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彼の名前  作者: 柿衛門
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思いの中

 


 懐かしい音に顔を上げると凛はいつの間にか道路に立っていた。

 見覚えのある通勤路。


 ホッとしながら見渡す風景は、排気ガスの懐かしい臭いと眩しい街灯で満ちている。


――戻れたんだ……


 ホッとしているのに、嬉しいのに、酷い喪失感に覆われるのはなぜだろう。


――……家に帰れるのに


 それなのに悲しい。

 凛は分かっていた。二度と帰れないことを。

 知っている場所のはずなのに、自分がいてはいけない場所にいるように感じて足が動かない。



 どれくらい時間が経ったのか、凛はそこから動くことが出来ずにいた。

 誰も佇んでいる凛に気が付かず、車は通り過ぎ人々は流れていく。

 それでも凛は動くことができなかった。動けば帰れるはずなのに。動くことを忘れたかのようにそこにいた。


 夜空は薄紫色になり昼の眩しい日差しに晒された。

 凛の体は暖かさを感じず、どこかワントーン落ちた景色に佇んでいる。夕暮れになり街灯が灯るころ、凛の視界に見知った男が入ってきた。道路の反対側に立っている男は誰だったか、名前が出てこない。


 名前を呼べば気付いてくれるのだろうか?

 どうだろうか?

 名前を思い出せても、呼んでも、きっと彼はこちらを見向きもしないだろう。それでも彼のことを呼んでみたい。

 だが、ぼんやり立っていた男は去って行った。

 男の背中を見送りながら涙が溢れてきた。


 動かない体で溢れる涙を拭うこともできずにぼやける彼を見つめ続けているだけ。


 悲しみは次第に恐怖に変わっていった。


 こうして通り過ぎる彼を見つめながら、彼がいなくなったあとも動けずに、いつか地球が終わる日までここにいなければならないのだろうか?


――どうしたら良いの? もう分からない……


 恐怖に囚われながら動くことが出来ない体。


 帰り方も帰る場所も最早分からない。



***


 私室に戻ると凛はソファにもたれ掛り目を閉じて寝ていた。起こさないようにそっと近寄ると、涙を流している。


「泣いてばかりだな……」


――……私のせいか


 自己嫌悪に陥る反面嬉しさも感じている。自分のせいで女に泣かれるのは、鬱陶しいが凛が自分のせいで泣くのはなぜか嬉しいのだ。


「泣かない女だと思っていたのだがな」


 あのときもそうだ。

 別れを告げたときも、泣くでもなくそれどころか微笑みさえ浮かべていた。あのように笑うくらいなら泣けば良い……。


 そう思いながら首を傾げた。心の底にこびり付く、覚えのない苦い思い出。

 いつのことだろう?

 そう思いながら凛の肩に手を置いて軽く揺すった。


「凛……このようなところで寝ていると風邪をひくぞ」


 凛の手から、ペンダントが落ちてきた。送った覚えのない装飾品に眉を顰めながら拾おうとして手を止めた。


「……思いの石? なぜだ?」


 ナイマが凛に渡したものは、記録の石とは別なもの。記録の石は正確に記録のみを刻むみ、思いの石はその名の通り、思いが込められている。

 扱いを間違えると、思いに囚われ抜け出せなくなる。そのため発見されたり、採掘された場合は速やかに役人に届けなければならない。その後、帝国の宮殿の管理室で厳重に管理されることになっている。

 

 静かに涙を流し続ける凛に皇帝は凍りついた。


 考える間もなく、石を凛の左手に載せその手ごと石を握った。



*


 あと少しで彼女に追いつく。走ればすぐに捕まえられる。

 許してくれるだろうか? きっと彼女は許してくれる。俺は、優しい君に付け入る狡い男だ。


 それでも行かないで欲しい。傍にいて欲しい……ごめん、凛


 あとほんの少しで――


 皇帝はそこで違和感に気が付いた。いや、違和感ではなく酷くしっくりくる感情を覚えていることに気が付いた。

 思いの世界に囚われそうになっていることに気が付き、周囲を見渡す。


 いつも見る夢と同じ場所なのに、凛が死んだ日とはどこかが違う場所。


――凛を見付けなければ……!


 そして必死で走る自分に気が付いた。

 水の中でもがくように体は思うように進まないが、それでも走る。

 

――……凛!


 そして道路に佇み空を見上げる凛を見付けた。


『凛――!』



*


 恐怖も悲しみも喜びも混ざりあった優しい苦痛の中、凛は佇んでいた。


『凛……』


 男は動けずにいる凛の名前を呼びながらそっと手を伸ばして抱き締めた。


『一緒に、いてくれ。俺の傍に……ごめん、凛』


 謝る男に彼女は首を横に振った。


『さぁ、戻ろう。一緒に』


 凛は再び首を横に振った。


『わたし、ここにいるの』


『……頼む、一緒に来てくれ』


『……ここにいたい』


 凛を抱き締める男は、自分を見ようともしない凛の視線を辿った。

 あの男がいる。


 あの男のせいで凛は死んだ。

 なのに今でも凛の心を捉えて離さない。


 その男が狂ったように走りながら、こちらへ来るのを視界の端で捉えた。


 狂おしいまでに凛を求める姿が自分と重なる。その男の姿が凛に見えないように頭を胸に押し付けて抱き締めた。


――だけど、あれは……あの男は私ではなかったのか?


 例えあれが自分だとしても、凛を渡したくない。


『……俺と行こう。一緒にいてくれ』


 男は凛の顔に手を当て、自分の顔を見せるように上げさせた。凛の視界にぼやけていた男の顔がはっきり見えてくる。

 

『凛……俺は、君を愛しているんだ』


『……いまむらくん?』


 男は「違う!」と叫びたかった。その口で別の男の名前を呼ぶな、と。


 それは、俺であって俺ではない男の名前。

 俺の名前を呼んでほしい。


 だが、名前を呼んで欲しくとも男は昔、名前を失くしてしまった。


『いまむらくん?』


 凛は微笑んだ。柔らかい微笑みが苦痛になって男を襲う。

 それは、彼ではなく「いまむら」という男に向けられた微笑み。


――どうして……どうして、俺は手を離してしまったのだろう?


『俺は……「いまむら」じゃない……』


『いまむらくんだよ……』


『違う……「あれ」は俺じゃない……』


『とおるくん……とおるくん』


『俺は、おれは……!』


 凛の儚い微笑みに、あの男と一緒にするな、と頭の中で必死で否定しても心は認めた。


――認めたくなかった





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