五章 記憶
幼い頃、事故で父親を亡くした私は母に女手一つで育てられました。けれども、それが不幸だとは思わなかったし、母と二人で幸せに暮らしていました。
でも、私は元々内向的な性格だった為小学校、中学校共に友人と呼べる人ができたことはありませんでした。特に中学校に入ってからは友人どうこうの前に、この年齢辺りから起こる必然の行為、いじめと呼ばれるものに苦しんでいました。
「板垣、おまえってさ父親いないんだって?」
「それに母親も水商売やってるんだってな」
「え、それマジかよ!? ははは、お前の家って残念すぎるな」
クラスの男子達が私に目を付けてからというもの、このような悪口は日常茶飯事となっていました。勿論、母は水商売などしていないし、父が死んだのも不幸な事故があったからです。それなのに彼らは在りもしない話をクラス中に言いふらし、私の反応を楽しんでいました。
最初は一生懸命彼らの話を否定していた私でしたが、私が否定すればするほどに彼らの苛めはエスカレートしていきました。そして私は彼らの話には一切反応しなくなりました。自分に関する話でも、そうでなくとも、私はクラスの男子達の話を全て聞き流すようにしたからです。しかし、どんなに彼らを無視しても目の前に来て暴言を吐かれることもあります。次第に私は心も体も彼らを拒否するようになり、男子達が近づいてくるとトイレに逃げるようになりました。
これが私がこのクラスで生活するための唯一の処世術…。
それでも彼らは私を苛めることを止めませんでした。それどころか彼らとよく話す女子生徒達までその行為に参加するようになりました。女子達のいじめは男子達よりも陰険で、靴隠しは当たり前。教科書類がゴミ箱の中にあったり、トイレに入ればドアを塞がれ閉じ込められる。挙句の果てにはクラスイベントでお弁当を持参した時にお弁当箱に虫を入れられていたこともありました。
それでも私はこの行為を担任や生活指導の先生に相談することはありませんでした。当然です。こんな事を先生方に相談しても解決されるわけが無い。そもそもここまでの行為を先生方が知らない筈がないのです。誰だって厄介事には関わりたくないのでしょう。それに、相談してもし母にその事を連絡されてしまったら…。大好きな母を苦しめるような事だけは絶対にしたくない。だから私は母の為、そして自分の為に日々の卑劣な行為を耐え続けていました。
悪夢のような中学校生活を終えた私は少しでも母への負担を軽くするため、家から少し離れた所にある比較的授業料の安い高校に進学しました。成績は問題なかったし、何よりも同じ中学校から進学する生徒がまったくいなかったので好都合でした。これでもうあの悪夢のような日々に苦しむこともない。毎日穏やかな高校生活を送れる。そう思っていました…。
「早苗…ごめんね。お母さん、お仕事クビになっちゃた…」
突然の事でした。聞けば母は体調が優れずに仕事を休むことが多く、これ以上母を雇うことはできないと言われたそうです。
「で、でも…これからの生活はどうするの? 家に貯金なんてないし…。私がアルバイトしても生活できるような額は…」
「………」
母は何も言ってはくれませんでした。今思えば、この時既に母はもう親子二人で暮らしていくことはできないと分かっていた様な気がします。
それから三日ほど経ち、家にスーツを着た男性と女性がやってきました。金融関係の方かと思いましたが、話を聞く限りどうやら違うようでした。しばらく母と三人で話をしていた二人は私の所へ来て詳しい話をしてくれました。
「早苗さん? もう知っていると思うけどお母さん、お仕事がなくなってしまってこれ以上早苗さんと一緒に暮らすのが難しくなってしまったの。だから、早苗さんは今の学校を辞めて一人で働いて暮らしていくか、私達の児童相談所に行って別の施設に行く様な形になってしまうの」
児童相談所。子供から家庭や学校生活での相談を受けたり、まともな家庭生活を送れないような子を一時的に保護するような所で、家庭と施設の中間に位置する所らしいです。十七歳までなら児童相談所に行き、そこから別の施設で生活を送ることができるそうで、私は自立して働くか、施設に行くか選ぶことになってしまいました。しかし、今までアルバイトの経験も無い私がいきなり中卒で働くなんてできるはずないし、選択肢は一つしかありませんでした。
「早苗…本当にごめんね…。ごめんね…」
泣きながら母は私に謝罪をしてきました。
今まで女一人で私を育ててくれて…
僅かな期間でも高校に通わせてくれて…
本当に謝らなければならないのは私の方なのに…。
「お母さん、泣かないで…? 私大丈夫だから。施設でもしっかり頑張るから…。友達も…頑…張って作るし…勉強…も…。だか…ら…もう泣かないで…」
涙が止まりませんでした。でも、これだけはちゃんと言っておかないと…。
「私が…高校卒業して…働いて…立派な大人になったら…また…一緒に暮らそ? 私…頑張る…から…」
もう頷くことしかできない母を背に、私は相談所の職員と共に家を出ました。
お母さん、今までありがとう…。
待っててね…。
私…頑張るから…。