憎しみ
「……え?」
本に没頭していた凛は突然声を掛けられ顔を上げた。
「私は妃のシャリファです。陛下から聞いていると思いますが、南方で戦争が始まりました」
「そ、そう、ですか……」
「……貴女の役目は分かっていますね?」
「皇帝の、陛下の子供……を」
「ええ……貴女が産むのは次代の皇帝となります」
凛は体中が震えてきた。
「くれぐれも宜しく頼みます」、と言う妃のあどけない可愛らしい顔には悲しみが漂っている。
暫しお互いに見つめ合っていたが、突然妃は愕然とした表情になった。
「貴女……生きていたの?」
妃の言葉に凛は怯えを隠さず震え出した。
***
「何事だ?」
夕方私室に戻ってきた皇帝は慌てながら部屋から飛び出るナイマと遭遇した。
「シャ、シャリファ様が……」
「何だ? リンはどうした?」
ナイマは震えながら頭を横に揺らしている。
その様子に焦れて部屋へ入ると妃が床に倒れていた。
「シャリファ!」
急いで駆け寄り倒れ伏す妃をそっと慎重に起こすと、苦しそうだが息はあるし、脈もしっかりしている。
「大丈夫だ。医師を呼んで来い」
皇帝の言葉に我に返ったナイマは医師を呼ばせに、外に控えている女官に命じた。
「何があった?」
「……申し訳ございません」
妃が昼過ぎに皇帝の私室へやってきた。異界の女と二人きりで話がしたい、と言い人払いをしたため、ナイマは前室に控えていた。
その後、部屋から悲鳴が上がった。
慌てて部屋に駆け込むと、妃が倒れて凛が血まみれの短剣を手に立ち尽くしていた。
人を呼ぼうと部屋から出たら皇帝と鉢合わせたのだが、その間に凛は逃げた。
「何だと……リンが、やったのか?」
「リン様は……短剣を持って、おりました……」
ナイマは逡巡品しながらも見たことを正確に話した。感情の上では、凛が凶行に及んだなどとは思えないが。
「……シャリファ。すまぬ……私が、私が悪かった」
*
「あのような女に現を抜かすなど……クソッ!」
皇帝は酷く後悔していた。
「陛下……大丈夫ですので、そのように大声をお出しにならないで」
妃の傷は浅く、数日で起き上がれるまで回復していた。
「ああ……すまぬ」
「リンとやらはどうするのです?」
「……放っておけば野垂れ死ぬだろう。ああ、報復が望みか?」
「いえ、報復など何も産みません……」
「お前は……優しすぎる」
妃は力なく寂しげに首を振った。
――……放っておけば野垂れ死ぬだろう
「クッ……!」
皇帝は悔しさに歯噛みした。
恥ずかしそうに赤くなる様も、悲しげに泣く様も、思い出すだけで全て憎たらしい。
凛は、凛だけは違うと思っていた。
どの女も妃を傷つける。
そのような女に現を抜かして、一時でも心を奪われたなど。
――みすみす野垂れ死になどさせぬ
「アティフ……あの女を捕まえる」
「な、何故です!?」
「あの女が来たから戦争が起こったのだろう!? 赤い月を見たのであろう!?」
「ですが、捕えてどうなさる御つもりなのですか?」
「……甚だ不本意ではあるが、次を産ませる。その後処分する」
「……御意」
「私はその前に戦争を収めてくる。良いな、シャリファ」
「御意……陛下」
「何だ?」
「私は永遠に陛下のものです――」
「……ああ」
――そして、陛下も永遠に私のものです
声にならない情念は、妃のあどけない可愛らしい顔に覆い隠された。




