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第7話:『なでなで延長料金』は給与から天引きです。


看板娘(自称)。


昼間のアルテミスは、まさに「過剰適応」という言葉が相応しい働きぶりだった。


エプロンのフリルを激しくなびかせ、彼女は宿中の床という床を磨き上げ、薪割りをすれば音速を超えそうな勢いで斧を振り下ろした。


「シエル! 次の任務……いや、業務は何だ!?」と鼻息荒く迫ってくる彼女に、私は淡々と「次は窓拭きです。ガラスを破壊しない程度の出力でお願いします」と指示を出し続けた。


彼女は、守るべき主を失った喪失感を、労働という名のエネルギー消費で埋めようとしている。


前世でもいた。大きな失恋や挫折を経験した直後、狂ったように残業を志願し、周囲をドン引きさせるほどの速度でタスクを消化していく社員だ。


だが、それはあくまで「先延ばし」に過ぎない。


太陽が沈み、賑やかな労働の音が消え、一人で静かな部屋に戻った時。アドレナリンが切れた脳を襲うのは、昼間よりも数倍深い、底なしの孤独だ。


「……さて。夜間の巡回を始めましょうか」


深夜二時。宿屋『木漏れ日』が深い眠りに包まれる頃。


私はロウソクを手に、二階の廊下を歩いていた。


アルテミスの部屋の前を通り過ぎようとした、その時だ。


「……くっ……、……ぁ……」


扉の向こうから、押し殺したような、だが隠しきれない震える声が漏れていた。


それは昼間の凛々しい「看板娘(自称)」の姿からは想像もできない、怯えた幼子のような喘ぎ。


私は無表情のまま、一秒だけ迷い、そしてドアをノックした。


「お客様……失礼、従業員アルテミス。深夜の『夜泣き』は、建物の構造上、反響して業務に支障をきたします」


「……ッ、シエル、か……?」


返事を待たずに扉を開けると、そこには月光に照らされた、あまりに無防備な騎士の姿があった。


彼女はベッドの上で膝を抱え、私が貸し出したシャツの襟元をぎゅっと握りしめていた。銀髪は乱れ、金色の瞳には涙の膜が張っている。


「……すまない、起こしたか。……ただ、少し……怖くなっただけだ」


「何が、ですか? 魔獣の襲撃なら、宿の防衛結界が検知します。それとも、ゴキブリの類でしょうか」


「違う……。静かすぎて、自分の心臓の音しか聞こえないのが……。あの最後列で、誰にも背中を任せられず、ただ泥の中で死を待っていた時の感覚を……思い出してしまって……」


彼女の指先が、ガタガタと震えている。


プロの騎士として、無能な采配で使い捨てられた傷。それは、綺麗な鎧を着て、エプロンを締めたくらいでは癒えない急性の「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」だ。


放置すれば、明日の稼働率は三〇%以下に低下するだろう。


「……非効率ですね。そんな情緒不安定な状態で明日寝坊されると、朝食の配膳が滞ります。緊急の手入れが必要と判断しました」


「手入れ……?」


私はロウソクをテーブルに置き、ベッドの端に腰を下ろした。


アルテミスは驚いたように、だが何かに縋るように、私をじっと見上げる。


「オプション料金、一万ゴールド相当のサービスを適用します。項目は『夜間不安除去』。……平たく言えば、私があなたの気が済むまで頭を撫でる、睡眠導入剤です」


「な、なで……? 子供じゃあるまいし、そんなことで……」


「黙って、そこへ頭を出してください。これは主人としての業務命令です」


私は有無を言わさぬ口調で告げると、アルテミスの頭を引き寄せ、自分の膝の上に強制的に着陸させた。


いわゆる「膝枕」という体勢だが、私にとっては単なる、作業台に修理対象を固定したに過ぎない。


「ひゃ、ひゃうっ……シ、シエル……近い、顔が……」


「動かないでください。リズムが狂います」


私は、彼女の白銀の髪に指を通した。


そして、前世で「徹夜三日目の部下」を落ち着かせるために学んだ、行動心理学に基づく完璧なストロークを開始した。


ゆっくりと、生え際から後頭部にかけて。


一定の圧力。一定の速度。


「……ッ……、……んぅ……」


アルテミスの体から、微かに力が抜ける音が聞こえた気がした。


私の指先が、彼女の耳の裏をかすめ、柔らかな髪を梳き上げていく。


不感症な私の指先は、彼女の熱をただの「現象」として感知するが、彼女にとっては、それは世界で唯一の、自分を繋ぎ止めてくれる錨のように感じられたのだろう。


「……あ……。これ、……なんだ、すごく……温かい……」


「ただの摩擦熱と、静電気の抑制効果です。余計な思考はやめてください」


「……シエルは、いつもそうだ……。冷たいことばかり言って……でも、私のこと、ちゃんと見ててくれる……」


アルテミスは、私の服の裾を小さな手でぎゅっと握りしめた。


昼間の威勢はどこへやら。彼女は私の膝の上で、心地よさに翻弄される子猫のように、目を細めて吐息を漏らしている。


「……なぁ、シエル。……私は、両親さえ一度も撫でられたことがない。……褒められたこともない。……ただの、最強の騎士であれと言った……」


「その両親の評価は、市場価値と一致しません。私の宿では、あなたは非常に価値のある、高価格帯の備品です。……ですから、壊れることは許可しません」


「……ふふ、やっぱり君は……変わってるな……」


なでなでのリズムに合わせて、アルテミスの瞼がゆっくりと落ちていく。


私たちの間に漂うのは、甘い雰囲気なのかもしれない。


しかし、私からすれば、これはあくまで脆弱な資源を保護するための手入れだ。


……だが。


膝の上で、完全に無防備な顔をして寝息を立て始めた彼女の寝顔を見て、私はほんの、ほんの一瞬だけ、前世で一度も感じたことのない「奇妙な満足感」を覚えた。


「……おやすみなさい。不器用な従業員さん」


私は彼女が深い眠りに落ちたことを確認し、そのまま明け方まで、その銀髪を撫で続けるという「無償残業」に身を投じることになった。


窓の外から、早起きの鳥たちの鳴き声が聞こえ始めた。



 ◆



宿屋の主人として、火を起こし、パンを焼くべき刻限である。だが、私の膝の上には現在、推定体重五十五キログラムの「最強の重し」が居座っていた。


「……むぅ……。シエル、……そこ、もっと……」


アルテミスは夢の中で、まだ私の「なでなで」を要求しているらしい。


膝の上で丸まった彼女は、私のシャツの裾を握りしめたまま、幸せそうに頬を緩めている。騎士としての威厳など、昨夜の手入れの泡と共にどこかへ消え去ってしまったようだ。


「お客様。業務開始時刻を五分超過しています。速やかに起床し、従業員モードへ移行してください」


私は無表情のまま、彼女の耳元で淡々と告げた。


「……んぅ? あ、……え? ……えええええええッ!?」


バネが跳ねるような勢いで、アルテミスが起き上がった。


あまりの勢いに、彼女の銀髪が私の鼻先をかすめる。彼女は自分の現状――女主人の膝を枕にし、その服をヨレヨレにするほど握りしめて眠りこけていた事実――を脳内で処理し、瞬時に顔面を沸騰させた。


「し、シエル! 私は、その……一晩中、君の膝を!? な、なんという失態だ、騎士として、従業員として……!」


「規約に基づき、昨夜の『なでなで延長料金』は給与から天引きしておきます。……さあ、顔を洗ってください。今日は新入りである、あなたの歓迎会を兼ねた、特別メニューの朝食ですから」


「……天引き……。ああ、いくらでも引いてくれ。……だが、その……」


アルテミスは、はだけた襟元を直しながら、上目遣いに私を見た。


「……今夜も、その。……『なでなで』の予約は、空いているだろうか?」


「需要と供給のバランス次第ですね。……さあ、持ち場(キッチン)へ」


私はそう言い捨てて部屋を出たが、扉を閉める直前、彼女が「よしっ」と小さくガッツポーズをするのを、私の網膜は見逃さなかった。


……やれやれ。どうやらこの従業員、性能は良いが、精神面でのランニングコストが相当高くつきそうだ。




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