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第8話:天才魔術師は親友の『膝枕』を覗き見る。


――私は、天才魔術師ルナ。そして、今私は人生で最大の、「後悔」をしている。


「……っく! あんなところに、あんたを捨ててくるなんて……! この私が許さないんだから!」


宿『木漏れ日』の裏手、葉っぱの傘を被り、私は震える指で木々の隙間を広げた。


私のローブは、もう何日も森の中を彷徨ったせいで泥だらけだ。ツインテールも、きっと枝に引っかかってボサボサになっているに違いない。


そんなこと、どうでもいい。今、私の頭の中を支配しているのは、ただ一つ。


アルテミス。


私の幼馴染で、親友で、……そして、この世で一番不器用で、誰よりも純粋な騎士。


小さかった頃から、私たちはいつも一緒だった。


私は賢くて、アルテミスは強かった。


「ルナは私の頭脳、私はルナの剣だね!」なんて、汗だくになりながら誓い合った、あの日のこと。


勇者パーティに入った時も、あいつは「ルナも一緒で心強いな」なんて、私にだけは素直な笑顔を見せてくれた。


……なのに。あの無能な勇者。


自分の愛人(聖女)を守るためだけに、最強の盾であるアルテミスを最後列に下げ、最前線には何の指示も出さずに放置した。


私は分かっていた。あんな無茶な陣形では、アルテミスが一人で全方位からの攻撃を受け止めるしかないって。


「勇者、アルテミスを援護するべきよ!」


そう叫んだ私に、あの男は「お前は僕の指示に従ってろ! 余計な口出しはするな!」と怒鳴りつけた。


私は結局、何もできなかった。


親友が泥の中で血を吐きながら戦っているのを、ただ、後ろから見ていることしかできなかった。


そして、全てが終わった時、私が席を外した間に、あいつは「無能」の烙印を押されて、パーティから放逐された。


「……だから、私が来たんだから。あんたを救い出すために!」


私は強く拳を握りしめた。


あいつはきっと、他人に裏切られた絶望で、宿屋に閉じこもっているか、無気力に横たわっているに違いない。


私が今すぐ助け出して、あの無能な勇者の鼻っ柱を、私の最大魔法でへし折ってやるんだから!


そう決意して、私は宿の窓へと視線を向けた。


……けれど。そこに映っていた光景は、私の想像を、遥かに超えていた。


「…………は?」


情けない声が漏れる。


宿の庭。そこにいたのは、エプロンをつけたアルテミスだった。


あの、普段は鎧と剣に身を包み、「騎士とはかくあるべし」とばかりに眉間に皺を寄せていたあいつが、フリル付きのエプロンを着て、一生懸命に床を掃いている。


もしかして、誰かに弱みでも握られて奴隷のように働かされてるんじゃないのかと一度は考えた。


それだけなら、まだ「労働させられている」という解釈で納得できた。


問題は、あいつの表情だ。


「……んー……ふんふふーん……♪」


アルテミスが、鼻歌を歌っているのだ。


信じられない。あのアルテミスが、鼻歌を? しかも、その顔は、まるで太陽を浴びる子猫のように、穏やかで、満たされた表情をしていた。


「……ま、まさか。偽物? 洗脳魔法をかけられた人造人間……!? いや、でもあれは確かにアルテミス……」


私の脳が、完全にエラーを起こした。


どう見ても、目の前のアルテミスは、奴隷にされているようには見えない。


むしろ、楽しそうだ。


すると、宿の奥から一人の女性が出てきた。


黒髪をきっちりと結い、無表情で、一切の隙がない立ち姿。


この宿の女主人、シエル、という女だろう。すでに周囲の聞き込み調査は実施済み。


ルックスは整っているけれどモブ顔、どこか人間味がなくて、まるでお人形さんみたいだ。


「アルテミス。休憩の時間です。手入れを行います。こちらへ」


シエルが冷淡な声でそう言うと、彼女は庭の長椅子に腰を下ろした。


するとアルテミスは、顔をぱあっと輝かせ、まるで待ち望んでいた獲物を見つけたかのように、吸い寄せられるようにシエルの元へ歩み寄った。


「はい、シエル! あ、今日の手入れは、少し長めだと嬉しいです!」


私が混乱する間もなく、アルテミスはシエルの膝の上に、当たり前のような動作で頭を乗せた。


「…………っ!?!?!?!?!?!?」


私の喉の奥から、肺が破裂しそうなほどの衝撃が突き上げた。


膝枕。ひざ、まくら……っ!?


あの、私ですら「距離を保て」と拒絶したアルテミスが、こんなに簡単に他人の膝に! 女同士とはいえ、これは、これはあまりにも親密すぎやしないかしら!?


私の顔は、きっと茹でダコみたいに真っ赤になっているに違いない。


しかも、衝撃はそれだけでは終わらなかった。


シエルが、白くて細い指先を、アルテミスの銀髪にそっと差し入れたのだ。


事務的な、まるで書類の整理でもするかのような手つきで、ゆっくりと頭を撫で始める。


「……あ、ぅ……シエル……」


アルテミスが、小さく甘えたような吐息を漏らした。


目を閉じ、シエルの腰のあたりに手を回して、ぎゅっとしがみつく。


それは、あいつが子供の頃、私が熱を出してうなされていた時に、私の手をぎゅっと握ってくれた、あの時の仕草とそっくりだった。


「………………ッ」


息が、止まるかと思った。


なんなの、これ。なんなの、あの甘すぎる空間。


あの女(シエル)の指が髪を梳くたびに、アルテミスはうっとりと頬を染めて、猫みたいに頭を擦りつけている。あんな、あんな幸せそうなアルテミス、私といた時ですら、一度も見たことがなかった。


あいつはいつも、ギリギリまで糸を張り詰めて、誰にも弱音を吐かずに盾を構えていたのに。


「……心地いい?」


「……ああ。……『なでなで』されるというのは、これほどまでに心が安らぐものなのだな。……シエル、もう少し、……このままで、いたい」


「仕方ありませんね。……オプションの延長なでなでを適用します」


シエルが無表情のまま、なでる速度を少しだけ上げた。


するとアルテミスは、シエルの指をふと捕まえて、自分の頬に押し当てた。


少しだけ潤んだ瞳で、じっとシエルを見つめて。


「……お前が、私の主でよかった」


その言葉は、まるで魔法のように、私の心を貫いた。


私は、その場に崩れ落ちそうになるのを必死で耐えた。


無理。無理すぎる。


幼馴染の私でも見たことがない最大級のデレを、あんな得体の知れない女にさらけ出してるなんて!


悔しい。


悔しいけれど、……それ以上に、あいつがあんなに穏やかな顔をしていることに、どこかでホッとしている自分がいて。


でも、やっぱり許せない! 私というものがありながら、あんな得体の知れない女に「なでなで」されてるなんて!


「……見てなさい。あの女の正体、私が暴いてやるんだから……!」


私は泥を払い、立ち上がる。


こうなったら、正攻法じゃダメね。


変装して、客のフリをして潜入する。


そして、あの女がアルテミスにどんな「いかがわしいサービス」をして骨抜きにしているのか、この目で、天才魔術師の眼識で、徹底的に査定してやるんだから!


「……ふん! 覚悟しなさいよ、宿屋の女主人!」


私は大きく深呼吸をして、真っ赤になった顔を隠すように、ローブのフードを深く被った。


天才魔術師ルナの、命と羞恥心を懸けた潜入調査が、今、幕を開ける――!




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