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「ヒロシ君の純愛、サヤカちゃんの憂鬱     ――楽観主義の七福神―― 」

シリーズで考えています。


「BWK大賞1」




(タイトル)


「ヒロシ君の純愛、サヤカちゃんの憂鬱

    ――楽観主義の七福神―― 」

            











 



           (筆耕名)        河原(かわはら) 俊太郎(としたろう)





400字詰め原稿用紙  換算枚数 80枚 (表紙除く)

  (現状ワープロ原稿 40字×40行の印字で 23枚・表紙除く)







          1

 下町宝船署捜査一課、寿財子の携帯電話が音を立てたのは早朝の6時だった。

「課長、朝早くからすいません。申し訳ないすけど、すぐ起きて顔洗ってくれます?事件なんすよ。朝っぱらから、変死体、見つかっちゃってんすよぉ」

 電話をかけてきたのは部下の布袋刑事。財子は手探りで枕元に見つけた携帯を、朦朧とした意識の中、何とか耳に押しつけていた。

「課長?もしもし、起きてますぅ?また飲み過ぎですかぁ?聞いてますぅ?課長?すいませんがマキでお願いしたいんすけどぉ――」

 財子はいつものように腫れたまぶたを開けられもせぬまま、こちらの存在を知らせようと声を絞り出した。「…気持ち……悪い……」

「課長ぉ!お願いしますよぉ!こっちなんか5時から出てんすよ。現場、課長待ちなんすからぁ!現場の現状維持、けっこう厳しいんすよぉ!早く処理して片付けないと、子供たち、来ちゃうんすよぉ!」

「…子?…子供…たち…?……現場……現場って……どこ……なの……?」

「三丁目の大吉幼稚園なんすよ。幼稚園の砂場に、砂場、わかりますぅ?子供たちがトンネルだの、お城だの、作って遊ぶ所――」

「…砂場くらい…知ってる…わよ……」

「――その砂場に、男の死体が、頭半分だけ上に出した死体が、埋まっちゃってるんすよぉ」

          2

「課長、目の辺り、思いっきり腫れてますよ。大丈夫っすか?」

 事件の現場に駆け付けた財子に、小走りに駆け寄ってきた布袋が声をかけた。

「大丈夫よ。これでも前は見えてるんだから。それよりも、状況は?」

 夏の日差しに照らされて暑さから逃げ場のない幼稚園の広い敷地に、マスコミ関係者を遮断するように、立入禁止の文字がプリントされた黄色いテープが張り巡らされ、現場周辺では制服、私服の警官、鑑識などの人員が、慌ただしく蠢いている。中でも人の集まりが多い辺りを渦中の砂場と見当をつけ、財子は足を速めた。その後をずんぐりと大きな体を弾ませながら、布袋が追いかける。小柄で華奢な女上司と大男の部下。行動を共にすることが多い二人のことは署内でも有名で、ご多分に漏れず、デコボココンビと誰もが揶揄した。

「男性30歳くらい、携帯品未確認のため今のところ身元不明、当幼稚園内砂場にて、顔面鼻から下、全身埋没の状態で発見。死因は現場の状況から窒息死が濃厚。事が起こったのは幼稚園の職員が帰った昨日の午後7時以降、大雑把な死亡推定時刻は午前0時から3時頃。第一発見者及び通報者は、早朝、園内の掃除に来た幼稚園の用務員の高橋さん。通報時刻は午前5時5分。ご本人にはあそこで待ってもらってます」

 布袋は大柄な割には瞬発力がある。態度が慇懃無礼なのは玉に瑕だが、高学歴故の成せることと思えば、それも致し方ない。頭がよく、体格の割には軽快で、上司が女だからといって軽んじるわけでもない。そういうところを、財子は満更でもないと思っていた。

「あらら、見事に埋まっちゃってるわねぇ」

 財子が砂場に辿り着くと同時に、紺の制服で一目で職種がわかる鑑識官が、現場にかけてあった大きな布を捲り上げた。5メートル四方程度の砂場のほぼ中央に、湖にポツンと浮かぶ小島のように、人の頭がポッカリと出っぱっている。砂場の表面が妙に平坦な分、両目を閉じ、鼻まで埋まった人の坊主頭は、変に際立ち、滑稽にさえ思える。

 砂場を四角く仕切ってある大きな木の縁をちょこまかと行き来し、一頻りその不思議な光景を眺め回した後、財子が周辺の皆に声をかけた。

「OK、記録が終わったら掘り起こしていいわよ。作業は慎重にね。体や身につけている物を傷つけないように。ご遺体は丁寧に扱って検死に回してちょうだい」

 声を合図に、シャベルを持った数名が砂場を掘り返し始める。その様子を横目にしながら、財子はさらに周辺のあちこちを見回した。傍らにいた布袋が思わず呟いた。

「よりによって幼稚園の砂場に人が埋められるなんて、厄介な事件っすよね」

 財子は相変わらず、せわしなく、ちらほらと辺りを見回し続けた。

「世の中ってのは、厄介なことだらけなものよ。その合間に、たまにそうでもないことが起こっているだけなのよ」

          3

 掘り出された遺体は、その後携帯していた財布の中身から、二丁目に住む一人暮らしの会社員、荒木香一、33歳と判明した。会議室のホワイトボードには、免許証から拡大した本人の写真が張りつけられ、他には、名前や現住所、本籍地、死体の発見日時や周辺状況、発見者名など、現時点でわかっている情報が書き込まれていた。冒頭には「大吉幼稚園窒息死事件」と掲げられた。変死体の発見から間もなく、朝一番の署内の会議室で、顔を揃えてボードを眺めているのは、寿財子課長を初め同事件を担当することになった捜査班の七名だ。

「そもそも事故ですかね、他殺ですかね」

 メンバーの中では中堅の蛯沢が思うままのことを口にした。

「こんなヘンテコリンな死体の発見状況で事故なんてあるもんかい。とはいえ、財布もあるんだから物盗りじゃあねえ。第一ただの物盗りなら、こんな手の込んだことをするはずがねえ。あれほど念入りに砂場に埋められているんだぜ。怨恨の成せる業にちげえねぇだろう」

 一番の年長、あと数年で定年を迎える老川が間髪入れずに答えた。

「まあねぇ、ご老人のいう通り、他殺と考えるのが自然でしょうねぇ」

 温厚な中年刑事の福田も老川に同調する。〝ご老人〟とは老川のあだ名だ。

「――だろう?ガイシャの身辺を洗ってきゃ、おのずと事情が見えてくるだろうさ、なあ?」

 昔気質で勘働きをする老川は、自分と対照的な性格の後輩、理論派の沙門に目配せをする。

「ガイシャと決めつけるのは早計ですよ。よく調べてからじゃないとわかりませんよ」

 沙門は、かけられた声の主を見向きもしないで、スルリとかわす。

「とにかく、今のままじゃ情報が少な過ぎるわ。手分けして、あちこちに当りをつけましょ」

 見た目には一番似つかわしくない捜査班の長、財子が場を締めた。

「ご老人と蛯沢は荒木さんの勤め先を当ってちょうだい。いずれにしても、今日、彼が出勤できないことは間違いなさそうだわ。上司にその旨を報告するとともに、人間関係を探ってみて。福田さんと沙門は、荒木さんの自宅を調査。何か見つかるかもしれないわ。布袋と私はもう一度、現場に戻って聞き取り調査するわよ。近所を訪ねれば、昨日の夜の目撃者でもいるかもしれない。それから大黒は――」

 財子は終始無口な、この春に配属されたばかりの新人の方に目を向けた。

「あんたは頃合いを見て、鑑識に行って記録を貰って来て。それから、検死の結果が出たら知らせてちょうだい。あとはいつものように、情報を整理しておいてね」

 相変わらず無言のまま、新米刑事は大きく頷いた。

          4

「目もと、だいぶ、スッキリしてきましたね」車の運転中、にやつきながら布袋が呟いた。

「うるさいわね、ちゃんと前見て運転してよ」

「午前と午後で、自分の顔がまったく違うの課長、知ってますぅ?午後、特に夕方近くになると、大きな眼がパッチリして、瞳なんかキラキラして、俺がいうのも何すけど、課長、けっこうな美人さんなんすよ。ところが午前中といったら、毎晩バカみたいに飲んで朝を迎えるもんだから、顔はむくんで、目は腫れて、申し訳ないっすけど、見る影もないっすから。いうならば、顔つきが、午後は面長、午前は丸顔ってなもんすよ。それほど違ってんすよ」

「………」

「口の悪い捜査二課の田中なんて、〝お前んとこの課長、午前中に犯罪を犯して、午後に面通しされれば、完全犯罪が達成できる〟なんていってんすよ、悔しくないっすか?」

「お前――よく喋るねぇ――それから――隣の課の田中は――殺す――」

「あとはその性格っすよ。もうちょっと女らしくっていうか、お淑やかっていうか、そういう風に振る舞えば、もてるはずなんすけどねぇ。そうしたら今頃、新築の一戸建てに一人で住んで、毎晩、意識が無くなるまで焼酎あおるなんてことはなかったと思うんすけど――」

「それ以上、口開いたら、お前も、殺して砂場に埋めるよ」

 布袋は幼稚園の正面の、広い駐車スペースに車をすべり込ませた。

「やっぱりこの事件、怨恨による殺しって感じっすかね」

          5

 幼稚園は結局、急きょ臨時休園となった。その敷地内、かの砂場を眺められる場所に第一発見者を再び呼び出し、財子と布袋は発見当時の様子を改めて詳しく聞くことにした。事件の渦中で、驚きと恐怖、不安を感じて興奮している相手からも、間を開け、気持ちが少し落ち着いた頃に話を聞き直せば、当初取り零していた情報を得られることもある。

「――つまり、同じように、今朝も掃除にいらしたんですね。朝はいつもそんなに早く?」

 定年後、シルバー人材センターの紹介で仕事をしているという高橋用務員の話を、布袋が取りまとめる。

「この歳になると目が覚めるのが早くてね。何時に寝たって4時半にゃ布団から出たくなる。だから近所の幼稚園、ここにゃいつも5時には来るんだ。それであちこち掃除したり、子供たちに危ない物、ガラスの破片や何かね、落ちていないか、確認したり、ブランコやシーソーや何かの遊具が、壊れたりしてないか確かめたり、やるこたぁ、いっぱいあるんだ。そんな中で、砂場の砂をきれいにならしたりもするんだよ。そんな風にきちんと整えられてると、子供たちも気持ちよく遊べるだろうし、親御さんたちも安心して子供を幼稚園に預けられるってぇもんでしょ」

「――大変なお仕事ですねぇ――」

 布袋は、大きな背中を丸めて、小さな手帳にメモを取りながら、あえて話を弾ませる。事件解決の鍵はどこに潜んでいるかわからない。何気ない会話に、ヒントを見出すこともある。

「なあに、時間ばかりはたっぷりあるからねぇ。決して多くはないが、年金も貰ってるし、この仕事だって、金じゃあないんだよ。子供たちのね、何か手伝いができりゃあってね。それに体を動かすことは、健康にもいいでしょ。このところ、コレステロールやら血圧やら、いろんなものが高くなる。医者がね、毎日、体を動かさなきゃだめだってぇいうから、この仕事はもってこいなんだよ。一石二鳥、いや三鳥ってなもんでね――」

 人と話をすることで、用務員が今朝受けた精神的なショックは、いくらか和らいできたかのように思える。世間話に興ずるのも悪くはないが、会話には時に軌道修正も必要になる。布袋はニコニコとした表情で、聞き上手を演じながら、頭の中は決してニコニコしていない。

「――で、砂場をならそうと思ったら、そこに埋まっている人の頭と出っくわしたと――?」

          6

 布袋が用務員と話をしている間中、財子はすぐ傍らで二人に背を向け、腕組みをしながら、周辺にテープが張られ、立入禁止になっている当の砂場を眺めていた。朝一番に散々脳裏に焼きつけた景色だが、事情聴取同様、現場にも事件解決の糸口が必ず潜んでいる。見て考えて、そして考えて見て、そうしているうちに、事件現場は何かを訴えてくる。

「――あ、ああ、そうなんだよ。砂場の前に立った時、あれ、何か変だなって思ったんだよ」

 布袋の聞き取りは、まだ続いている。

「それにしても死体がね、目、瞑っててくれて助かったよ。正面に立った時、目でも合ってたら、それこそ気味が悪くて、忘れることなんてできないよ。ただでさえ、最近、眠りが浅くて短いっていうのに、一生、眠れなくなっちまう――」

「何か変だなって思ったのは、砂場から人の顔が半分、飛び出ていたから?」

 用務員が感じた違和感を、情報として取り零さないようにと、布袋が注意を払った。

「――うーん、いや、違うね。むしろ最初は、そんな半分ぽっちしか出ていない人の頭なんかに、気がつかなかったくらいさ。変だなって思ったのは、もう少し、見た目に大きな……そうそう……妙に砂場の表面がきれいになってたからさ」

 用務員の言葉に、財子が体の向きを翻した。

「いつもは、砂場の表面、きれいじゃないんですか?」

「そりゃあそうだよ、お姉さん。砂場だよ。子供たちが遊ぶ。子供たちが一日遊んだ後の砂場なんて、ふつうはデコボコでグチャグチャさ。だから、私が毎朝早く来て、子供たちのために、きれいにならしておくんだもの。でもねえ、今朝は違ってたんだよね。人の頭が出っぱってんのはともかく、砂場、妙にきれいだったんだよね。それも、いつもみたいにトンボ使って、トンボ、わかるよね、あそこにある、ほら、T字型の木の大きな道具、砂場、ならすヤツ。あれ使って整えたような感じじゃなくて、もっと表面がツルツルな、すごくきれいな感じだったんだよね」

 財子は今朝一番に見た、砂場の表面の様子を思い浮かべていた。確かに四角い砂場一面が、

そう、まるで砂浜で波が寄せて返した後のような、ツルリとしたきれいな表面だったことを。

 その時、布袋の携帯電話に、署にいる大黒から検死結果の知らせが入った。

「課長、検死の結果が出たみたいっすよ。それで、死因なんすけど――」

 布袋は明らかに怪訝な表情を浮かべた。

「――死因、窒息死じゃなくて――そのぉ――溺死らしいんすよ」

          7

 一方、老川と蛯沢は死亡した荒木氏の勤務先を訪ねていた。

「初めまして、編集長の山田です。警察の方が、今日は何か?」

 福徳書房は、ビジネス系の雑誌や書籍の発行で知られる出版社。そのロビーの一角、簡単な打合せコーナーで待つ二人の前に、白髪交りの髪を整えたスーツ姿の男が現れ、名刺を差し出した。肩書きには〝ビジネス・トレンド/編集長〟とあり、それは中高年のサラリーマンの多くに愛読される月刊誌だ。二人は改めて身元を明かし、話を切り出した。

「荒木香一さんはお宅の社員ですか?」

 蛯沢がたずねた。いつも蛯沢が話をして、老川が相手の表情をうかがう。

「ええ、そうです。今日はまだ見かけてませんね。何しろ編集者なんて、生活が不規則でして…。午後には来ると思いますけど、荒木、どうかしました?刑事さんがお見えになるなんて、何だか怖いなぁ。まさか逮捕されたなんてことはないでしょうね」

「今朝、ご遺体で発見されました」山田の表情が一瞬で凍りついた。

「――え?荒木、ですか?――まさか、その、うちの荒木、ですか――?」

「――残念ながら――」

 蛯沢は会議室のホワイトボードに張りつけられたものと同じ写真、免許証から拡大した写真を山田に差し示した。山田はそれを両手で受け取り、目を落とした後、確認を促されると、力なく、小さく頷いた。

「こ、これは荒木です。で、でも、何で?」

 死体の発見状況を?い摘んで話した後、蛯沢は質問に転じた。

「荒木さんの人間関係、わかる限り、確認させていただきたいんですけど、誰かに恨みを買ってるようなことはなかったですか?」

「う、恨みって、荒木、殺されたんですか?」

「現在、捜査をしているところです。まだ何も断定できない状況なので、あらゆる可能性を視野に入れています。何か、思いあたる節、ないでしょうか?」

 その後、荒木氏は編集部の主力社員の一人であること、真面目で地味ながら人柄もよく、社の内外を問わず、恨みを持たれるような相手が思い当たらないこと、九州出身であること、この夏、その九州の実家に数日、帰郷していたことなど、概ねの情報収集が行われた。加えて、親しくしているらしい友人の名前や実家の連絡先までも確認できた。

「昨日の夜の荒木さんのご予定、何か聞いてませんでしたか?」

 依然、山田は意気消沈としたまま、質問に答え続けていた。

「私は夜の8時には、社を出てしまったので…。帰る時に声をかけたら、〝今日はこれから飲みに行く〟って、確かそんな風にはいってましたけど――」

          8

「特に変わった様子はなさそうですね」

 小さなキッチンの脇に置かれた、単身者用サイズの冷蔵庫の扉を開けながら、沙門が呟いた。福田はワンルームの間取りの部屋の奥で、コーヒーテーブルの上に積まれた郵便物の束を捌いている。

「そうだねえ、いつもと変わったことがあるとすれば、昨晩、この部屋の主が、この部屋に帰ってこられなかったことぐらいのようだねぇ」

「冷蔵庫の中には、ビールしか入ってないですよ。独身の一人暮らしなら、そんなものですよね。ということは、つまり亡くなった荒木氏には、料理を作りに来てくれる彼女もいなかったってことですかね。台所には鍋一つ、包丁一本もないようですし」

 福田は、沙門の声を聞きながら、今度は郵便物の隣に積んである雑誌の山を捌いていた。

「洗面所には歯ブラシが一本っきり、お風呂場の掃除も行き届いていないようだし、やっぱり、女っ気のない、わかりやすい男の一人暮らしのようですよ」

 部屋の奥に移動してきた沙門が、本棚に並ぶ雑誌や書籍を眺めながら、言葉を続けた。

「テレビだと、こういう二階建てのアパートで、事件の関係者の部屋を訪ねると、すでに何者かに、荒らされていたりするんですよね。何かを探した後のように、散らかってたりするんですよ。でもこの部屋はいたって普通ですよ。事件の匂いが全然感じられませんね」

「沙門君はおもしろいことをいうねぇ。現実はドラマのようにはいきませんよ。それにドラマは、時間内に結末に辿りつかなきゃならないから、そういう派手な場面を入れて、テンポよく進まなきゃなんないんでしょうね。現実のテンポってのは、こうしたもんですよ。さあ、馬鹿いってないで、ホームズ・財子に怒られないように、ワトソン君、部屋の中、見落としなく、しっかりと調べてくださいよ」

「福田さんも、けっこうおもしろいこといってますよぉ」

          9

「――うん、わかったわ。じゃあ二人は、そのまま荒木さんが飲みに行った相手と場所、追ってちょうだい。当りがついたら、署に戻ってね。ええ、そうよ、よろしくね」

 蛯沢からの電話連絡を受け終わった時、幼稚園の建物の中から、布袋が戻ってきた。

「課長、幼稚園の先生方に、教室で待ってもらってますから、話、聞いちゃいましょ」

 布袋の大袈裟な手招きに、財子は、砂場のある広い運動場に面した、幼稚園の教室へと向かった。教室が並ぶ平屋の建物は横長の構造で、どの教室も、広い窓越しに運動場に面している。運動場と教室の間には、大きなスノコが敷かれた幅広のエリアがあり、子供たちはここで外履きの運動靴を脱ぎ、窓の下の壁に設えられた下駄箱に片付ける。また、そのスノコエリアの一部、ちょうど砂場の前辺りには、低い位置に蛇口が五つばかり並んだ水道設備があり、子供たちはそこで手や足を洗うことができるようになっていた。

 財子は子供たちが靴を脱ぐ場所で、同じように靴を脱ぎ、素足でスノコの上を歩き、開けっぱなしになっている入口から教室へ入った。教室の真ん中では、三人の若い女性の先生が、落ち着かない様子で、園児用の小さな椅子にちょこんと座っていた。

「お待たせしてすいません。突然のことで驚かれましたね。少しお話、聞かせてください」

 そういいながら、財子も教室の隅に置いてある小さな椅子を取りに行き、三人に向かい合って、ちょこんと座った。財子の背後に立った布袋は、座っている四人が一際、低い位置で腰かけているものだから、大男ぶりを一層際立たせ、まるで童話の中にでも出てきそうな巨人のように見えた。

「課長、こちらから、たまご組の恵子先生、ひよこ組の陽子先生――」

「――たまごに、ひよこ――?」布袋の説明に、財子が、つい割って入った。

「やっぱり、そこ、食いついちゃいますぅ?そうなんです、課長、こちらの幼稚園では、教室にそういう名前がついてるんです」

「じゃあ、こちらの先生は、にわとり組?」

 まだ紹介されていない先生の方に財子が顔を向けた。財子と目の合った先生――友美先生は、少し怖気づきながら、ポツリと答えた。

「――いえ、私の教室は、きのこ組です」財子の頭の中が、途端にまっ白になった。

          10

 財子と布袋のコンビは、事情聴取の対象によって、聞き役がどちらかを決める。別に事前に取り決めをしているわけでもなく、相手のタイプによって、その場で各々が察知し、各自の役割を自然に受け持つ。基本はこちら側が、対象にとって話しやすい相手であることだ。そういう、阿吽の呼吸で動ける点も、財子が布袋を憎からず思う理由の一つだ。

 脳裏に沸き立つ、教室の名称に関する疑問を、自制心で何とか抑え込み、財子は先生たちへの事情聴取をどうにか進めた。本人にとっては、思いがけず集中力が必要だった。気を抜くと、すぐに〝なぜ、きのこ組?〟――と囁く声が心によぎる。人にはそれぞれ、他人には理解できない、ある種のツボがある。

 幼稚園の先生たちにとっては、今朝、自分たちの勤務する場所で発生した突飛な出来事は、まさに青天の霹靂だろうし、彼女たちから収集できる情報も、予想通り程度のものだった。荒木香一のことは誰も知らないといい、怪しい人物を見かけたわけでもない。聴取の内容には、事件解決に近づくヒントが、あるわけではなさそうに思えた――ある一つの目撃談を聞くまでは――。

「砂場の様子について、何か思い当たること、目にしたことなどはありませんか?」

 集中力を維持しながらたずねる財子に、ひよこ組の陽子先生がゆっくりと口を開いた。

「…そういえば、昨日、砂場の真ん中に、一生懸命、穴を、掘っていたわ…」

「――誰がです?」

 財子にとって、ようやく、自制心がなくとも意識が脇道に逸れずに済む、いわば本来の興味を向けるべき情報が出てきた。

「…うちの組、ひよこ組の…ヒロシ君です」

 そこにいた皆が、一瞬、息を飲んだが、核心に近づく情報に、財子は言葉を絞り出した。

「――ヒロシ君に話を聞くことは、できますか――?」

「課長、ど、どうするつもりなんすか?」布袋が思わず口にした。

「どうするって、ちゃんと事情を聞くのよ。だって、彼は、ヒロシ君は、れっきとした容疑者なんだから」

          11

 住宅街で通る車が少ないうえに、さらに片側に、簡易なりにもガードレールを備えた、子供たちの通園通学には安全そうな道路を、大きな男と小さな女が並んで歩いていた。どうせならガードレールの内側を歩けばいいものを、二人はなぜか道の真ん中を歩く。強い日差しが真上から頭の天辺に刺さり、まもなくお昼ちょうどになることを教えていた。

「ねえ、あんたは知ってんの?」小さい女は、大きい男を、見上げもしないで聞いた。

「何をです?」

 大きい男は素っ気なく答える。二人の視線は、ただ、まっすぐに前に向けられている。

「なぜ、教室の名前が、〝きのこ組〟かってことよ」

「……」男はなぜだか黙って息を飲む。

「ねえ、どうなの?あんた、気にならないの?」

 食い下がる女に、男は仕方なしに答えた。

「それ、やっぱり、問題っすか?たまたまそうなんだと終わらせてちゃだめっすか?」

 男の言葉に、女の心の中のダムが決壊した。

「だめに決まってるじゃないの!いい?たまごが来て、ひよこが来たら、次は何?にわとりでしょうよ。そうね、幼稚園の教室の名前が、よくある、梅組や桃組じゃないことは、いいわ、この際。だってオリジナリティは大切だもの。うん、それにかわいいじゃない、たまごにひよこ。でもね、それで終わりならともかく、もう一つ教室があって、別の名前、次の名前があるんだとしたら、それはどうしても、にわとりじゃなきゃ変じゃないの?せめて〝とり〟とか。ところがどう?よりによって、ねぇ、きのこよ、きのこ。たまご、ひよこ、と育ってきたら、とりにならなくてどうすんの?きのこになってどうすんのよ!」

 女の心の、ダムの洪水は続く。

「なぜ、そうなのか、あんた、理由わかんないの?東大出てんだったら、そのくらい、へっへ―ってなもんで、わかんなきゃ、だめなんじゃないの?」

「――東大を何だと思ってんすか。そんな程度のこと、こだわってたら、東大なんて、入ることも出ることもできませんでしたよ」

「――むぅ……」

「そんなことより、課長、着きましたよ。教えてもらった家、ここでしょ」

 大きな男と小さな女の二人は、住宅街の一角で、ひと際、立派な佇まいを見せる家の前に立っていた。ひよこ組のヒロシ君宅だ。

「それより、大丈夫っすか。何より嫌いで苦手なもの、普段、天敵とまでいっている、相手は――子供なんすよ」

          12

 お昼ともなれば、顔のむくみはすっかり治まり、布袋がいうように、財子は擦れ違う人がつい振り返りたくなりそうな美人顔に回復していた。ただそれも、ヒロシ君に相対するまでの、わずかな間のことだった。なぜなら、5歳の少年と向かい合い、少年が〝おばちゃん、だれ?〟と口にした時、彼女の顔面の右半分は、人が想像できる範囲をはるかに超えて引きつっていたのだから。

「――お、おばちゃん、はね、お、おまわりさん、なの。ヒロシ君、にね、ちょっとお話、聞かせて、ほしいなぁ、と、思ってね――」

 何とか言葉を口にした財子と、その隣で苦笑する布袋の二人は、妙に広々とした大理石敷きの玄関に立っていた。二人を、ぶ厚いペルシャ絨毯の上で出迎えているのは、サッカーのユニフォームを着たヒロシ君と、その肩に手を置いた、髪の長い、若くて綺麗な品のいいお母さんだった。お母さんは、大男と小女の組み合わせが愉快だったのか、顔を何度も上下させ、財子の顔と布袋の顔に、交互に視線を走らせた。その度に、髪が揺れ、ほのかな香りが舞う。その芳しさは、財子と布袋にとって、普段、身の回りでは、そう嗅ぐことは、なさそうなものだった。

「今朝の幼稚園での出来事について、皆さんのお宅を順に回っているんです。子供たちが何か見たり聞いたりしたことが、ないだろうかと思いまして。儀礼的なものですから、ぜひご協力をお願いいたします」

 警戒心を与えないように、布袋が丁寧な言葉遣いで、協力を仰いだ。狙い撃ちで話を聞きに来たなどとは、とてもいえない。刑事は時に、〝嘘も方便〟を繰り出すこともある。

「――ヒロシ君は、昨日、砂場で遊んでいたんだって?何をして、遊んでいたの?」

 苦手を相手に、機能不全に陥った上司に変わって、気が利く部下が、ヒロシ君の相手をした。綺麗なお母さんは、客間に二人を通した後、ほかの家と持て成しを比較されたら困るとでも思ったのか、キッチンに行ってどうやらお茶の準備でもしているようだ。すきまをぬって、聞きたいことは、聞いておきたい。

「あなを、ほってたよ」

 布袋がすぐさま聞き返す。

「何のための穴?誰かを落とそうと思って、落とし穴でも掘っていたの?何をしようと思って、穴、掘ってたんだろう?」

 穴を掘った理由に対しては、ヒロシ君は明らかに、口籠る様子を見せた。

「…うん、と……あな…はね……」

「何にも心配しなくていいんだよ。おじさんとおばさんも、穴、掘るの、大好きなんだよ。毎日、掘ってるくらいなんだよ。だから、ヒロシ君も、穴、掘るの、好きなのかなぁと思ってね。ヒロシ君は、穴、掘るの、どうして好きなのかなぁって思ってさ」

 ソファの隣に腰かけている上司は、部下の子供扱いに感心して、安心していた。うまく何かを聞き出せそうだと――。ただ、そのやり取りが、何だか癪に障ったのも確かだった。

「…べつに、あなをほるの、すきじゃないよ…でも…」

「――でも?どうして?なぜ、好きじゃないのに、昨日は掘ることにしたんだろう?」

 布袋は、ヒロシ君の口元を上手に誘導するように心がけていた。

「……」

「――どうしてかな?うん、じゃあ、こうしよう。そのことは絶対、誰にもいわないから。このおじさんとおばさんと、ヒロシ君だけの内緒のお話にしよう。ね、なら、いいだろう?」

 いいはずもないだろうが、やはり子供はたわいない。彼はまんまと小さな口を動かした。

「…あな…はね…あなを、ほったのは…ね…サヤカちゃんに…いわれたから…なんだ」

          13

 お母さんが銀のトレイに二人分のティーカップを乗せて、客間に戻ってきた。その気配に布袋はすぐさま、乗り出していた身を元に戻し、ソファにゆっくりと座り直した。財子はというと、自分の前と布袋の前に差し出されたティーカップに、その目を釘づけにしていた。そのブランドはもちろん、シリーズの名称までも彼女は知っている。なぜならそれは、以前から喉から手が出るほど欲しくても、刑事の薄給ではそう安々とは買うことができない代物だったのだから。

「よかったら、お紅茶、どうぞ。実はコーヒーをね、淹れかけたんですけれど、途中でふと、刑事さんは、コーヒーばかり飲んでいらっしゃるかな、と思って。いえ、私の勝手なイメージなんですけれどね。紅茶、お気に入りのイングリッシュ・ブレックファーストなんですよ。召し上がって。それともやっぱり、コーヒーの方がよかったかしら?」

「いえいえ、紅茶にしていただいて助かりましたぁ――」

 布袋がすかさずいった。そしてその続きを心の中で呟いた。

〝コーヒーから紅茶に切り替えてくれていたお陰で、その間に聞きたい話を聞くことができたよぉ。お母さん、あなたは綺麗なだけじゃなく、心遣いもタイミングも最高だぁ〟

 心の呟きを終えた途端、布袋はその場を取り繕うように口を開いた。

「――そっか、ヒロシ君、サッカー好きなんだ。おじさんも好きだよ。体、おっきいからね。ゴールキーパー得意なんだ」

〝内緒話〟といった手前、ヒロシ君にそれを立証する意味でも、話題を途端に変えてみたが、5歳の園児には、その作意を、もちろん理解してもらえるわけもなく、布袋の言葉を、言葉通りにそのまま受け取った。

「ほんと?みんな、キーパーやりたがらないんだよ。やってくれる?いつ、やってくれる?」

 子供の〝気分〟を少し計算違いした布袋は、軽く微笑んで、自分の言葉に責任をとった。

「そうだね、今のお仕事が片付いた――終わったら、ね」

 そんな傍らで、財子はといえば、周りのことは何も目に入らないという形相で、両手で持ち上げたティーカップを、穴が開くほど見つめていた。

          14

「あんた、おばさんって、二度いったわ」

 さっき来た道を、そのまま逆に戻りながら、上司は部下に毒づいた。二人は相変わらず、車の通りが少ないのをいいことに、道の真ん中を歩いていた。

「ええ?そうでしたっけ。まあ、俺だって自分のこと、おじさんっていってんすから、課長のこと、おばさんっていうのも、流れで、しょうがないっすよ。相手は子供なんだし」

「あら、悪びれる風でもなく、大したものね。まあ、いいわ、子供の話、うまく聞き出してくれたから。でも惜しいわねェ、〝おばさん〟がなけりゃ、満点だったのに」

「別に、満点なんか、欲しかぁないすよ」

 上司は、かわいげのない部下を、それでもまあ、かわいい奴だと思い、憎まれ口を叩かれても、憎からず思っていた。

「で、ヒロシ君にいってた、あんたや私が毎日掘っている穴っていうのは――」

「課長、だめっすよ。それ、いっちゃ、だめなヤツっすよ」

 部下がにわかに上司の言葉を制した。上司は聞く耳を持たない。

「やっぱり、墓穴ってことなんでしょ。確かにあんた、毎日、墓穴ばかり掘ってるものね」

「あーあ、いっちゃったぁ。課長、それ、いったら、もうホントに親父っすよ。くだらない親父の冗談いうようになったら、もう、課長、女の幸せ、いよいよ諦めるしかないすよ」

「――それにしても――」

 上司は自分の都合に合わないことは聞こえず、話を切り替えた。

「――どうして、出てくる容疑者、みんな、子供ばかりなのよぉ」

「――課長、そりゃあ、しょうがないっすよ。現場、幼稚園なんすから」

          15

「ああ、荒木さんね。うん、昨日も来たよ」

 蛯沢が差し出した写真に、昼食用の準備に追われる居酒屋の主人が、すんなりと答えた。

 荒木氏の昨夜の足取りは、勤務先の出版社からそう遠くない、行きつけの居酒屋ですぐにわかった。老川と蛯沢の二人が、入手したての情報の一番身近な所から当りをつけた途端、荒木氏の行動の第一歩がそこにあった。

 二人の刑事が訪ねた時、居酒屋の若い主人は、お昼のお客を受け入れるために、ちょうど店の軒先に暖簾をかけたところだった。主人の後について店内へ入り、カウンター越しに話を聞くことにする。

「荒木さん、どうかしたの?」

「いや、ちょっとしたトラブルでね」

 あえて詳しい事情は伝えないようにした。蛯沢がカウンターの中の主人の忙しそうな動きを目で追いながら、あれこれと話をしていると、老川がポツリといった。

「――鯖のみそ煮だな……」背後の言葉に、蛯沢が気づいた。

「えっ?何ですか?」

 老川は、十席ほどのカウンター、四人がけのテーブルが五つばかりの店内で、壁に貼りつけられた手書きのメニューを見ていた。短冊状の紙には、鯖のみそ煮定食のほか、豚の生姜焼定食や野菜炒め定食などと書かれている。

「ご老人、何ていいました?」

 老川は蛯沢の方も、カウンターの方も見ずに答えた。

「――だから、鯖のみそ煮だっていうんだよ」

 蛯沢は、老川の視線の先に気づき、手帳にメモを取り続けながら、あきれた風にいった。

「勘弁してくださいよぉ。真面目にやってくれないと、こっちが困るんですよぉ。まもなく定年を迎えられるっていう大先輩に、あんまりなこと、いいたかぁないですけどね。二人でやってる時は、いろいろとフォローしてくれないと――」

 それまで常連客の荒木氏の昨夜の様子を念入りに答えていた居酒屋の主人が、目の前の二人の刑事のやり取りに気がついて、口を挟んだ。

「お昼、食べてったら、いいんじゃないの。二人は今日の最初のお客さんだ。うちの定食、評判いいよ。そう、荒木さんだって、夜だけじゃなく、昼もよぉく、食べに来てるよ」

 主人の言葉に老川が勢いよく振り返り、蛯沢の方を見た。

「うん、そりゃあ、いいや。今日は朝が早かったから、もう腹が減って、腹が減って。どのみち、もう昼の天辺だ。飯ぃ食うのに、三度下がりはよくねぇや。刑事だからってぇいって、きちんと飯、食っちゃあいけねぇなんて法はねぇ。蛯沢、せっかくだから、昼飯、ここで食っちまおうぜ、なあ」

 そういうと老川はとっとと店の奥へ行き、一番端のテーブルの、店内全体を見渡せる席に、どかりと座り、蛯沢に向かって手招きをした。促されて、仕方ないという体で、蛯沢もテーブルへと向かい、老川の前に腰かけた。

「じゃあ、こっちは、生姜焼定食ね」

          16

 福田と沙門の二人は、まだ荒木氏のアパートの部屋を調べていた。

「最近、みんな、そういうの、引っぱって歩いてますよねぇ」

 ワンルームならではのコンパクトな玄関、その傍らでキャリーバッグをいじくっている沙門に、部屋の奥から眺めていた福田が声をかけた。キャリーバッグは、底にキャスターがつき、ハンドルが伸縮する、黒のキャンバス地のコンパクトなものだった。

「便利なんですよね、コレ。転がして引っぱれるから、荷物が重たくなっても楽だし、ちょっとした旅行はもちろん、普段でも、若い女の子なんか、よく持って歩いてますよ。福田さん、コレ、荷物、詰まってるんですけど、行ってきた荷物ですかね、これから行こうとしていた荷物なんですかね」

「あらあら、沙門君も、人が悪いですねぇ――」玄関の方へ向かいながら福田がいった。

「君のように理屈に長けた人が、そんなこと聞いて、年上をからかうもんじゃありませんよ。どれどれ、まんまと君の術中に陥って、私が調べてみるとしますか――ええっと――」

 福田はキャリーバッグをあちこち見回した。

「――キャスターに砂や小さな石屑がまんべんなくついてますねぇ。キャスターの周辺も砂埃で色が変わっています。どう見ても、転がしてきたばかり、行ってきた状態ですね」

 その言葉を合図に、沙門が手を伸ばし、バッグを寝かしてぐるりのチャックを開いた。

「ほとんど衣類ですね。下着や靴下まで入っている。ただし、きちんと折り畳んで――うん、洗濯物はないようですね…荷物の詰まり方からいって、洗濯物だけを先に出したというわけでもなさそうですし…と、いうことは、どこかへ旅行というより、もっと自分にとって身近な所、実家や友人宅といった所へ出かけてきたのかもしれませんね。そこは洗濯ができる場所だったということでしょう。まあ、着がえの量からいって、せいぜい3、4日の日程、その間に出た洗濯物は、帰り間際に洗って、畳んでバッグに詰め直した…そういう始末をしてくれる人がいる所…まあ、男の一人暮らしの荒木さん、実家に帰ってきた時の荷物っていう感じじゃあないでしょうかねぇ」

「そこまで、読みますか」沙門が合の手を入れる。

「――それに、ほら、お饅頭が入ってますよ」

 福田がバッグの中から、いかにもお土産然とした姿の饅頭の箱詰めを引っ張り出した。

「会議室のボードに、荒木さんの本籍地、書かれてましたよね。九州の実家に帰って、こちらへのお土産に、このお饅頭買ってきたんでしょう。勤め先へか、知人へか、賞味期限にはまだ一週間ほどあるようですけど、残念ながら、このお饅頭、どこかに行く術をなくしてしまったようですね。どこかの誰かに、食べてもらえなくなっちゃいましたねぇ」

「買い主がただならぬことになっちゃったんですから、お饅頭もわかってくれますよ」

 饅頭に気を遣った二人の刑事は、広げた荷物を、丁寧にバッグの中に詰め直した。

          17

 昼時で混み合う店内で、客の人相をいちいち確かめながら、刑事二人が食事をしていた。「仏さんの足取り辿って、仏さんと同じモン食って、仏さんの立場に近づきゃ、何かがわかるかも知れないってもんだよ」みそ煮の鯖を箸でほぐしながら、老川がいった。

「何いってんすか。お腹減ってただけなんでしょ。こんなにとっとと、昼飯、食っちゃってて、いいんすかね」白いご飯の上に、生姜焼きの肉を乗せながら蛯沢がいった。

「どう?うちのランチ、美味いっしょ。ボリュームもたっぷりで、近所でも評判なんだよ。数量限定の早い者勝ちだから、刑事さんたち、ラッキーだったね」

 刑事に事情を聞かれる機会に、妙な好奇心を感じた居酒屋の主人が、カウンターの向こうで、何かを刻みながら声をかけた。

「――それにしても、コレ、うめぇなぁ」

「そうですね。コレ、本当に美味いですね」

 二人の意見が合ったコレは、どの定食にもつく、あさりのみそ汁だった。

「あんちゃん、みそ汁、すごく美味いねぇ」老川がカウンターの向こうへ声をあげた。

「そうでしょ。それ、実はうちの一番の自慢。あさり、たっぷり入れるからね。おかわりする人、すごく多いの。荒木さんなんかもそう。必ず、おかわりしてるよ――いらっしゃい」

 居酒屋の主人は相変わらず、せわしなく動きながら、お客たちに愛想を向けている。

「――で、昨日の夜は、どうだったって?」

 評判のみそ汁をすすりながら、それをもう飲めなくなった人物の行動を老川が確かめた。

「晩ご飯食べて、軽く飲んだ後、やはり行きつけのカフェバーで人と会うんだって、彼、9時過ぎには、ここ、出たらしいんですよ」

 口先で、あさりの身を貝から剥がしながら、蛯沢が答えた。

「――そうか、じゃあ、食後のコーヒー、飲みに行かなきゃ、なんねぇようだな」

 老川が、みそ汁を飲み干した。

          18

「さあ、行くわよ」

 財子と布袋は、本日二軒目の邸宅の前に立っていた。ヒロシ君からサヤカちゃんの名前が出た後、一旦、幼稚園に戻り、先生にサヤカちゃんの家の住所を聞き、また歩いて、そこへ辿りついていた。ちなみにサヤカちゃんは、かの、きのこ組の園児だった。

「あえて聞きますけど、どのくらい本気で、子供たちのこと容疑者だと、思ってんすか」

 二階建ての大きな屋敷を見上げながら布袋がたずねた。

「どのくらい本気もないわよ。砂場に埋まった死体が発見された。砂場に穴を掘ったという容疑者が現れた。そしてその穴を掘らせた、さらなる容疑者がいることがわかった。今のところ、それが事実よ」

 二階建ての大きな屋敷を、布袋よりも低い位置から、さらに見上げながら財子が答えた。

「――つまり、ヒロシ君が実行犯で、サヤカちゃんは裏でそれを指示した、黒幕ということになるわねぇ」

「それ、マジでいってんすか?」

「事実は小説より奇なりっていうでしょ」

「……はあ……」

「さあ、あーのこーの、いってないで、早くピンポン押して」

 布袋が力なく、インターホンのボタンを押しながら、呟いた。

「……そんなバカなこと、あるんすかねぇ……」

「世の中ってのは、バカなことだらけなものよ。その合間に、たまにそうでもないことが起こっているだけなのよ」

         19

 ヒロシ君の家でも伝えた、どの家も順に回っている風なことを、ここでもいい、サヤカちゃん本人に会う算段を、そつなく進めた。庭で遊んでいるというので、お母さんに連れられ、家の中には入らず、家の脇の横庭のような通路を通り、裏庭へ回った。サヤカちゃんのお母さんも、やはり、いい匂いがした。

「サヤカ、お兄さんとお姉さんが、ちょっとお話を聞かせてって」

 サヤカちゃんに声をかけたお母さんの背後で、財子と布袋は顔を見合わせて、苦笑した。

「なあに、おかあさん」

 広い庭には、色とりどりの花が咲く花壇がいくつもあって、その一つに、子供用の小さなじょうろで水を撒いていたサヤカちゃんが、お母さんの元へ走ってきた。お母さんは、まるでお人形のようにかわいい愛娘に、〝お兄さんたちを助けてあげて〟といった風の言葉で諭し、驚いたことに〝ごゆっくり〟と言葉を残し、家の中へと戻っていった。突然訪ねてきた見知らぬ刑事を信頼してくれたのか、とも最初は思ったが、むしろ自分の育てた愛娘は、知らない大人にも聡明に振る舞うだろうと自負してのことと、信頼の対象が違っていたことを財子と布袋はすぐに気がついた。

 庭には小さなベンチが置かれていて、サヤカちゃんはそこに腰かけ、二人の大人はその正面に、立て膝をしてしゃがみ込んだ。先に口を出したのは財子の方だった。本能的に〝子供でも、この子なら大丈夫そう〟と思ったのだろうか。

「昨日のことをね、少し思い出して欲しいの」

 財子は子供相手にも単刀直入に話を切り出した。隣で見ていた布袋は、顔の高さを同じにしている目の前の二人が、そう歳が離れてもいない女同士のような、そんな錯覚に一瞬、陥っていた。

「ヒロシ君が砂場に穴を掘っていたのは、サヤカちゃんのためだっていっていたの。サヤカちゃん、ヒロシ君に穴を掘って欲しいわけがあったのかしら。ヒロシ君にどうして穴を掘って欲しいっていったのか、教えてくれる?」

 明らかに、引け目を感じた表情を、サヤカちゃんが浮かべた。その後、美しい少女は、あどけなさを思い出したかのように表情に浮かべ直して、小さく薄い唇を動かし始めた。

「あのね、べつにサヤカ、ヒロシくんに、あなを、ほってほしかったわけじゃないの。ヒロシくん、わたしにばっかり、くっついてきて、わたしとばっかり、いっしょにいたがるから、サヤカ、ヒロシくんに、はなれていてほしかったの。じゃないと、わたし、ほかのおんなのこたちと、あそべないんだもの」

「ヒロシ君は、サヤカちゃんのこと、好きなのね」

 財子が言葉にすると、サヤカちゃんはハッキリと頷いた。

「だからいったの。わたしのことすきなら、あなをほってって。あなをほってくれたら、ヒロシくんがサヤカのこと、すきだってわかるっていったの。あなは、おおきければおおきいほどよくて、それはヒロシくんがサヤカのこと、すきなおおきさだっていったの」

「どうして、穴を?」財子も、あどけない表情を浮かべていた。

「だって、ヒロシくんが、あなをほってるあいだ、サヤカ、ほかのこと、あそべるもの。マリちゃんやユミちゃんと、おんなのこだけで、いられるもの。ヒロシくん、ずっと、あなをほっててくれてたら、いいなって、サヤカ、おもっちゃったの」

 サヤカちゃんが思いついたことは、後の大人の世界では、〝男の純情をもてあそぶ〟というんだよ――などと二人の大人が子供に教えるわけもなく、サヤカちゃんが本能的に感じていそうな、後ろめたささえも、さほど心に留めなくていいんだと、大人たちは四苦八苦しながら少女の心に語りかけた。その時々、幼い子供が持っている自然な想いや感情を、第三者が、ましてや大人が、阻んだり、操作したりしてはいけないと、財子と布袋の二人は考えていた。もしかするとそれは、罪を犯してしまう人間の心理に、常日頃、触れることが多く、それを制すべきこととする刑事という職業ならではの、せめて幼い間はのびのびとしていて欲しいという、ある種独特の思いといえるかもしれない。

 サヤカちゃんにも、ヒロシ君の時にもそうしたように、一応、荒木氏の写真を見せたが、〝このおじさん、だれ?〟の一言で、簡単に片づけられてしまうことは、二人にはもちろん、写真を見せる前からわかっていた。

 話を聞いた後でも、サヤカちゃんの気持ちが落ち着いていることを何気なく確かめてから、財子と布袋は、さっき案内された通路を抜け、家の表へと向かった。途中、キッチンらしき辺りの窓が開き、お母さんが都合よく声をかけてくれたので、その場で挨拶をした。

「サヤカ、お役に立てたかしら?」

 お母さんの問いに二人は奇妙に声が合った。「――ええ、そりゃあ、もう」

          20

 居酒屋の主人に聞いた、荒木氏行きつけのカフェバーはすぐに見つかった。幹線道路の大きな交差点の少し脇、路面店ではないが、ビルの二階に入ったその店は、一階の階段の登り口が目立ち、表通りからすぐに見分けのつく店の有り様だった。

 昼は喫茶、夜は酒を飲ませる風の薄暗がりの店内は、三段ばかりの階段で高さを違えた、二つのフロアを持つほど、それなりの広さで、テーブル席のほとんどはOLやサラリーマン風の客たちで埋まっていた。カウンターの中からマスターらしき男が、老川と蛯沢に〝お好きな席にどうぞ〟と声をかけた。好きな席は、そのマスターがコーヒーを淹れている面前の、カウンター席にほかならなかった。

「俺はぁ、アイスコーヒー。お前、何にする?」

 高いカウンター椅子に、少し苦労して老川が腰かけ、それを見届けて、蛯沢が隣に座った。

「こっちはアイスティー、お願いします」

 なぜ一緒の注文にしないんだ、とでもいいたげに、同調性を強要する気配を漂わす老川を無視して、蛯沢はカウンターの中に向かって自分たちの身元を伝え、胸元のポケットから写真を取り出した。

「こちらは荒木香一さんなんですけど――」今度は先に名前を出した。

「はいはい、荒木さん。いらっしゃってますよ。うちの昔からの常連さん。どちらかというと、夜の常連さん。確か昨夜も――」

「――来てましたよね。一人でした?誰かと一緒でした?」蛯沢が言葉を重ねた。

「昨夜は、確か、お見えになった時は一人で、後から、あ、そうそう、青木さんがいらっしゃって、一緒に飲んでおられましたよ」

 そういうとマスターは、アイスコーヒーとアイスティーの入った大ぶりなグラスを、それぞれの前に、紙のコースターつきで置いた。老川がミルクだの、シロップだのを、グラスの中にじゃぼじゃぼ入れるのを横目に、蛯沢は聞き取りを続ける。

「青木さんというのは?」

「青木さんもうちの常連。夜のね。荒木さんとは友達なのか、仕事上の知り合いなのか、親しそうですよ、以前から。仕事?青木さんは旅行代理店。僕も、飛行機のチケット、取ってもらったことあるけど、JTSの人」

 JTSは大手旅行代理店で、あちこちに営業所がある。荒木氏の会社、福徳書房のそばにも、店舗が確かあったはずだ。

「昨夜の様子?いつもと同じようでしたよ。二人とも、お酒強くて、よく飲むんですよ。それも早いペースでガンガン。昨夜も後半はテキーラ、ショットグラスでガンガンいってましたから。もちろんボトル一本じゃ足りなくて、多分、二本、いや三本、空けたかな」

「昨夜だけ、特別そうだったわけじゃなくて、いつも、そういう感じですか?」

 蛯沢は、レモンだけを搾ったアイスティーをストローで口に含んだ。

「いつも、そういう感じ。昨夜も、二人とも、最後はずいぶん、でき上がってましたよ。終電がどうのって、12時過ぎた頃、一緒にお帰りになったけど、いつもそんな感じなんで、こちらも特に気に留めませんでしたけどね」

 老川は、ストローでグラスの底を、ズゥズゥ音を立てて、啜り上げていた。蛯沢もグラスを空にし、二人は勘定を済ませて、店の外に出た。歩き始めて、老川がポツリといった。

「その青木とやらが、今日、仕事に出ているかどうかが、興味のあるところだな」

          21

 署に残り、〝鑑識〟や〝検死〟から挙がってくる情報の取りまとめ役になった大黒は、別の会議室から、もう一台ホワイトボードを調達し、せっせと自分の職務を遂行していた。

 二台のボードのうち、片方には荒木氏の個人的な情報に加え、遺体の検死結果等、主に故人の身の回りのことを中心に書き込み、もう一方には、現場の写真を、説明を添えながら多数張りつけ、遺体の発見状況や周辺環境が詳しくわかるようにした。あとは外回りの連中が持ち帰ってくる情報を、適材適所に念入りに書き加えれば、この二台のボードで、今回の事件の全容を詳細まで網羅できることになる。ちなみに、朝の時点でボードの冒頭に書かれていた事件の名称は、窒息死事件から溺死事件へと書き直された。

 こうして揃えた全ての情報を吟味、分析し、事件の解決のため、しかるべき結論を導き出すことになるが、その下準備となる現作業に大黒は余念がなかった。自分の情報の整理術を、以前から財子が評価してくれているので、今回も期待に応えたい。実は彼には、上司の財子に対するほのかな憧れがありもした。それに現場経験のまだ少ない、若手の身の上としては、署内での作業もいい準備運動だとも自覚していた。

 情報の整理に目途がつくと、大黒は三歩下がって二台のボードを改めて見直した。全員揃った会議で、何か質問が出た時にも、テキパキと答えられるように内容を把握しておきたい。さらに自分自身でも、今回の事件についての考察を試みたい。

 荒木氏の死因は不可解にも溺死と判明。死亡推定時刻は午前2時。大量のアルコールが検出されたほか、体内には死因にそぐうほどの水が。傷や血痕はなく、着衣にも乱れはないがズブ濡れの状態。ポケットの携帯電話も濡れてはいたが、履歴データは確保できた。

「いくら夏だからって、なんで幼稚園で、海水浴場みたいなことになってんだ――?」

 思わず独り言が大黒の口からこぼれた。刑事になってまだ数カ月、こんな事件に出くわすなんて、運がいいやら悪いやら、複雑な思いだった。そんな気分のまま、ボードに張りつけた鑑識係が撮影した多数の現場写真に目を向ける。遺体が発見された〝砂場〟を中央に、それを囲むように実際の立地に合わせて周辺の写真を並べ、ボード上でさながら現場が再現してある。実は今回の幼稚園があるのは高級住宅街と認知されている地域で、治安のよさが仇となり、皮肉なことに防犯カメラの設置台数が他に比べ少なかった。園内をカバーするカメラも無く、もしそれがあれば、この妙な事情を解き明かす有力な鍵となっただろうが、残念ながら今回は、事後の現場写真で、当時の情景を思い描くしか術がない。

 幼稚園の入口、運動場の全景、それぞれの遊具、教室がある平屋の建物、教室前の廊下や靴箱……大黒は順に写真を眺め、幼稚園の風景を頭の中に浮かべた。すると一枚の写真が目に留まる。子供たちが使いやすい、背の低い水道の蛇口が並ぶ手洗い場。よく見るとそこにバケツが三個ばかり、転がり散らかっている。人が手を触れる前に写真は撮られたので、昨夜からその状態だったのだろう。鑑識の情報によれば、蛇口からは荒木氏の指紋が検出されている。ならば荒木氏は、死亡する前に自ら蛇口をひねったということだろうか…。

 視線をボードの中心に移し、砂場から荒木氏の頭だけが出た写真を改めて見ると、やはり砂の表面の状態が気にかかる。まるで海の浜辺のごとく、水が流れた後のような独特のツルリとした平らな砂の表情…。こんな事態を引き起こした犯人は一体、何ものなのか。溺死、水道の蛇口、濡れた着衣、砂場の状態…どれもが水との関わりを示しているが…。

 ふと大黒の脳裏に、水から発想が及んだ雨の一文字が浮かんだ。思うが早いか体が反応し、大黒は電話機に手を伸ばした。事の確認をすべき相手は、もちろん気象庁だ。するとほどなく、しかるべき担当者がしかるべき確認をしてくれ、有用な情報を伝えてくれた。

「――そうですか、昨夜、そんなことが――。午前1時半頃に約30分間、二丁目の辺りだけに集中豪雨があったんですね――」

 大黒は手応えのある情報の獲得に、自分の手柄を確かめるような口ぶりで念を押した。犯人である何ものかの一つは、夏の夜の異常気象――突発的な土砂降りだと大黒は確信した。深夜から早朝の短時間にも、真夏ならではの陽気が、そんな状況があった気配を薄めてしまっていたのだろう。それを嗅ぎつけたことで、大黒はもう一つの確信を持っていた。

 〝これでまた課長に誉めてもらえそうだ〟――まるで事件を解決したかのような満足感が、彼の胸に込み上げていた。

          22

「青木は私ですが、旅行のご予定ですか?」

 目当ての相手は二日酔いの様子もなく、客と対面するカウンターに姿を現した。

 青木氏の勤務先は、荒木氏の会社からも最寄りの、旅行代理店の営業所だった。今回の事件は関係先の追跡調査が妙に手短かに運ぶ。こんな時は事件の解決も案外簡単なものだと、ベテランの老川は感じていた。

「実は我々の予定ではなく、青木さんの昨夜のご予定をおうかがいしたいのですが――」

 刑事二人の突然の訪問に、意を得ていなかった青木氏に、手順通りに事の次第を説明すると、彼はまさに言葉通りに腰を抜かした。

「――あ、あ、荒木が、ですか?」

 その驚愕の表情に嘘はなさそうだが、生きていた荒木氏と最後に言葉を交わした可能性が高い相手からは、念入りに昨夜の行動と二人の関係についてを聞き出さねばならない。

「…荒木とは高校の同級で、鹿児島から一緒に上京した仲で…大学は別でも、勤め先は近くで…よく二人で会う、一番の親友です…」

 話を聞く場所は、衝立で仕切られた店頭の小さな接客スペースへと移っていた。聞き役はここでも、もっぱら蛯沢が担当し、老川は傍らで、いつの間にか店先から持ってきた〝九州温泉巡り〟のパンフレットを捲っていた。

「昨夜も二人で飲みに行かれたんですね。その時の様子を聞かせていただけますか?」

 未だ事情を飲み込めず、半信半疑といった様子の青木氏は、まるでそうすると事実を変えられるかのように、言葉をハッキリ口にした。

「いつもの店で会って、いつものように飲んで。二人とも強いんで、たくさん飲むんです。12時過ぎた頃、終電はまだあったんですが、けっこう酔いが回ったんでタクシーを拾いました。住んでいる所も隣町同士なので、タクシーで一緒に帰るのも都合がいいんです。二丁目の荒木をアパートの前で先に降ろしてから、一丁目の私の家へ回るという具合で――」

「昨夜もそういう具合だったんですか?」

「ええ、そう、あっいや、そういえば、昨夜は違いましたね。酔って、気にも留めなかったけど、昨夜は荒木、途中で車、降りたんだった。ここでいいって、幼稚園の前で――」

「――幼稚園?」鍵となる言葉が飛び出した。

「そう、幼稚園の前で。荒木のアパートはすぐ近く、あとワンメーターほどの所なんですけど、昨夜はそこで降りるといって。最近、たまに、そういうことがあって…」

「何か、変わった様子、ありました?気分が悪くなったとか、そこで降りる理由が何か?」

「二人ともずいぶん酔ってましたけどね。ただ、気持ちが悪くなったわけではなく…まあ、少し歩いて、酔いでも醒ますのかと思ってたくらいで――」

「――で、荒木さんを降ろした後、青木さんはそのまま、車に乗っていかれた?」

「ええ、そのまま、家まで車に乗って帰りました」

「荒木さんと別れた後のことを証言してくれる人は誰かいますか?」

「ア、 アリバイというヤツですか?」

「まあ、念のために、どなたにも聞くことですから、お気になさらず――」

「そ、そうですね、大丈夫です、えっと、ああ、タクシーの領収書を貰っているので、それを調べてもらえれば、タクシー会社と運転手、一人を先に降ろしたこと、その後、家まで行き、私を降ろしたこと、わかると思います」

「タクシーを降りた後は?」

「え、ええ、それも大丈夫です。私、こう見えて、荒木と違って妻子がいますので、家に帰ってからは女房と一緒でした。子供はとっくに寝てましたが、女房にはまた飲んで遅く帰ったこと、こっぴどく叱られてまして。ああ、それに、家、管理人常駐のオートロックのマンションなので、私が帰った記録、監視カメラに残っているかもしれない」

「なるほど。その後は荒木さんと連絡をとってはいないんですね?ところで、こういっては何ですが、荒木さんと青木さんでは、私生活や暮らしぶりにやや違いがあるようですね」

「まあ、そうかもしれませんね。荒木は仕事はできるんですけどプライベートはてんで不器用で、人付合いも苦手だし、特に女性に対してはやたらと奥手でしてね。私は適当に結婚もしましたが、彼は一切、女っ気もない。友達も少ないし、私が唯一、何でも話せる相手だと思います。私にいわせると、彼は人から恨みを買うようなこと、絶対ありませんよ」

 青木氏は終始、未だ荒木氏が生きていることを前提としたような口ぶりで話をしていた。

「荒木、本当に死んだんですか?誰かに殺されたんですか?」

「真相はまだ不明ですが、残念ながら亡くなったことは事実です。青木さん、あなたが夜遅くに飲んで帰って、奥さんに叱られることが、どうやら減ることに違いはなさそうです」

          23

 その日の夕方、宝船署の会議室には、各々のやるべきことを果たした捜査一課寿班七名の刑事が揃っていた。今や大黒が用意した二台のボードには、外回りで集めてきた情報が網羅され、それだけで荒木氏の人物像がほぼわかるといっても過言ではない。加えて大黒の説明によって、そこにいる全員、しっかりと情報の共有ができていた。

「こりゃあやっぱり、怨恨の線が濃厚だなぁ。40年以上の刑事の勘が、そういってらぁ」

 コの字型に並べた長テーブル越しに、皆が正面のボードに見入る中、老川が口火を切る。

「そう決めつけるのは早計ですよ。恨みを買うような人じゃなかったんでしょ、荒木さん」

 理論派の沙門が、沙門らしく口を挟んだ。

「そうなんです。勤務先の上司や同僚、取引先、仕事関係では誰からも好印象。私生活では控え目で、友人も少なく、女性関係も見当たらない。もとより恨みを買ったり、もつれたり、そういう対象が存在しないんですよ」蛯沢が今日一日の聞き込みの成果を披露した。

「疑わしき人物がいないからといって、この現場の状況からは、通り魔の仕業とは考えにくい。子供が掘った穴をたまたま利用したとすれば、それは偶然のことで、何かに固執した猟奇的殺人とも思えない。そもそも殺しだったとして、溺死させてから埋めるなら、あんな目立つ場所である必要はないでしょう。人里離れた山の奥だとか、他にやり方あるでしょう」

 沙門がもっともな意見を並べたてた。

「そりゃあお前、あそこである必要があったんだよ。つまり何だな、見せしめってやつだよ。ああすることで何かをアピールしてんだよ。こりゃあマフィアの仕業だな」

 老川は、自分でも半ば奇抜と思いつつ、持論をわざと盛んにいい立てる。

「またそういう突飛なことをいう。いくら何でもマフィアだなんて」布袋が突っ込む。

「突飛なもんかい。組織絡みに違えねぇ。連中が埋めようとした時に、ちょうど都合のいい、子供の掘った穴を見つけたってわけさ」

 そんなやりとりを尻目に、財子は、ボードの前に立ち、問われることに答えようと待ち構える大黒にたずねた。

「荒木さんの携帯電話の通話記録はどう?何か気になる相手との履歴は残っていないの?」

「会社、取引先、九州の実家、友人の青木氏…しかるべき相手ばかりで、これといって――」

「そうでしょ。荒木さん、人間関係が極端に淡白で、殺されるような理由、ないんですよ」

 大黒が答える暇もなく、蛯沢が言葉を重ねた。するとそれまで沈黙の福田が口を開いた。

「でもね、時に〝動機なき殺人〟というのもあるんですよ、犯罪には。ややこしいことに」

「動機なき殺しはあるかもしれないけど、加害者なき被害者は存在しないでしょう。今回の件は、被害者とおぼしき存在はあるけど、加害者の気配が見当たらない。容疑者すら浮かんでこない。するとコレ、事件というより――」沙門が話すと今度は財子が言葉を重ねた。

「容疑者はいるわよ!砂場の穴掘りを実行した人物と、それを指示した人物が」

「またそういう突飛なことをいう。いくら何でも5歳児が犯人だなんて」布袋が突っ込む。

「突飛なもんですか。ヒロシ君とサヤカちゃんは、現場に関わりのあることをちゃんと自供したわ。有力な容疑者はこの二人だけよ」

 刑事たちは、各々の意見を思い思いにのびのびと主張し、会議を躍らせた。

「確かに人付合いは僅かなようですが、少なくともお土産でお饅頭を渡す相手はいたんでしょうね。彼の部屋の遺留品で、気になった物はそれと、その賞味期限くらいでしたから」

 福田がそういうと同行した沙門も頷いた。

「会社にでも持って行こうと思ったんでしょ」

 布袋がそういうと蛯沢がそれに反応した。

「そうでもないでしょ。彼、実家から戻った後、もう何日も出社してますよ。その気なら、とっくにそうしてるはず。他の誰かのためか、自分で食べようとでも思ったのか――」

 会議室に充分な時が流れ、皆がいいたいことをいい尽くした頃、福田が財子に向き直った。

「さて財子さん、私たちはまもなく、この状況を踏まえて何がしかの答えを導き出すことになりますよ。さあ、あなたの鮮やかな推理を、そろそろ聞かせてくださいな」

 それは財子の銃に弾丸を装填する台詞だった。時機を得て彼女はやおら引き金に指をかけた。

          24

「いいわ、私の出した答えを話しましょう。まずは昨日の深夜、お酒を相当飲んだ荒木氏は、自宅の近く、幼稚園の前で、先にタクシーを降りた。これにはきっと簡単に説明がつくわね。酔い醒ましに、少し歩いて夜風にでもあたりたかったのかもしれないわ。その後はどうやら、幼稚園の中に入って水道を使ったようね。蛇口には彼の指紋があったんでしょ」

 視線を向けられ、大黒は大きく頷いた。

「多分、喉が渇いたのね、そりゃあそうよ、夏の夜、飲んで帰れば喉も乾くわよ。水道があれば蛇口をひねるわよ。きっと口を直につけて水をガブガブ飲んだりしたのよ。酔い醒めの水は甘露の味ってね。周辺でバケツが散らかっていたのは、酔った荒木氏がひっくり返しでもしたんでしょ。何なら水の入ったバケツに、足元を滑らせて、頭くらい突っ込んだのかも。何にせよ、この時点で相当な量の水が彼の体内に入ったと思うわ。さて問題はここからよ」

 財子はやおら立ち上がり、大黒が用意した彼自慢のホワイトボードの一点を指差した。

「――荒木氏の実家の住所をご覧なさいよ。改めて説明する必要もないんじゃない?」

「今日の旅行会社にもパンフレットあったぜぃ」

 老川は自分の目の前に、青木氏の所から持ち帰っていたパンフレットを放り出した。

「部屋に残されていたお饅頭は、もちろん温泉饅頭ですからねぇ」福田も呟いた。

「荒木氏の出身地、鹿児島県指宿市といえば?」

 財子はその場で立ったまま、両手を腰に当てて皆の顔を眺めた。皆はそうするのが当り前のように、まるで練習したかのように声を揃えた。

「――温泉!!」 「温泉の中でも指宿といえば?」 「――天然砂むし温泉!!」

 財子の班は時に署内から、奇異の感を抱かれることもあった。

「つまり、そういうことよ。酩酊した荒木氏は、しばらく洗い場で水まみれになった後、ふと砂場の方に目を向けた。すると頃合いのいい穴がポッカリ開いている。暑い夏の夜、昔から砂風呂に親しみ、砂に体を埋める習慣のある人が、酔った体の火照りをヒンヤリと包んでくれる砂場に身を寄せるのは自然の道理。ためらいなく砂場の穴に身を落とせば冷やかで何と心地のよいことか。そのままウトウトしてしまうのも無理のないこと。ただしここまでなら、一人の酔っぱらいの笑える〝真夏の夜の夢〟で済んだことだった――ところが――」

 財子は再び大黒に視線を向けた。

「――ところが、その後まもなく、限られた場所だけの限られた時間だけの集中豪雨があったんです」大黒は財子が求める台詞で答えた。

「そうね、確認を取ってくれた大黒のお手柄ね――不運にも幼稚園界隈だけの、いわゆるゲリラ豪雨が荒木氏を襲ってしまった。すっかり眠り込んでいた彼は、迂闊にも大量の雨水と流された砂で埋没してしまったということになるわね。目覚める暇もなくね――これで現場の状況の全てに理由がつくわ。つまり、私たちは今回のこの容疑者なき事件を、荒木氏にとっては〝真夏の夜の悪夢〟、不幸な事故として結論づけることにしましょう――」

 持論を高らかに謳い上げた財子は、立ち姿のまま大きく頷き、ご満悦な表情を浮かべていたし、彼女の持論はこの捜査班の結論であることに違いなかった。財子以外の刑事たちも特に異論を唱えるつもりはなさそうだった。

「まあ、そんなところだろうなぁ」

 何やかんやいっていた一番年長の老川がいともたやすく、そう同調した。あれやこれやいっていた他の面々も妙に納得した表情を浮かべている。その流れのまま、財子がいった。

「大黒、報道関係への発表を頼むわ。今回は泥酔した当事者が意識を失い、豪雨に打たれて亡くなった不幸な事故よ。砂場に埋まっていたことはオフレコでね。偶然とはいえ、子供の掘った穴が事件に関わったという痕跡を残したくないの。ヒロシ君の無垢な恋心が仇になったということにはしたくないの。サヤカちゃんの幼い女心にあやをつけたくないの。まあ、二人の恋の行方には、興味ないけど――」

 とぼけたことをよく口にする財子は、時にはとぼけていないこともいう。もとより柔軟で融通がきく質だ。それに倣ったわけではないが、他の面々もどこか似た所があり、いわゆる頭の柔らかい、楽観的な連中だった。署内では寿財子班の刑事たちを、親しみを持ちつつ、〝食えない奴ら〟と思う向きもあった。

 そんなどこか憎めない彼らの采配で、今回の事件も、かくして幕を降ろすことになる――

           24

 ――わけではなかった。

 翌日の午前中、休園が続く幼稚園のブランコ乗場に、並んで腰かける二人の先生の姿があった。一人は今朝出た新聞を広げ、もう一人は俯き加減でいる。

「……やっぱり、話すべきじゃないかしら……このまま、黙っているなんて……」

 顔を上げ、思いつめたように、そう呟いたのは、きのこ組の友美先生だった。

「――そうは思わないわ。私たちが直接、彼を危めたわけじゃないんだから。ここに書いてある通り、あれは事故だったのよ。酔って眠り込んで、雨で溺れた、事故だったのよ――」

 答えたのは、たまご組の恵子先生だった。

「…でも、私たち、穴の中で座り込んでいる彼に砂をかけたわ。埋めたのは私たちよ」

「だって、ああしなきゃ、彼、また夜中に来ちゃうじゃない。あの時、少し安心できたわ」

 実は荒木香一には、人には知られていない側面があった。私的な人付合いが苦手で不器用だった彼は、もちろん女性に対しても奥手で免疫がなく、交際経験はゼロ。異性への作法など、全く以て無知の極みだった。そんな彼がある時、偶然見かけた、近所の幼稚園に勤める友美先生を見初めてしまったのだ。

 恋心を募らせた彼が、女性との付合い方も恋愛のマナーも知らず、ついしでかしてしまっていた行為が、時間も気にせず、友美先生の部屋を訪ねて思いを伝えること。幼稚園の向かい側、少し高台の場所に建つアパートが先生たちの寮として利用され、意中の相手もそこに住むことはいとも簡単に探り出せたし、純愛に熱を上げた男にとって、思いのままにその部屋を訪ね、ある意味で真正直に求愛する行為は、自分を正当化して余りあるものだった。

 する方はよくても、される方はたまったものじゃない。アパートでは、友美先生と恵子先生は相部屋だったので、ある日突然、見知らぬ男が訪ねてきて、一方的に好意を主張し、以来、頻繁に、編集者特有の夜中の帰り道に玄関の呼び鈴を鳴らすという顛末に、否応無しに二人は遭遇させられていた。恋心を楯にしたその迷惑行為は、子供好きの優しい女性たちにとっては恐怖以外の何ものでもなく、逆恨みを懸念しながらも今にも警察に相談しようと思い巡らせているところだった。だから一昨日の深夜、部屋の窓から幼稚園の方を偶然眺めて、荒木香一の姿を見かけた時にも、訪ねて来られる前にこちらから出向いて〝もう来ないで欲しい〟と嘆願しようとしたのだ。

 友美先生と恵子先生が深夜の幼稚園に出向くと、二人の厄介の種は泥酔して砂場の大きな穴に入り込み眠りこけていた。そこで彼女たちは、自分の感情ばかりをごり押ししてくる相手を、少しだけ懲らしめてやろうと、掘られた穴の分、周辺にあった砂で、彼の体を埋めることにしたのだ。そうすれば身動きがとれなくなり、少なくともその夜は、訪ねて来られずに済み、安心して眠ることができる。朝になって人に発見されて、本人はばつの悪い思いをするだろうが、それは彼の自業自得だ――思いつきの策に転じた彼女たちは、そのくらいのつもりだった。その後、深夜未明に激しい集中豪雨があるなど、知る由もなかったのだから――。

「きっと、私たちがそうしなくても、彼は亡くなったわ。自然の猛威に人は無力なのよ。それに、私たちが話せば、彼をあなたのストーカーとして告発することになる。そんなことをしても彼は生き返らないし、むしろ亡くなった人の面目を失わせることになってしまうわ」

 恵子先生はもっともな説で友美先生を諭した。ただ二人の心の中では、話しながら腰かけているブランコのように、罪の意識が小さく軋みながら揺れていた。

 一方、不幸な死を遂げた荒木氏には、罪の意識はなかった。ただ愛情の表現の仕方を間違っただけだ。彼の純愛と、砂場で穴を掘ったヒロシ君の純愛に、波長の重なりを感じるのはただの偶然だ。無作法な歪んだ求愛で、友美先生が抱えた憂鬱と、サヤカちゃんの感じた幼い憂鬱に、波長の重なりを感じるのもただの偶然だ。

 いずれにせよ、今回の事態は、男たちの純情が空回りした末の出来事ではあったのかもしれない。

          25

 同じ日の午後、財子の部署には、案件が一段落した後の穏やかな空気が流れていた。

 そんな中、財子が課長の責務として苦手な書類作業に没頭していると、朝から姿が見えなかった布袋が外から帰って来て、いかにも上等そうな紙袋を一つ、彼女に手渡した。

「――なぁに、コレ?」紙袋の中には、これまた上等そうな箱が入っていた。布袋に促されて箱の中身を見た途端、財子が固まった。その表情までが布袋にとって予定通りだった。

「ど、ど、どうしたのコレ?」財子がわなわなと手にしているのは、彼女がかねてから欲しくてしょうがなかったあのティーカップだ。

「課長、ソレ欲しかったんでしょ。ヒロシ君の家にもあったヤツ。よかったら、どうぞ」

「で、でも、こんな高い物、貰う謂れがないわ」

「誕生日のプレゼントっすよ。普段、お世話にもなってますしね。遠慮はなしっすよ」

「そ、そ、そう?だったら――って、私の誕生日、12月よ。まだ半年も先じゃない。それに世話をしてくれてんのは、そっちの方でしょ」

「まあ、いいじゃないすか。気にしないでくださいよ」

「――お前、いい奴だねぇ」

「あ、それから、〝きのこ組〟の件、幼稚園の園長に電話して解決しておきましたよ」

 手にしたカップを大切に包み込むように持ちながら、財子の表情がまた固まった。

「アレ、特別な意味はないらしいんすよ。好きな言葉を自由に選んだらしくて。あえていえば三文字のこだわり。たまご、ひよこ、きのこ…何か語呂がいいでしょ?あと、きのこは絵にも描きやすいからって。園長、そんなふうに説明してましたよ」

「……」黙り込んだ財子の納得が、それで得られたかどうかは、布袋にもわからなかった。

「じゃあ、俺、これから出かけますんで、あと、よろしくお願いします」

「ど、どこへ行くの?」財子が我に返った。

「サッカーっすよ。ヒロシ君と。仕事終わったらゴールキーパーするって約束なんで――」

「お前、律儀だねぇ…」財子のそんな呟きとともに、彼女の部署には、また穏やかな空気の流れがそこはかとなく戻ってきた――

           26

 ――わけではなかった。

 財子が視線で布袋を見送ろうと、部屋の出口に目を向けると、そこには布袋を出かけられなくする理由が二人、立っていた。無論、その二人は、友美先生と恵子先生だった。

 取調室に二人を通して、財子と布袋、先生たちが向かい合って座った。責任者と話をしたいと訪ねてきた二人が口にするのは、罪の意識のブランコの揺れ幅が大きくなり、隠しておくには耐えきれなくなったくだんの告白だ。最初の事情聴取の時に話してくれなかったことには、正直いって大いに不満があったが、思い直して告白しに来た勇気を認めようとする寛容さも、二人の刑事は持ち合わせていた。ただし話の途中から、財子の挙動がおかしくなっていた。

「――わ、わ、わ、わ、わ、わ、わ――」そういいながら両方の耳を、両方の手の平でパタパタと押しあてながら塞いでいる。それは明らかに、人の話を聞きたくない時にする仕草だ。

「課長!バカなんすかぁ!?」布袋が思わずいう。

「だって、報告書、もう、書いちゃったんだもの。それに事情を聞けば、この人たちの罪を問う気には、私、ならないもの。いいわ、こうしましょ。布袋、お前と私、この話、お墓の下まで持っていくわよ。そして先生方は、こうして話したことで、けじめをつけたと思ってちょうだい。よく、話してくれたわ。あとは元の日常生活に戻って、前に進んでほしい。たまご組と、その、えっと、きのこ組の先生として。あれは真夏の夜の夢、夢は皆、やがて覚めるものなのよ」

 財子に背中を押されて、気分を幾らか楽にした幼稚園の先生二人は、署を後にして自分たちの日常へと帰っていった。その姿を見送りながら、布袋が財子に話しかけた。

「荒木さんの温泉饅頭の行き先、あそこだったんでしょうかねぇ…」

「そうかもね。お饅頭も自分の気持ちも、上手に渡せなかった彼の冥福を祈りましょう」

「先生たち、過失致死って感じっすけど、よかったんすかあ、これで――」

「正義は一つではないものよ。いろいろな形があっていいものよ。さあ、私たちも前に進むわよ。布袋はサッカーに行きなさい。私は飲んだくれるために、わが家へ帰るとするわ」

 事程左様に、財子は柔軟かつ融通がきく質だった。かくして寿財子班は、署内でいわれる通り、〝食えない奴ら〟に違いなかった。

 宝船署の寿班には、次の事件の発生までの、ほんの少しの穏やかなひと時が、今度こそ本当に訪れていた。                               了





 








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