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第60話:店主は『山』へ虫取りに。

宿屋の経営において、周辺環境の整備は集客と同じくらい重要だ。


特に『木漏れ日』のような王都の喧騒から離れた場所に佇む宿にとって、裏山の散策路は貴重な観光資源になる。私は今日、フィーを連れて裏山の状況確認……という名目の、ちょっとしたピクニックに来ていた。


「シエル、見て! この辺り、昨日より空気が澄んでる気がする!」


先を歩くフィーが、新調したメイド服の裾を翻しながら振り返る。


最近の彼女は、接客の成功で自信がついたのか、耳も尻尾も常に生き生きと動いている。その毛並みは、毎晩私が「お仕置き(ブラッシング)」を欠かさないおかげで、宝石のような光沢を放っていた。


「そうですね。ですが、足元には気をつけてください。この辺りは湿気が多いですから」


私は手に持った籠に、宿の夕食に使うための山菜や香草を摘み取りながら答える。


平穏だ。前世の、コンクリートに囲まれて数字だけを追いかけていた日々が、まるで遠い異世界の神話のように思えるほど、この時間は穏やかで、満ち足りていた。


――だが、その平穏は、森の奥深くで見つけた「異物」によって唐突に破られた。


「……? シエル、あれ……何だろ?」


フィーが立ち止まり、一本の巨大な老木を指差した。


その太い枝から吊り下げられるようにして、地面すれすれの位置に「それ」はあった。


一見すると、泥と枯れ葉が混じり合った、不格好な巨大な岩のように見える。


大きさは一メートルほどだろうか。表面は粘着質の色を帯びた「糸」のようなものが幾重にも巻き付き、そこに森のゴミが堆積して、もはや何かの腐敗した死骸か、あるいは悪趣味な不法投棄物にしか見えない。


「……不愉快ですね。私の宿の庭(裏山)に、こんな不潔なものを放置するなんて」


私は眉をひそめ、その「塊」に近づいた。


近づくにつれ、鼻を突くのは腐敗臭ではなく、どこか甘ったるい、それでいて鼻の奥がツンとするような、独特の有機的な匂いだ。


「シエル、危ない! 何か魔物の卵かもしれないし……」


「卵、にしては形が歪です。それに……」


私は塊の表面に、そっと手を触れた。


指先に伝わってきたのは、驚くほど強固な「粘着性」と、その内側で微かに脈打つ……「生命」の鼓動だった。


――助けて。


声にならない、微かな震え。


塊の内側から、何かが必死に外の世界を求めて、細く、折れてしまいそうな力で壁を叩いている。


「……生存者、ですか。フィー、ここを切ることはできますか?」


フィーは獣族特有の長い爪を伸ばす。それは鋭利なメスのような形状に成形される。


私は糸の繊維が走る方向を見極め、一点の曇りもない精度で、フィーに指示を出し、爪をを滑り込ませた。


シュッ、と裂けるような音と共に、幾重にも重なった「泥の殻」が左右に割れる。


ドサリ、と。


中から転がり落ちてきたのは、泥と糸の絡まった、小さな「子供」だった。


「……えっ、女の子……!?」


フィーが悲鳴に近い声を上げる。


そこにいたのは、人間の年齢で言えば六、七歳ほどに見える少女だった。


肌は病的なまでに白く、長い銀髪は泥と自身の粘着糸によってガチガチに固められ、まるで粘土の塊のようになっている。


何より異様なのは、彼女の手足だ。


指先からは絶え間なく透明な糸が溢れ出し、それが彼女自身の身体を縛り、繭のように包み込もうとしていた。


「……。……自分の力を制御できず、自ら生成した糸に閉じ込められた、というわけですか」


少女は意識を失っているが、その呼吸は浅く、体温も極端に低い。


アラクネ――蟲人族の変種。


文献でしか見たことのない希少種だが、この溢れ出す糸の質感、そして微かに見える背中の紋様がそれを証明していた。


「シエル、どうしよう! 早くお医者様を……!」


「いいえ。彼女に必要なのは、医者ではなく『洗浄』です。フィー、彼女を宿へ運びます。私の部屋に、最高級の洗浄液と、ありったけの保湿オイルを用意してください」


「え、ええ!? わ、わかったわ!」


私は、汚れにまみれた少女を迷わず抱き上げた。


泥が私の服を汚し、粘着糸が腕にまとわりつく。


だが、今の私を支配していたのは、慈悲の心よりもむしろ、宿主としての、そして「職人」としての激しい情熱だった。


この銀髪。泥の下に見える、シルクの輝きを秘めた原石。  放置すれば不潔なゴミとして朽ち果てるはずだったこの命を、私の手で、最高級の「宝石」へと磨き上げてやる。


宿に戻るなり、私はアリア、後にそう名乗った少女を、私の私室にある大きな浴槽へと運んだ。


まずはこの、頑固な粘着糸の除去だ。


前世の化学知識を総動員し、私は即座に「非極性溶媒」に近い性質を持つ魔法薬を生成した。そこに植物から抽出した天然の界面活性剤をブレンドする。


「……始めましょうか。アリア、と言いましたね。安心しなさい。貴女を縛るこの『汚れ』は、今ここで私がすべて消し去ってあげます」


私は、彼女の泥まみれの頭から、特製の洗浄液をたっぷりと振りかけた。


ジュワリ、と泥が溶け、固まっていた銀髪が少しずつ解けていく。


私の指先が、彼女の髪の間に滑り込む。


一本一本。絡まった糸を、魔法の微細な振動で解きほぐしていく。


「……あ、ん……。……あ、つ、……い……」


意識を失っていたはずのアリアが、微かに熱を帯びた私の指先の感触に、小さな声を漏らした。


私は彼女の身体や髪を洗い続けた。


泥の下から現れたのは、月明かりを凝縮したような、この世のものとは思えないほど美しい銀色の長髪。


次に私は、彼女の指先に注目した。


糸の出口が、汚れと古くなった角質で目詰まりを起こしている。それが原因で、魔力の循環が滞り、制御不能な暴走を招いていたのだ。


「……ここですね。少し痛みますよ」


私は彼女の小さな、白い指を一本ずつ取り、その先端に優しく息を吹きかけながら、目詰まりを丁寧に取り除いていく。


詰まりが取れるたび、彼女の体内を巡る魔力の脈動が正常なリズムを取り戻していくのが、指先を通じて伝わってきた。


「……あ、……ぅ。……きもち……いい……。……。……。……。……お姉ちゃん、……だれ……?」


アリアが、ゆっくりと目を開けた。


そこには、今まで見たこともないような「清潔さ」と「温もり」が、彼女の全身を包み込んでいた。


泥に塗れていたアラクネの幼女は、今、シエルの手によって、その真の美しさを開花させようとしていた。




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