夢の中
アティフが部屋から出ると、皇帝も立ち上がった。
「朝食が済んだら部屋へ案内してやれ。私は妃の許へ行く」
「陛下のお食事は如何いたしますか?」
「あちらで取る」
「御意」
少し急いでいる様子で部屋から出ていく皇帝に頭を下げるナイマ。凛は他人事のようにそれらを眺めていた。
「質問がございましたら、私の分ることはお答え致します」
頭を挙げたナイマが徐に凛に訊ねた。
凛は小首を傾げてから頷いた。
「特には……」
夢とは大概矛盾していておかしなことだらけだ。
だから、別に質問も疑問もない。
そんな投げ遣りとも取れる態度の凛を、ナイマは無表情で観察した。よく見ると凛の顔には涙の跡と薄らと隈が浮いているのに気が付いた。
「失礼致します」
湯で絞ったタオルで凛の顔を拭き始めると、恥ずかしいのか「自分でやります」と言いいながらタオルを受け取った。
凛はそのタオルを少し腫れぼったい目に当ててソファに体を預けた。
「少しお眠りになりますか?」
「え……いえ、起きてます」
夢の中なのに変な会話だなぁ、と凛は少し笑った。
「では、朝食をお持ち致します」
足音が遠ざかり、部屋の中にいるのは凛一人だけになった。
少しウトウトしているとナイマに声を掛けられて起こされた。
色々な食べ物が用意されているが、文字通り凛は突くだけで口にしない。
行儀が悪いがナイマは黙って見ていた。
「お食事がお済でしたらお部屋へご案内致します」
「あ、はい」
「こちらの部屋は陛下の私室になりますので、ご用のない限り近付くことは許されません。以降、お気を付け下さい」
ナイマに注意されながら、そこから出て長い廊下を渡った先にある部屋へと案内された。
「随分、広い部屋……」
居室に寝室、洗面所、浴室が内装されている部屋だ。
インテリアは華美過ぎず、趣味の良さそうな鏡台もあるし、茶器もある。
「必要な物がございましたら直ぐにお申し付け下さい」
ナイマはそう言うと隅に控えた。
部屋はすぐにでも人が生活できるように準備されていたようだ。
凛は特に不思議に思うこともなく首を横に振った。
不思議な気分だ。
本当なら、今日は日曜日で洗濯をしたり掃除をしたりしていたはずだ。
いや、目が覚めたら日曜日なので洗濯も掃除もするのだろう。
そして月曜日には出社しなければならない。
凛は重たい溜息を吐いた。
***
ぼんやりと過ごしていると、いつの間にか夕方になっていた。綺麗な茜色の空が大きな窓に広がっている。
「リン様、夕餉をお持ち致しました」
夕焼けを、見るともなしに見ているとナイマに声を掛けられた。
返事の代わりに振り返ると、無表情な彼女の顔が目に入った。
「今夜、陛下の訪いがあります」
凛が首を傾げているとナイマが告げた。
皇帝と会うのは二日振り、私室で朝食を一緒に取って以来だ。
「ふぅん」
「宜しいのですか?」
「何がですか?」
「……何でもございません」
ナイマは、どうでも良さそうな凛の返事に軽い溜息を吐くと、夕食の用意をするために出て行った。
日が沈みきると、ナイマと二人の女性により食事が運ばれてきた。用意が整うとナイマ以外の二人は部屋から出ていった。
凛が機械的に口に運んでいると、皇帝が部屋に入ってきて向かいに座ると、ナイマは皇帝に酒を注ぎ始めた。
「口に合わないか?」
酒を飲みながら凛の食事の様子を見ていた皇帝が尋ねると、凛は首を横に振った。
その割にさっぱり食事に手を付けていない。
凛の食事の量が少な過ぎることが、ナイマからアティフに告げられていた。そこから皇帝の耳に入った。
それともう一つ気になることがある。
「眠れないのか?」
この二日間で凛の隈がすっかり濃くなっていた。
凛はほとんど寝ていない。
目が覚めて現実に戻ることを恐れているためだ。
会社に行けば彼と彼女が付き合い始めたことを耳にするだろうし、何より二人の姿を見たくないから。
だから、ずっとこのまま夢の中にいれば良いのだ。
「私の姿は、それほど不快か?」
俯きながら考え込んでいると皇帝が尋ねた。
「……いえ、別に」
凛は少しの間の後、否定した。
「私のことを見ないようにしているだろう?」
それは、皇帝の顔や声が彼を連想させるためあまり見たくない、という無意識の行動だ。
だが、自分で気付いていないその行動に凛は上手く返事を返すことができない。
「それは……陛下の姿が不快なわけじゃなくて、その」
皇帝は怒るでもなく口篭もる凛を苦笑を浮かべながら酒を啜った。
それから凛は気まずさを誤魔化すように、食べ物を口に運んだ。
結局いつもより多めに食べてお茶を飲みながら、部屋の明かりに照らされる皇帝の顔を見た凛は、やっぱり似ていると思った。
それから、ふと思った。
どこからが夢なんだろう?
彼と別れたことも夢なのでは?
そうだ、次の休みには久しぶりに彼と会って話をして食事をして……
会話どころか会うことも少なくなっていた。
胸にズキンとした痛みが走った。
『私、今村さんと二月前から付き合ってるの』
大きな白い手が頬に触れて凛は思考の渦から引き戻された。
涙でぼやけた焦点を一生懸命合わせると、男の顔が見える。
「今夜はここで過ごす」
一瞬何のことか分からず男の顔を見上げた。
「忘れたか? お前がここにいる理由を」
明らかに不愉快な顔で言いながら男は凛の腕を掴むと寝室へ向かった。