第55話:ぎゅっ。ぎゅっ。ぎゅっ。
静まり返ったメインホールに、フィーの震える呼吸音だけが微かに響いていた。
床に散らばった大花瓶の破片は、午後の陽光を反射して残酷なほどキラキラと輝いている。それは、彼女が「今日こそは完璧に働こう」と決意し、一生懸命に磨こうとした結果、不器用な手が滑って招いてしまった悲劇だった。
「……ぁ。……あ、ああ……っ」
フィーは膝をつき、壊れた破片を拾おうとして、その鋭利なエッジで指先を切った。 ぷつりと赤い血の玉が浮かぶ。けれど彼女は自分の痛みなど気付かない様子で、ただ溢れ出す涙をボロボロと床に零していた。
「……ごめんなさい……っ。……シエル、ごめんなさい……! あたし、掃除しようと思っただけなのに……。……あたし、やっぱり……、何もできないんだわ。……家族を守ることも、……宿のお仕事も……っ!」
一度溢れ出した負の感情は、濁流となって彼女を呑み込んでいく。救い上げたはずの彼女の心が、再び深い霧の中に沈もうとしていた。
彼女にとって、この花瓶は単なる調度品ではなく、自分と『木漏れ日』を繋ぐ「信頼」の象徴のように思えていたのだろう。
私は、黙って彼女に近づいた。
「……フィー。……こちらを向きなさい」
私の静かな、けれど有無を言わさない声に、フィーは肩をビクッと跳ねさせた。
彼女はおずおずと顔を上げる。その瞳は真っ赤に腫れ、絶望の色が濃く滲んでいる。
「……追い出して、いいよ。……あたし、……居場所なんて、いらなかったんだ……っ。……こんな壊してばかりのやつ、……いらないよね……?」
その言葉を聞いた瞬間、私の中にある「宿主としてのプライド」と、隠しきれない「もふもふへの情熱」が、心地よい火を灯した。
「……フィー。……貴女は、重大な勘違いをしていますね」
「え……?」
私は彼女の前にしゃがみ込み、汚れ、血のついたその小さな手を両手で包み込んだ。 驚くほど冷たくなっている。
……これはいけません。身体の冷えは、心の冷えに直結します。
「……この花瓶は、確かに高価なものです。……ですが、それはただの『物』。……。……私がこの宿に置いている、最も価値のある宝物は――今、私の目の前で泣いている、貴女という従業員なのですよ」
「……し、シエル……?」
「……失敗して落ち込むのは、向上心がある証拠。……ですが、自分を『いらない』と断じるのは、私という店主の『見る目』を疑うことに当たります」
私はあえて厳格な口調を装い、彼女の額にコツンと自分の額をぶつけた。驚きに目を見開くフィー。
「……罰として、今夜は特別な『研修』を受けていただきます。……反論は許しません。……さぁ、破片は私が後で片付けますから、貴女はまず身体を温めてきなさい」
夕食の後。私はフィーを、私のプライベートな寝室へと呼び出した。
部屋に入ってきたフィーは、着替えを済ませたものの、まだ耳をぺしゃりと伏せ、申し訳なさそうに指をもじもじとさせていた。
「……シエル、研修って……。……あたし、何をすれば……?」
「……そこに座ってください」
私はベッドの縁を叩いた。
フィーがおずおずと座ると、私はその背後に回り込み、彼女の身体を優しく抱きしめるようにして、膝の上に乗せた。
「……ぁ。……。……シエル、様……?」
「……店主の命令です。……力を抜いて。……。……さぁ、耳をお貸しください」
私は、昼間よりもさらに念入りに準備した「至高の癒やしセット」を取り出した。 「……一日の終わりには、すべての不浄を排出しなければなりません。……特に、獣族の貴女にとって、耳のケアは精神の調律と同じなのです」
私は彼女の大きな、柔らかな耳を優しく手にとった。
……あぁ、この指先に伝わる産毛の感触。しっとりとしていて、それでいて繊細。 私は自作の、先端に最上級の雲羊の綿毛をあしらった耳かきを差し入れた。
「……っ……。……あ、……ぅ……。……んん……」
カサリ、と鼓膜を揺らす心地よい音。耳の中の急所に触れるたびに、フィーの身体がビクンと小さく跳ねる。
「……痛いですか?」
「……ん、……ううん……。……気持ちよすぎて……、頭の中が、真っ白に……なっちゃう……」
彼女の尻尾が、ベッドの上で力なく横たわり、先の方だけを小さくピクピクと動かしている。
私は耳かきを終えると、次は指先で、耳の付け根のツボをじっくりと揉み解していった。
「……フィー。……貴女が今日、花瓶を割ってしまった時。……。……悲しかったのは、花瓶が壊れたことではなく、貴女が傷ついたことです」
「……。……。……」
「……失敗したら、次はどうすればいいかを考えればいい。……私は、貴女が完璧な従業員でいることなんて望んでいません。……一生懸命に廊下を磨いて、……トントンと楽しそうに料理をしている、……そんな貴女が、この宿には必要なのです」
私の言葉を聞きながら、フィーの目から再び涙が零れ落ちた。けれど今度は、それは絶望の涙ではなく、凍てついた心が溶け出す、温かな涙だった。
「……シエル……。……あたし、……頑張る。……もっと、もっと……あんたの隣にいて恥ずかしくないように……頑張るから……っ!」
「……はい。……。……でも、夜だけは、頑張るのをお休みしてください」
私は耳かきを置き、彼女を後ろからぎゅーーっと抱きしめた。
……あぁ。……これだ。
この、獣族特有の「もふもふ感」。
私は彼女の首筋に顔を埋め、大きく息を吸い込んだ。
お日様のような、清潔な獣の香り。
前世の社畜時代には決して得られなかった、命の充足感がそこにはあった。
ぎゅっ。ぎゅっ。ぎゅっ。
一定のリズムで力を入れては抜いてを繰り返す。もふもふ確認作業。
「……あ、あの……シエル……? ……ちょっと、抱きしめる力が……強いかも……」
「……。……気のせいです。……これは『生命エネルギーの交換』という、極めて高度な従業員研修の一環です」
私は平然とそれっぽいことを言い放ち、さらに腕に力を込めた。
ぎゅっ。ぎゅっ。ぎゅぅぅっ!!
彼女の細い腰、柔らかなお腹、そして何より背中で存在感を主張する立派な尻尾。
私は我慢できず、その尻尾を両手で抱え込み、頬ずりを始めた。
「ひゃいっ!? ……あ、そこ、……敏感なところっ……。……ぁあ、……ダメ、……シエルぅ……!」
フィーが顔を真っ赤にして悶えるが、私の「もふもふセンサー」は、もはやフル稼働状態で止まらない。
前世で失われたすべての潤いが、今、この瞬間、フィーのもふもふによって補完されていく。
「……もふもふは……世界を救います」
「……なんの……っ、宗教なの、それ……っ。……あぁ、でも……」
フィーは私の強引な愛情表現に困惑しながらも、次第にその力強い抱擁の中に、絶対的な「安全」を感じ取ったのか。彼女は自分からも、私の小さな背中に腕を回し、ぎゅっと抱きしめ返してきた。
「……。……。……。……ありがとう、シエル。……。……大好き……」
暗い夜の底で、小さな二つの魂が、互いの体温を確かめ合うように重なる。失敗も、悲しみも、すべてはこの柔らかい毛並みの中に溶けて消えていく。
――けれど、夜はまだ始まったばかり。添い寝という名の、さらなる「もふもふ研修」が二人を待っていた。




