記録の石
武器を持っている人間がそれを落としたのは、皇帝がフィランに到着したときだ。
五百キロの距離を一日で移動してきた皇帝と従者二名は、異様な空気を纏っている。
彼等が騎乗している馬からもその空気が感じられる。
武器を落とした途端に人間は、無条件に平伏した。平伏す人間の間を通り、皇帝は迷わずフィランの国主の前へ立った。
その後に従う二人も膝を付いた。
皇帝は、震えながら平伏する男を睥睨するだけで何も言わない。
「へ、陛下……」
「お前は何をしている? なぜ武器を持った?」
問いを発したのはラン。
国主は静かなランの声に恐縮して何も考えられない。
「なぜだ? 答えろ」
なぜ、戦争など起こしたのだろう。己の意思だったのだろうか?
「戦争により技術が発達する。それが民を後々裕福にさせる」と言いながら、古代の武器の復活を示唆した者がいた。
なぜ、そんな言葉に惑わされたのだろう?
人間は現状より良い状態を求める。それが悪いことなのだろうか?
「何がお前たちに戦争を起こさせた?」
国主は戦場を思い出した。死ななくて良い人間を殺した。
「どうした? 答えろ」
「女が……黒い髪の女が……」
静かな威圧感に圧されながら、国主は答えていた。
国主の言い分を聞き終えた皇帝は、怒りで震えながらその場で初めて声を発した。
「……あの女……」
『……戦争が良いとは言わないけど、戦争があるから技術が発達――』
正しく凛が言っていた言葉だ。
空気が震えるような怒気に意識を失う者達。それを察したレインから、冷えた気が発せられる。国主は真青になりながら意識を持ち堪えた。
「お許し、下さい、陛下。罪は、私だけに……」
怒りに任せて、国主の首を締め上げるとランが口を開いた。
「きさまらが壊したもの、元に戻るまで死ねると思うな。それが世界の意思だ」
ランがそう告げると、皇帝は忌々しそうに国主から手を離した。
国主に下された罰は、壊したものが元に戻るまで生きながらえることだ。
「……あの女を捕まえる」
争いを収束させた皇帝は二人に告げた。
***
「とは言え、何をすれば言いんだか……」
死なないために出来ることと言えば、逃げ切ることだけ。
逃げさえすれば、物理的な死からは免れる。
部屋は直径十メートルほどの円形で壁は真白く継ぎ目がない。気を付けなければどこから入ったのか分からなくなってしまいそうだ。
部屋の中央には腰くらいの高さの台座に置かれた、卵形の光る石が置かれている。
迷いなくそれに近付いた凛は、その光る石を観察した後に触ってみた。
その途端に頭に情報が流れ込んできた。脳に負荷がかかり吐き気が込み上げてくる。
「あああぁぁぁぁっ!」
手を離す間もなく鼻や耳から血を流しながら凛は倒れた。
*
気が付くと、凛は荒れた赤い大地を見つめていた。世界は死んだように静まり返り、空は赤く不気味な様相を呈している。
彼女に流れ込んできた情報は、皇帝と妃の三千年前の記録。彼女は今、形を持たない記録その物になり音のない世界になっていた。
赤い色を反射して形を変えながら流れる雲も、砂の一粒さえも認識できる。そして、殺しあう人間達も。
その中で、血で染まったように赤い大地に蹲る黒い髪の男と、駆け寄る女が見える。
女が男の体を抱き起こすと、男は泣きながらその胸に縋った。
女も泣きながら抱き締めると、男は苦しそうに震え始めた。のた打ち回る体を、押さえるように抱き締める女。
どれくらいそうしていたのか、男が立ち上がると全ての人間は武器を降ろした。そして、地に跪く。
立ち上がったとき、男の髪から色が抜けたように白く光っていた。
皇帝が誕生した瞬間だった。
それは絵本で見た挿絵と同じ光景。
凛は悟った。だから言葉も通じるし、文字も読める。
皇帝は、言葉も文字も母国語である日本語に統一したのだろう。
突然、景色が変わった。
薄明かりの中、男と女が睦みあっている。
男は飢えたように女の口を貪り、女が壊れるのではないかというほどの激情をぶつけている。
女もそれに応えるように、深く繋がるように体を密着させた。
まるで世界は二人しかいないように激しく求め合っている。
――私はこの男にここまでの激情をぶつけられたことはあった?
――彼はこれほどの激情を持っていた男だったの?
『凛。俺、違う女と寝た』
――あのときも、そうだったの?
実体を持たないはずの体中の血が逆流する。
どれだけ凛が目を背けても、その記録は流れ込んでくる。
――私はこの世界でも二人の邪魔をしているの……?
あのとき、凛を突き飛ばす高田の向こうに、今村の姿も見えた。
――邪魔してるつもりはなかったのに、殺すほど目障りだったの?
二人の姿が、愛し合う二人の姿にピッタリ一致する。
――もう分かったから……もう、もうやめて!
声にならない叫びを上げたとき、凛は赤い大地を見つめていた。音のない世界。赤い空。
こうして、凛は同じ光景を何度も何度も繰り返し見せられた。
*
いつの間にか心を閉ざした凛の意識は記録との境界がなくなり、バラバラになり、世界の中に溶けていった。
***
妃は体を起こして、胸元の傷があった場所を見た。そこには傷跡一つなく滑らかに光っている。
全て上手く行っていると思ったのに邪魔が入った。
もう皇帝は、彼は必要ないと言った。世界は元に戻ったのだろう。
それは、二人の時間の終わりを意味する。
――ならもう一度世界を壊せば良いだけ。そうすれば、いつまでも彼と二人、一緒にいられる
それなのに世界が呼び寄せたのは、あの女。
しかも皇帝はあの女を隠していた。
「りん……さ、さき、りん……」
何も覚えていないのに、彼女だけは忘れない彼。
彼と二人の世界を邪魔する女。彼はいつだって私を愛しているのに、浅ましい目で彼を見る女。
早く捕まえて次を産ませて処分すれば良い。彼も言っていた、「処分する」と。
そうすれば今までと同じ。彼と一緒にいられる。
何も心配することはない。




