第57話:初めての接客
宿屋『木漏れ日』の朝は、静謐という名の贅沢に包まれている。
磨き抜かれた床は朝陽を鏡のように反射し、窓から見える森の木々は、昨日までの雨を吸い込んでより鮮やかな深緑を湛えていた。
私はいつも通り、朝のルーティンであるエントランスの掃き掃除を終え、カウンターで予約帳を確認していた。もっとも、真っ白なページが続くその帳面は、確認というよりは「いつかここが埋まる日」を夢想するための、ちょっとした祈りの儀式に近いのだが。
「シエル! 見て見て、このエプロンの結び目、昨日より綺麗にできたわ!」
廊下の向こうから、元気な声とともにフィーが駆けてきた。
紺色のメイド服に、純白のエプロン。数日間の猛特訓という名の溺愛タイムを経て、彼女の立ち居振る舞いには、かつての没落令嬢らしい気品と、新米従業員としての初々しいやる気が同居し始めている。
何より、彼女の感情に合わせて左右に大きく振られる立派な尻尾が、彼女の充実ぶりを物語っていた。
「おはようございます、フィー。ええ、左右対称で完璧な蝶結びですね。100点満点です」
「えへへ、やったぁ! これでいつお客様が来ても大丈夫だね、シエル」
フィーは自慢げに胸を張る。その無邪気な笑顔を見ていると、稼働率10%の現状も、何だか「次の嵐の前の静けさ」のように思えてくるから不思議だ。
……と、その時だった。
――カランカラン、と。
静かな宿の入り口に、小気味よい鈴の音が響き渡った。私とフィーの視線が、同時に玄関の重厚な扉へと注がれる。
「……えっ」
「……あら」
扉が開かれ、そこに立っていたのは、豪奢な旅装束に身を包んだ一人の若い女性だった。
緩やかにウェーブした金髪に、少し神経質そうな碧眼。その後ろには、馬車の故障でもあったのか、疲れ果てた様子の初老の御者が、大きなトランクを抱えて立っている。
「……失礼。ここが、街道で噂に聞く『木漏れ日』かしら? 急な話で申し訳ないのだけれど、馬車の車軸が折れてしまって。……一晩、宿を貸してもらえるかしら?」
本物のお客様だ。それも、身なりの良さからして、どこかの地方領主の令嬢、あるいは裕福な商家の娘だろう。
その瞬間、私の隣で、フィーの様子が劇的に変化した。
「ぴーん!」という効果音が聞こえてきそうなほど、彼女の大きな耳が直立不動になり、ふさふさだった尻尾の毛が、緊張のあまりバサリと逆立っている。
「い、い、い……っ、いらっしゃいま、せっ……!!」
フィーの声は、裏返り、震えていた。
無理もない。彼女にとって、これはただの接客ではない。没落し、橋の下で死を待っていた自分が、再び「社会」という名の表舞台に立ち、誰かを迎えるという、人生最大の初陣なのだ。
「フィー」
私は短く、彼女の名を呼んだ。
パニックで瞳がぐるぐると回っていたフィーが、ハッとして私を見る。
私は言葉を使わず、彼女の背中を「トン」と一度だけ軽く叩いた。
『深呼吸ですよ。私が後ろにいます』
視線だけでそう伝えると、フィーはゴクリと唾を飲み込み、何度も小さく頷いた。
「……お、お客様。ようこそ、宿屋『木漏れ日』へ。従業員の、フィーと申します」
たどたどしい。けれど、一生懸命に絞り出した挨拶。
令嬢は少し意外そうに、獣族のメイドであるフィーを上から下まで眺めた。その視線には、旅の疲れからくる苛立ちと、見慣れない「獣族の接客」への一抹の不安が混じっている。
「……あら、獣族のメイドさんなのね。珍しいわ。……とにかく、酷く疲れているの。すぐに休める部屋を用意してくださるかしら? 清潔で、静かな部屋がいいわ」
「は、はいっ! 畏まりましたっ! ただいま、お荷物をお運びしますっ!!」
フィーは、今にも転びそうな勢いで令嬢のもとへ駆け寄り、御者からトランクを受け取ろうとした。
だが、緊張のあまり手の力が入りすぎて、トランクの重さに振り回されそうになる。
「こ、こちらへどうぞっ、お客様っ! 二階の、一番日当たりのいい特等席……じゃなくて、特別室をご案内しますっ!」
フィーは令嬢を誘導し、階段を上がっていく。私はその背中を見送りながら、即座に次の段取りへと移った。
「さて、本物の『おもてなし』を、彼女に教えてあげましょうか」
令嬢の様子を観察した限り、彼女の首元には長旅特有の「冷え」による強張りがあった。さらに、砂埃を気にして何度も鼻を抑えていた。
ならば、部屋に到着した瞬間に提供すべきは、ただのお湯ではない。
私はキッチンへ飛び込み、数種類のハーブをブレンドした。
呼吸器を整えるユーカリに、リラックス効果の高いラベンダー、そして血行を促進する生姜を僅かに。
お湯を沸かし、ティーポットを一定の温度を保たせる。
廊下からは、フィーの必死な接客の声が聞こえてくる。
「お客様っ、こちらのスリッパは、当宿自慢の『ふわもこスリッパ』ですっ! 足を入れると、こう、ぷにゅってしますのでっ!」
「……ええ。……随分と独特な表現ね」
令嬢の困惑した声。だが、不機嫌ではない。
フィーの飾り気のない、全力の「おもてなし」が、令嬢の心の壁を少しずつ解しているのがわかった。
私は、淹れたてのハーブティーをトレイに乗せ、フィーがドアを開けるタイミングを見計らって、背後の廊下に音もなく忍び寄った。
「フィー。これを」
「あ、シエル! ……ええと、これは……?」
「お客様への、ウェルカムドリンクです。そっと、差し出してください。……今の貴女なら、最高の間合いで出せるはずですよ」
私はフィーにトレイを託し、再び影へと消えた。フィーはトレイを抱え直し、震える手で部屋の扉を開く。
「……お、お客様。……長旅、本当にお疲れ様でした。……よろしければ、お部屋でお休みになる前に、こちらの温かいハーブティーをどうぞ」
部屋に入った令嬢が、フィーから差し出されたカップを受け取る。
立ち上る香りと、最適な温度。
令嬢がそれを一口飲んだ瞬間、彼女の張り詰めていた眉間のシワが、魔法が解けたかのようにフワリと緩んだ。
「……あら。……なんて、落ち着く香りなのかしら。……身体の芯まで、解けていくみたい……」
令嬢のその表情を見て、フィーの尻尾が、今日一番の大きな弧を描いて揺れた。
第一陣は成功だ。
だが、宿屋の戦いは、ここからが本番。
食事、風呂、そして睡眠。
新米従業員の初陣を、私は完璧に支え抜くつもりだ。




