第61話:『アラクネ』。
夕日が沈んだ頃。
湯気の中に、銀色の光が満ちていた。
泥の塊にしか見えなかったアリアの髪は、私が調合した洗浄液と魔力による指先の「お手入れ」を経て、もはや神話に語られる伝説の絹、あるいは流れる銀河のような輝きを取り戻していた。
「……あ、ん……。……、……あったかくて……、ふわふわ……」
アリアは浴槽の縁に頭を預け、とろんとした瞳で私を見上げている。
洗浄は終わった。だが、本当の「仕上げ」はここからだ。
アラクネという種族は、その体内で生成する「糸」に魔力の大部分を依存している。不潔な状態で糸の出口が詰まっていた彼女の身体は、いわば排熱処理のできない高出力エンジンと同じ。
私は、リネン室から最高級の保湿オイルと、魔力伝導率を高める「秘伝の磨き粉」を持ってきた。
「アリア。まだ終わりではありませんよ。次は貴女の肌……そして、その指先に溜まった『澱み』をすべて削ぎ落とします」
「……、……削ぐの……? ……いたいの……?」
「いいえ。……極上の心地よさに、少しだけ腰が抜けるかもしれませんけれどね」
私は彼女を浴槽から上げ、厚手のタオルで優しく、しかし確実に水分を拭き取った。 現れたのは、雪のように白く、透き通るような幼子の肌。
私は彼女をマッサージ台へ横たわらせ、たっぷりとオイルを手に取った。
指先。関節。そして、魔力が集中する首筋。
私は前世で培った「効率的な疲労回復」の知識と、この世界の魔法を融合させ、彼女の小さな身体を「研磨」していく。
「……ふぁ……っ、……! ……そこ、……おなか……くすぐった……あ、ぁあ……っ!」
指先で優しく円を描き、滞っていた魔力の塊を散らしていく。
彼女の指先にある糸の射出口を、オイルを含ませた細い筆で丁寧に、一本ずつお手入れする。
するとどうだ。
詰まりが取れた彼女の指先から、粘着性のない、驚くほど滑らかで光沢のある「純粋な糸」が、さらさらと溢れ出し始めたではないか。
「……。……素晴らしい。これこそが、アラクネの真の糸……。……世界中の王侯貴族が喉から手が出るほど欲しがる、至高のシルクです」
私はその糸を指に絡め、質感を確認した。
しっとりとしていて、それでいて強靭。
この素材があれば、宿の寝具はさらに異次元の快適さを手に入れるだろう。
私は無意識のうちに、アリアの全身を、隅々まで、一ミリの妥協もなく磨き上げていた。
だが、その至福のメンテナンスタイムは、宿の壁を震わせるような重低音によって中断された。
――グォォォォォォォォンッ!!
地響きと共に、裏山の木々がなぎ倒される音が聞こえてくる。
この震動、この魔力の波。間違いない。
この辺りの主として恐れられている、巨大な岩熊だ。
「……せっかくの仕上げを邪魔するなんて、無粋なクマですね」
「シ、シエル様! 大変よ! 裏山から巨大な魔物がこっちに……!」
廊下を駆けてきたフィーが、血相を変えて部屋に飛び込んできた。
窓の外を見れば、月の光を遮るほどの巨体が、宿の目鼻の先まで迫っている。
岩のように硬い毛皮と、家屋を容易に粉砕する剛腕。
本来なら冒険者ギルドが総出で当たるべき相手だ。
「フィー、アリアを連れて安全な場所へ。私が――」
私の瞳が熱を帯びる、その時だった。
「……。……だめ」
私の腕の中で、オイルに濡れて赤子のように丸まっていたアリアが、静かに立ち上がった。
「……アリアを……、……お掃除してくれた……おねえちゃんを……いじめるやつ……、ころす」
その瞬間、部屋の空気が凍りついた。
アリアの背中から、猛烈な密度の魔力が噴き出す。
彼女の小さな背中を突き破るようにして、漆黒の、鋼鉄よりも硬質な六本の「蜘蛛の脚」が展開された。
それだけではない。
ミキ、ミキ、と肉が弾け、骨が鳴る。
幼かった彼女の手足が、瞬く間に伸長していく。
丸みを帯びていた頬は鋭く整い、銀髪は爆発的に伸びて床を覆い尽くした。
そこに立っていたのは、幼女のアリアではない。
妖艶なまでの美貌と、見る者を戦慄させる威圧感を纏った、大人の「アラクネ」だった。
「……おねえちゃん。……、……ちょっと、お外掃除してくる」
彼女は窓から音もなく外へと跳ねた。
岩熊が宿に向かってその剛腕を振り上げた瞬間。
夜空から降り注いだのは、雨ではなかった。
白銀の、月の光を反射する「死の糸」だ。
「……『銀糸の牢獄』」
一瞬だった。
巨大な岩熊の巨体が、空中で不可視の糸に捕らえられ、文字通り「静止」した。
アリアが指先を僅かに動かす。
それだけで、岩をも砕く熊の身体が、紙細工のように容易く締め上げられていく。
「……私の、おねえちゃんの、……おうち。……、……汚すな」
アリアが虚空で手を握り込んだ。
次の瞬間、岩熊は血の一滴すら流すことを許されず、完璧な糸の繭の中に閉じ込められ、絶命した。
静寂が戻る。
月明かりの下、漆黒の蜘蛛の足を翻して宿のベランダへと着地した彼女は、私を見るなり、ふにゃりと、その大人びた顔を崩した。
「……おねえちゃん。……、……おわったよ」
ぷしゅぅ、と魔力が抜ける音が聞こえた。
彼女の身体は再び縮み、大人の女性から、先ほどまでの小さな幼女へと戻っていく。
蜘蛛の足も消え、そこにはただ、シエル特製のオイルで磨き上げられた、ピカピカの幼いアリアが立っていた。
私は彼女に歩み寄り、その小さな、けれど強大な力を秘めた身体を、力いっぱい抱きしめた。
銀色のシルクの髪。磨き上げられた、至高の肌触り。
さて。
魔力を使ってお腹が空いたでしょう。
今夜は、フィーとアリア、二人まとめて極上の手料理を堪能させてもらうとしましょうか。




