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値段のわからない世界

名前のない朝

作者: 春凪とおる
掲載日:2026/03/29

静かな変化をテーマにした短編です。

シリーズとしてゆるくつながっています。

目が覚めたとき、どこにいるのか分からなかった。


天井が違う。

白くもなく、見慣れた模様もない。


音が少ない。

外の気配も、知らないものだった。


体を起こす。

少しだけ軽い。


手を見る。指が細い。

少しだけ、しっくりこない。


(……違うな)


言葉にするほどでもないが、そう思う。




部屋は狭かった。

必要なものだけがある。


知らないはずなのに、使い方は分かる。

扉の位置も、水の場所も。


それが一番、変だった。


(夢か)


そう考える。

だが、目は覚めている。




外に出る。


朝の空気は少し冷たかった。

息を吸うと、胸の奥がすっとする。


通りはまだ静かで、人は少ない。

見たことのない服、見たことのない建物。


それでも、怖くはなかった。


知らないのに、困らない。

それが妙に落ち着かない。


人とすれ違う。

少しだけ、距離を測るのに時間がかかる。

近すぎる気もするし、遠すぎる気もする。


どこが正しいのか、よく分からない。




しばらく歩く。


市場のような場所に出る。

野菜や布が並んでいる。


値札を見る。

数字は読める。


(読めるのか)


少しだけ安心する。




腹が減っていることに気づく。

だが、どうすればいいのか分からない。


金はある。

ポケットに入っている。


だが、それがどれくらいの価値なのかは分からない。

しばらく立ち止まる。


(どうする)


考える。


どこから決めればいいのか、分からない。

途中で、止まる。


それ以上、進まない。




店の前に立つ。


パンのようなものが並んでいる。

匂いは悪くない。


店主がこちらを見る。

何かを言う。


意味は分かる。

返し方が分からない。


少しだけ間が空く。

それでも、指をさす。


ひとつ。


店主が金額を言う。

分からない。

だが、紙幣を出す。


適当に。


店主はそれを見る。少しだけ眉を動かす。

何か言われる。


分からない。

だが、もう一枚出す。


今度は、受け取られる。

パンを渡される。




通りの端に座る。


パンを食べる。

味は普通だった。


(高いのか、安いのか)


分からない。

それでも、食べられた。


それでいい気もする。




しばらくして、同じ店の前を通る。

別の客が買っている。

やり取りを見る。


金額を聞く。

紙幣を出す。

釣りを受け取る。


簡単な流れだった。


(ああ)


少しだけ、分かる。


さっきは、多く払ったのかもしれない。




足が止まる。


(どうする)


戻って、言うか。

多く払った、と。


考える。


どこまで言えばいいのか分からない。

どう言えばいいのかも分からない。


途中で、また止まる。


言えない理由がある。

うまく説明できないが、そう感じる。




店の前を見る。


店主は、何も言わない。

気づいていないのか、気づいていても言わないのか。


分からない。




そのまま、通り過ぎる。


(まあ、いいか)


小さく思う。


完全に納得したわけではない。

だが、それ以上考えない。




少し歩いて、また止まる。


通りの端に、野菜が置いてある。

小さな紙が添えられている。


――ご自由にどうぞ


文字は読める。

意味も分かる。


(タダか)


手を伸ばす。


少しだけ、迷う。理由は分からない。

それでも、触れる。


重さを確かめる。


(これでいいのか)


誰も見ていない。

何も言われない。




少しだけ、考える。


さっきのパンのことを思い出す。


多く払ったかもしれない。

今は、払っていない。


同じではない。

でも、違いもはっきりしない。


野菜を持ったまま、しばらく立つ。

そのまま、置き直す。


手を離す。

少しだけ、指先に感触が残る。


紙を見る。

もう一度読む。


――ご自由にどうぞ


意味は変わらない。

それでも、さっきよりも少しだけ重く感じる。


腹は減っている。

それでも、取らない。

理由ははっきりしない。


ただ、その方がいい気がする。




しばらくして、また歩き出す。


朝の光が少し強くなる。

通りに人が増えてくる。


声が混ざる。

世界が動き始める。


名前を思い出そうとする。

少しだけ時間がかかる。


(レイ)


それだけ、浮かぶ。


それでいいと思う。



ここがどこかは分からない。

前がどうだったかも、はっきりしない。


それでも。


(ここでいいか)


小さく思う。


完全に決めたわけではない。

それでも、今はそうする。




風が吹く。

朝の匂いが流れる。


レイはゆっくり歩き出す。






※この物語は「値段のわからない世界」シリーズの一作です。

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