまったらしい。そのせいで見たくも無い悪夢を見る羽目になった訳だが…。
自分の横腹にある傷をシャツの上からそっと撫でる。今はもう痛みも何も残ってはいない。あるのは刺されたときの恐怖と悲しみだけ…。
「なんなんだ全く…」
間違いなく昼間の一件があったからだろう。普段生活してる分には殆どあの時の夢なんて見ない。
早く何とかしなければ…。
「朝まで寝れないな…」
「行ってきます」
案の定、夜中に目が覚めてから眠る事などできなかった俺は誰よりも早くに施設を出た。板垣には悪いと思ったが今は吉野の一件の方が重要だ。迅速に吉野と対話してけりを付ける必要がある。
「おはよ、蓮?」
「っ!?」
歩いて一分ほどで施設の庭を抜け、門を出た直後にそこに居るはずのない人物から挨拶をされる。
「よ…しの…? なんで…」
「なんでっで決まってるじゃない? 蓮を迎えに来たんだよ」
意味が分からない…。
迎えをも何も目的地は同じ学校…。
しかも吉野の家は俺の住む施設とは反対の方角だったはずだ…。
どうしてこいつはここに…?
「昨日言ったでしょ…?」
吉野の言葉でハッと我に返る。言った?何を?
「蓮の事が好き…。だから蓮を私の物にするって…。だから、これからは出来る限り蓮と一緒にいるの。もう板垣とは一緒に居させない…から」
「な、なんだそれ…? 意味が分からない!!」
俯きながら突拍子もない事を言う吉野に対して言葉を続ける。
「俺は昨日ちゃんと言ったはずだ!! 気持ちは嬉しいが応えられない、板垣は関係ないと!!」
「うん、だからね蓮も気付いてないんだよ?」
「…は?」
「蓮は知らないうちに板垣の策略に乗せられていたの。何もできない振りをして蓮の傍にいようとしているの。あの女は」
…こいつは何を言ってるんだ? 板垣が転校してきて何も分からないのは普通だし、わざわざそんな意味の無い策を練る必要なんて無いはずだ。
思考を練り、解決策を考えていた俺の方に振り向き彼女は話を続ける。
「蓮は優しいからあの女に漬け込まれる。そして自分でも知らないうちにあの女に惹かれていくんだよ…。だから私の気持ちも受け入れられない…。だからね?」
こちらを向いた吉野の顔を見る。
透き通った瞳でこちらを見ているようで何か別のものを見ているような…。
「あの女と関わらせない。あの女がいなければ蓮は私の物になるでしょ…?」
「お前は…」
吉野はどこかおかしい…。それは間違いないがどうしてそうなったかが分からない…。
仕方が無い…。今は吉野が正気に戻るまで吉野と一緒に居たほうが良さそうだ。
「分かった。とりあえず学校に行こう。板垣はまだ施設にいる。二人で歩きながら話そう」
「うん!」
そう言った吉野は俺の手を握り歩き出した。
また誤解されるんだろうな…。面倒だ…。