一章 逢坂蓮のいつもの日常
「ごめんね、蓮・・・」
涙を流し、そう言って近づいてくる母。
手には赤く染まった母愛用の包丁。
傍にはもう動かないかつて父だったもの。
身体が思うように動かない。
水の中にいるような感覚。
ただ、怖い。怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
怖い。
「―ん、れーん、蓮!」
恐怖と自分を呼ぶ声で目を覚ます。動悸が治まらない。落ち着いて周りを確認すると一人の男子生徒が横から心配そうに話しかけてくる。
「授業終わったぞ? 大丈夫か?」
どうやら授業中に居眠りをしたらしい。しかし、授業中にあんな夢を見るとは…。
「あ、ああ。先生に起こされたかと思ってびっくりした」
「先生も気づいてなかったぜ? それにしてもあの優等生の逢坂蓮君が授業中に居眠りとは。ま、春眠暁を覚えずってやつだね」
「別に居眠りしないわけじゃない。ばれてないだけだ」
「いいよな、蓮は。俺なんか一回見つかっただけで次は課題だからな」
俺の友人、中塚徹は成績は普通で特別問題になるようなこともしていない。にも関わらずこいつは先生方にやたらと目を付けられる。恐らく存在自体が目立つのだろう。おかげでこいつと一緒にいる俺は大人しい優等生ポジションに付くことになる。
「そういや蓮、今日は部活行くの?」
「そうだな。少し叩いて帰るか。」
「いいなー、俺もベース弾きたいわ」
「家で弾けるだろ。ドラムは学校でしか叩けない」
「まぁ、そうだけど」
そんな話をしている内に帰りのHRが始まるチャイムが鳴った。徹は自分の席に戻っていき、間も無く担任が教室に入ってきた。
「蓮みーっけ」
放課後、部活に行こうと廊下を歩いていると後ろから自分を呼ぶ声が聞こえる。振り向くと一人の女子生徒がこちらに向かって来る。
「う…吉野か」
吉野葵。クラスメートの一人で俺が学校で話す唯一の女子学生。茶色掛かったショートヘアに、整った顔立ち。気さくで友人も多い彼女は、俺のような無愛想な奴にも話しかけてくる。もっとも、去年よく知りもしないこいつに妙なアクションをした俺が悪いと言えばそこまでだが。
「今あからさまに嫌な顔したね?」
「気のせいだ」
「そ。まぁいいわ。そんなことより今日は蓮にお願いがあるの」
予想通りきた。「今日は」という言葉は間違いだろう? 正しくは「今日も」だ。
「御免蒙る」
「なによー、そんなに私のお願い聞くのが嫌なの?」
「ああ」
「なんでー。ねぇ、お願いー。お願いー、お願いー、お願いー」
「あぁ、もう!! やかましい!」
いつも通りのやり取りだった。こちらがどんなに拒んでも彼女は決して諦めない。過去幾度となく拒絶を繰り返した俺はもうそのことを知っていた。
「内容は?」
「えへへー。実はね、私の部活の顧問がね? バレー部は成績が良くないからテスト二週間前の今日からテスト勉強しろって言うの。それで今日からの部活は全部図書室で自習になったんだ。そこで、成績優秀で教え方の上手な蓮君に勉強教えてもらおうと思って」
意味が分からない。自習するのはバレー部で、俺は軽音楽部。こいつの勉強の手伝いをなぜ俺が?
「無理だ」
「なんでよ?」
「俺にも部活がある。なぜ二週間前から俺ではなくお前の勉強を見なくてはならんのだ。そもそも俺は優秀ではないし教え方も上手くない」
「とか言いつつ、いつも教えてくれるじゃん。それに、どうせ軽音部は部員二人しかいないからロクな活動しないでしょ? それに、私の大っっ嫌いな理数は蓮の得意科目でしょ? ほら、利害が一致した」
「どこが利害一致だ。俺に利益など一ミリもないだろ。」
「とーにーかーく、私は蓮に勉強教えてもらうって決めたの!! 文句ある!?」
無茶苦茶な事を言っていた吉野は挙句に逆切れし始める。文句があるのはどう考えても俺だろ。
「はぁ…。というか、バレー部の奴らはどうした? 仲間内でやればいいだろう」
「蓮、私の話聞いてた? バレー部はみんな成績が悪いって言わなかった?」
さいで。
「というわけで早速図書室いこ?」
こうして俺は半ば強引に図書室に連行された。まぁ、吉野の言うとおり部活は無理に出なくてもなんとでもなったし、吉野の強引な誘いは初めてではなかったので諦めがつくのにさして時間は掛からなかった。こうして俺のいつもの日常は、いつも通りに進んでいったのだった。