第59話:いってらっしゃいませ!
深夜。
客室の明かりがすべて消え、宿屋『木漏れ日』は月光を湛えた静寂の底へと沈んでいた。
私は、厨房とホールの最終確認を終え、私の私室へと戻る。
扉を開けると、そこには既に「従業員」としての仮面を脱ぎ捨て、魂が抜けたようにベッドの端に腰掛けているフィーの姿があった。
「……お疲れ様でした、フィー。……まずは一杯、冷たいお水でも飲みますか?」
声をかけた瞬間。
フィーの大きな耳がピクリと跳ね、彼女は弾かれたように私の方を向く。その瞳には、まだ先ほどの感動の余韻がキラキラと、宝石のように残っていた。
「シエル……っ! あたし、あたしね……!」
彼女は立ち上がり、私に向かって駆け寄ってくると、そのままの勢いで私の小さな身体をぎゅっと抱きしめる。
「お客様が、あたしに『ありがとう』って……っ! 美味しかった、安心して眠れるって言ってくれたの……! あたしみたいな、何もない、壊してばかりのやつなのに……っ!!」
彼女の細い腕が、私の背中に回される。
その体温は、緊張から解放された安堵で少しだけ熱を帯びていた。
「……ええ。……知っていますよ。……私はずっと、貴女の頑張りを特等席で見ていましたから」
私は彼女の背中を、ポン、ポンと優しいリズムで叩く。
「……フィー。……貴女が彼女を救ったのです。……私の料理や魔法は、ただの道具。……それを『おもてなし』という名の温もりに変えて届けたのは、他ならぬ貴女自身なのですよ」
「……ぅん……。……シエル……。……あたし、……あたし、この仕事、大好きかもしれない」
彼女は私の肩に顔を埋め、幸せを噛み締めるように何度も頷きました。
没落し、すべてを失った彼女が、自分の「居場所」を自らの手で掴み取った瞬間。
……さて。
……感傷的な時間は、ここまでです。
ここからは、店主としての「義務」の時間。
すなわち、最高の成果を上げた従業員に対し、最高の「ご褒美」を授ける時間だ。
「……フィー。今日、貴女は120点の働きをしました。ですので、……罰として、今夜は朝まで私に可愛がられていただきます」
「……え。……。……それって、ご褒美じゃなくて、罰なの……?」
フィーがキョトンとした顔をしましたが、私は構わず彼女の手を引き、ベッドの中央へと誘う。
「……まずは、耳のメンテナンスです。……お客様の要望を一つも漏らさず聞き届けた、貴女の誇り高き耳を……、とろとろに解してあげましょう」
私は彼女を膝枕に乗せ、愛用の耳かきを手に取る。
先ほどまでの「影の支配者」としての鋭い眼光はどこへやら。今の私の瞳は、最高級の「もふもふ」を前にした熱狂的な愛好家のそれへと変貌していた。
耳かきの先端が、彼女の耳の奥、微かに熱を持った柔らかな皮膚に触れる。
「……ぁ、……ふぁ……っ。……シエル……。……あ、……そこ……。……なんだか、……身体の力が、全部抜けちゃう……」
「……いいですよ、全部抜いてしまいなさい。……今日一日、貴女が背負っていた緊張も、……過去の不安も、……すべて私がこの耳かきで掻き出してあげますから」
サリ……、サリ……。
静寂の中で、その小さな音だけが響く。
耳を弄られる快感に、フィーの尻尾がベッドの上でユラユラと、力なく、けれど幸せそうに揺れている。
私はその尻尾の動きを愛でながら、心ゆくまで彼女の耳を「掃除」し、仕上げに付け根のあたりを指先でじっくりとマッサージした。
「……ふひゃ……っ。……もう、……だめ……。……あたし、……溶けて、なくなっちゃいそう……」
「……溶けていいのですよ。……溶けたら、私がまた新しく形を整えて、ぎゅっ、ぎゅっ、ぎゅっと抱きしめてあげますから」
私は耳かきを置き、彼女を布団の中へと引き込む。
ここからが、本番。
私は、まるで貴重な獲物を捕らえた肉食獣(といっても外見は中学生ですが)のような素早さで、フィーの身体に覆い被さる。
ぎゅっ。
「……あぁ、……いい密度です。……今日一日、頑張った分だけ、……毛並みの弾力が増している気がしますね」
「……シエル、……シエルぉ……っ。……苦しいってば……っ。……ぎゅうぎゅうしすぎ……っ」
フィーは顔を赤くして抗議しますが、その腕はしっかりと私の背中に回されている。
私は彼女のふかふかした胸元に顔を埋め、左右にグリグリと押し付けた。
「……もふもふ補給……。……現在、チャージ率50%。……朝までに100%にする必要があります。……動かないでください」
「……あはは……。……もう、……シエルったら、……あたしのこと好きすぎだよ……」
フィーは諦めたように笑い、私の頭を優しく撫でてくれた。
私は彼女の大きな尻尾を両足でがっしりとホールドし、その根元の最も「もふもふ」が密集している部分に頬を寄せる。
ぎゅっ。ぎゅっ。ぎゅぅぅぅっ!!
前世の社畜時代。私が必死に求めていた「救い」が、今、腕の中にある。
誰かに必要とされ、誰かを癒やし、そして何より、こんなにも愛おしい存在を抱きしめていられる。
稼働率10%。従業員一人。
けれど、この宿屋『木漏れ日』こそが、世界で一番豊かな場所であると、私は確信していた。
やがて、フィーの呼吸が穏やかな安眠のそれへと変わっていく。
彼女の尻尾が、私の足の間で最後の一振りを終え、静かに横たわる。
私は、眠る彼女の額にそっと唇を触れさせ、耳元で小さく囁きました。
「……おやすみなさい、フィー。……明日も、最高の笑顔で『いらっしゃいませ』を言いましょうね」
翌朝。
馬車の修理が終わった令嬢は、出発の間際、フィーの手に小さな巾着袋を握らせました。
「……これ、チップとは別に、貴女へ。……貴女のその一生懸命な手、忘れないわ。……王都へ来る機会があったら、ぜひわたくしの屋敷を訪ねてちょうだい。……フィー、貴女のような素晴らしいメイドがいるこの宿を、わたくし、友人に自慢しておくわね」
令嬢を乗せた馬車が、砂埃を上げて見えなくなるまで、フィーはずっと手を振り続けた。
巾着の中には、金貨数枚と、美しい青い鳥の羽をあしらったブローチ。
宿屋『木漏れ日』の稼働率は、まだ10%。
けれど、私たちの物語は、この一枚の金貨よりも眩しい輝きを持って、次の一歩を踏み出そうとしていました。




