第58話:初めての『おもてなし』。
ウェルカムドリンクのハーブティーが功を奏したのか、令嬢の顔から険しさが少しだけ消えた。
だが、ここからが本当の「接客」という名の戦場だ。長旅で心身ともに疲弊した貴族というのは、無意識のうちに己のこだわりを周囲にぶつけてくるもの。それが悪意でないと分かっていても、慣れないフィーにとっては大きな試練になる。
「フィーさん。お部屋の温度はいいけれど、少し乾燥が気になるわ。あと、私の肌はとてもデリケートなの。お風呂の温度は38.5度ぴったりにしてちょうだい。それと枕。この高さでは明日の朝に首を痛めてしまう。指三本分ほど低くしてくださる?」
部屋の外まで漏れ聞こえてくる令嬢の矢継ぎ早なオーダー。
扉の前に立つフィーの背中が、まるで嵐に遭った小動物のようにビクビクと震えているのが手に取るように分かった。大きな耳が前後左右に忙しく動き、パニック寸前だ。
「ひ、ひゃいっ! 38.5度……っ、指三本分……っ! かんそー……ええと、お水をお撒きすれば……!?」
あらぬ方向へ走り出そうとするフィーの肩を、私は廊下の死角から素早く掴んだ。
「落ち着いて。乾燥には、このアロマオイルを焚いた加湿器を使いなさい。枕は、リネン室から低いタイプを今すぐ用意する。貴女はまず、笑顔で『かしこまりました』と答え、お風呂の準備を整えてくると伝えなさい」
「シエル! ……うん、わかった。かしこまりました、お客様! すぐにご用意いたしますっ!」
フィーが健気に部屋の中で奮闘を続けている間、私は宿を裏側からコントロールする。
まずは風呂だ。38.5度という極めて正確な温度調整。
さらには令嬢の「デリケートな肌」という言葉を拾い、お湯の塩素成分を完全に中和。皮膚のバリア機能を高める薬草成分を、目には見えないほど微量に、しかし確実に配合した。
次に枕。リネン室から最高級の羽毛枕を取り出す。中の詰め物を少しずつ抜き取り、ちょうど指三本分低くなるように再構築。これなら、どんなに神経質な令嬢でも満足するはずだ。
「フィー、準備完了です。これを」
加湿器と特製枕を受け取り、フィーが再び部屋へと飛び込んでいく。
お客様を浴室へ案内し、その間にベッドメイキングを整え、乾燥対策を施す。
フィーが不器用ながらも一生懸命に動き回る姿は、令嬢の目には「自分を特別扱いしようと必死に尽くしてくれる、純朴で献身的なメイド」として映っているようだった。
「……あら、本当にお湯が38.5度だわ。それに、なんて滑らかな質感なのかしら。王都の高級サロンでも、ここまでの感触はなかなかないわね」
脱衣所から漏れ聞こえる感嘆の声。
ドアの外で待機していたフィーが、嬉しそうに「よしっ!」と小さくガッツポーズをし、尻尾をぶんぶんと振り回す。その様子は、見ていて本当に飽きない。
だが、店主としての私の本領発揮はここからだ。
ディナータイム。
前世の社畜時代、接待の場で磨かれた「相手のコンディションを察する眼」と、この世界で極めた「調理スキル」を掛け合わせ、最高の一皿を仕上げる。
令嬢は先ほど、ハーブティーの生姜に良い反応を示していた。おそらく胃腸が少し弱っているか、冷え性があるはずだ。
ならば、メインは重厚な肉料理ではなく、新鮮な白身魚のヴァプール(蒸し料理)を、春の野草のソースで提供しよう。
厨房で、私は目にも留まらぬ速さで調理を進める。
野菜の飾り切り、ソースの乳化、パンの二度焼き。すべての工程を1秒の狂いもなく完了させる。
「フィー、配膳。料理を置く時は音を立てず、お客様の視線の少し左側から差し出しなさい」
「左側、音を立てない。わかった!」
フィーは真剣な眼差しで、私の手から銀のトレイを受け取った。
彼女の歩き方はまだ少しぎこちないが、お客様に美味しいものを食べてほしいという純粋な願いが、その一歩一歩に込められている。
食堂へと運ばれていく料理。私はカウンターの隙間からその様子を見守った。
令嬢は、目の前に並べられた料理の美しさに、思わず息を呑んだようだ。
フィーは緊張で震える手を、もう片方の手でさりげなく抑えながら、練習通りに一皿ずつ説明していく。
「……こ、こちらは、森の朝露を浴びたお野菜と……、お魚の蒸し物です。ソースには、お客様のお身体を温める魔法のハーブを使っております!」
魔法のハーブ、というのは少し誇張だが、嘘ではない。
令嬢が一口、その魚を口に運ぶ。一瞬の沈黙。
「……っ。……なんて、なんて優しい味なの」
令嬢の瞳に、うっすらと涙が浮かんだ。
旅の不安、トラブル、慣れない環境。それらによって凝り固まっていた彼女の心が、フィーの運んできた一皿によって、温かなスープに溶ける氷のように解きほぐされていく。
「……貴女、ありがとう。本当においしいわ。貴女のこの、温かなおもてなしのおかげで、私、今日は安心して眠れそうよ」
心からの微笑みと、感謝の言葉。
フィーは、まるで見えない雷に打たれたかのように硬直した。
そして、彼女の大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちる。
「……あ。あ、あたし……。……うう、……うわぁぁんっ!」
「ちょ、ちょっと、どうしたの!? 私、何か失礼なことを言ったかしら!?」
「ち、違うんです! 嬉しい、……嬉しいんです! あたしでも、誰かを幸せにできるんだって、思ったら……!!」
感極まって泣き出したメイドに、令嬢が慌ててハンカチを貸すという、なんとも不思議で温かな光景。
私はそれを影から見守りながら、胸の内で静かに喝采を送った。
フィー、おめでとうございます。
貴女は今、本当の意味で、この宿の従業員になりましたよ。
夜は更け、令嬢は満足げな溜息とともに、私が調整した完璧な枕に頭を沈めた。
さて、お客様が眠りについた後は、頑張った従業員への「アフターケア」の時間だ。




