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第56話:添い寝『研修』です。

夜の帳が完全に降り、宿屋『木漏れ日』は深い静寂に包まれていた。


私の私室。魔法のランプが放つ淡い琥珀色の光が、ベッドの上で絡み合う二人の影を優しく照らしている。


膝枕と耳かきによって、フィーの精神的な強張りはすっかり解けていた。赤く腫れていた彼女の目も、今は私のマッサージと治癒魔法によって鎮まり、とろんとした眠たげな光を湛えている。


「……さぁ、フィー。仕上げの『添い寝研修』に入ります。……枕はこちらですよ」


「……う、うん。……なんだか、今日はずっとシエルに甘えっぱなしだね……。……あたし、従業員なのに……」


フィーはおずおずと掛け布団の中に潜り込んできた。彼女の細い肩が私の隣に並ぶ。


……あぁ、これです。


……前世の私よ、見ていますか。


冷たいオフィスで一人、コンビニ弁当を啜りながら明日への不安に震えていた私。今の私には、守るべき「もふもふ」があり、分かち合うべき温もりがある。


「……フィー。……こちらへ」


私は、自分の腕を広げた。フィーは少しだけ顔を赤らめたが、吸い寄せられるように私の胸元へと潜り込んでくる。


その瞬間。


――ぎゅぅぅぅっ!!


「ひゃうんっ!? ……シ、シエル……っ、苦しい、苦しいよぉ……っ!」


私は、まるで人生で最も大切な「ぬいぐるみ」を抱きしめる子供のように、全身の力を使ってフィーをホールドした。


……いい。……最高に、いい。


彼女の柔らかな体温。そして何より、この「密度」だ。


獣族特有のふかふかとした毛並みが、私の肌に心地よい刺激を与える。私は我慢できず、彼女の首筋や背中に顔を埋め、ぎゅっ、ぎゅっ、ぎゅーーっと抱きしめる力を強めた。


「……落ち着いてください、フィー。……これは『ハグによるストレスホルモンの低減効果』を利用した科学的な癒やしです。……いいですか、店主の心臓の鼓動を聴いて、……ご自身の波長を整えるのです」


「……ぜったい嘘だぁ……っ。……シエル、あたしの耳とか尻尾……すごい勢いで撫でてるもん……っ。……あ、……ぅん……、あぁっ……」


私の指先は、すでにフィーの急所を熟知し始めていた。


ピンと立った耳の裏側の、少しだけ熱を持った柔らかい部分。そこを指の腹でクルクルと撫でる。さらに、彼女の自慢の大きな尻尾を両足で挟み込み、太ももの感触でその「もふもふ」を堪能する。


「……。……もふもふは……正義です」


「……ぷっ、……あはは。……シエルって、たまに変なこと言うよね」


フィーが、私の腕の中で小さく吹き出した。その笑い声の振動が、私の胸に伝わってくる。昼間の悲痛な表情はどこへやら。今の彼女は、ただの「愛されている少女」の顔をしていた。


「……ねぇ、シエル。……あたし、本当にここにいていいのかな」


フィーが、私のパジャマの胸元を小さく握りしめ、顔を見上げてきた。


「……あたしを襲ったあの『黒い影』……。……あいつが、あたしを見つけたら、この宿も……シエルも……」


「……。……フィー」


私は、彼女の言葉を遮るように、その柔らかな頬を両手で挟んだ。ムニッ、と潰れる彼女の顔。


「……心配しすぎです。……この宿は、訪れるすべての者の『盾』となる場所。……魔王だろうが、神様だろうが、……お客様の眠りを妨げる不埒な輩は、……この私が、プロの接客で叩き出します」


「……うん。……。……シエルがそう言うなら、……信じる」


フィーは満足そうに目を細め、自分からも私の小さな身体をぎゅっと抱きしめ返してきた。


彼女の大きな耳が、私の頬を包み込む。お互いの心臓の音が、静かな部屋の中で一つに重なっていく。


「……。……シエル。……あったかいね」


「……ええ。……フィーも、とてもあったかいですよ」


私は、彼女の頭をなでなでしながら、静かに目を閉じた。


前世では、眠ることは「明日の戦いに向けての強制終了」でしかなかった。けれど今は、この温もりを感じながら眠る時間が、人生の主役だ。


フィーの寝息が、次第に規則正しくなっていく。


……。


宿屋『木漏れ日』の夜は更けていく。


稼働率10%。けれど、その満足度は間違いなく1000%を超えていた。



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