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第54話:『新人研修』。

眩い朝の光が、宿屋『木漏れ日』の磨き上げられた廊下を黄金色に染め上げていく。かつて私一人だけがいた静かな朝は、今、微かな衣擦れの音と、たどたどしくも懸命な足音によって、新しい彩りを得ていた。


「……え、ええと……。まずは右から拭いて、左に戻して……。……あ、でもシエル様は『円を描くように』って……。……うう、難しいよぉ……」


廊下の角から聞こえてくる、可愛らしい独り言。私はそっと影から覗き込み、思わず口角が緩むのを禁じ得なかった。


そこにいたのは、数日前まで橋の下で絶望の淵に沈んでいたはずの少女――フィーだ。彼女は今、私がかつて「万が一、再び従業員を雇うことになったら」と前世のメイド喫茶の制服を参考にデザインしておいた、特製のメイド服に身を包んでいる。


深い紺色の生地に、雪のように白いエプロン。まだ少しだけサイズの大きい服が、彼女の華奢な身体を包み、動くたびにフリルがふわふわと揺れる。


そして何より、その制服の隙間から飛び出した、獣族特有の大きな耳と、ふさふさとした立派な尻尾。


それらが彼女の感情に合わせて、ぴこぴこと、あるいはぶんぶんと揺れる様は、前世で「疲れた現代人」を自称していた私にとって、いかなる高級サプリメントよりも高い癒やし効果をもたらしていた。


「……おはようございます、フィー。……朝早くから、熱心ですね」


「ひゃいっ!? ……あ、お、おはようございますっ、シエル……様っ!」


声をかけると、フィーは驚いたように跳ね上がり、手に持っていた雑巾を落としそうになった。


彼女は慌てて姿勢を正し、私が教えた通りの「従業員としての礼」を試みる。


……けれど、慣れないスカートの裾を掴もうとして指が滑り、さらには尻尾が足に絡まりそうになって、おっとっと、と不格好にたたらを踏む。


「……ぷっ、……ふふ。……フィー、無理に型に嵌らなくても大丈夫ですよ。……ここは、厳しい宮廷ではありませんから」


「……うう。……だって、あたし、シエルの役に立ちたいんだもん。……あんなに良くしてもらったのに、ただの『居候』なんて絶対に嫌だわ!」


フィーは頬を赤く染め、垂れ下がった耳を不満げにぴくぴくと動かした。


没落したとはいえ、彼女の根底にあるのは気高いルナリス家の誇り。


「与えられるだけ」の存在でいることに、彼女の自尊心が耐えられないのだ。その健気さが、私の「もふもふ愛」……もとい、宿主としての保護欲を激しく刺激する。


「……その意気込みは素晴らしいですね。……では、今日の最初のお仕事――朝食の準備を一緒にしましょうか。……一流の従業員は、お客様の胃袋を掴むところから始まります」


「はいっ! ……頑張るわ、あたし!」


拳を握りしめ、尻尾を勢いよく振るフィー。


……あぁ、あのアニメーションのような尻尾の動き。……触りたい。……抱きしめたい。


前世の私は、激務の合間に動画サイトで動物の動画を見て、細々と正気を保っていた。そんな私にとって、目の前に「意思疎通が可能で、しかも最高に可愛いもふもふ美少女」がいるという現状は、ある種の天国に近い。


キッチンに向かい、私は彼女に「朝のスープ」の作り方を教えることにした。


「……いいですか、フィー。料理は化学であり、愛情です。……野菜を切る時は、食べる人の笑顔を想像しながら、リズム良く。……トントン、トントン、ですよ」


私は手本として、一本の人参を光速の早切りで処理していく。


前世の社畜時代、三分で食事を済ませるために培った超人的な包丁さばきに、フィーは「……すごぉい」と目を丸くして見入っていた。


「……さぁ、やってみてください。……。……あ、包丁は根元をしっかり握って……」


「……ト、トントン……。……ト、トン……。……ひゃっ!?」


不慣れな包丁に、指を切りそうになるフィー。私は背後から彼女を包み込むようにして、その小さな手を握り、一緒に包丁を動かした。


「……シ、シエル……? ……近い、近いよぉ……」


「……集中してください。……ほら、こうして引くように切るんです。……トントン、トントン……。……いいリズムですね」


私の身体に、フィーの柔らかな背中が密着する。彼女の体温と、獣族特有の甘い獣香が鼻先を掠める。


……あぁ、これです。この密着感。彼女が困惑して耳をパタパタさせるたびに、その毛先が私の頬をくすぐる。


天国。間違いなく、ここは地上に現れた聖域だ。


一通り調理を終え、次は「接客」の練習に移る。現在は稼働率10%。客はいないが、いざという時のために、フィーには完璧な所作を身につけてもらわなければならない。


「……フィー、お客様がいらっしゃったと仮定して、挨拶をしてみましょう。……はい、お客様役の私が入ってきましたよ」


私は一度キッチンの外に出て、ガラリと扉を開けて入ってくる。


「……あ、……いらっしゃいませっ! ……ええと、……お茶にしますか? それとも、あたしと寝ますか……っ!? ……あわわ、違う! 違うのっ!!」


「……フィー、どこでそんな怪しい接客を覚えたのですか?」


「……うう。……お父様の書斎にあった本に、そんなことが書いてあった気がして……」


「……その本は、後で没収して、宿の暖炉の薪にしましょう」


私は溜息をつきながらも、必死に赤面して弁解するフィーが愛おしくてたまらなかった。


没落令嬢としての教育は受けていても、「一般の宿屋での振る舞い」というものは、彼女にとって未知の領域なのだ。


その後も、シーツの畳み方、窓の磨き方、そして「お客様が発狂(前世基準のモンスター客)された時の対処法」などを、私は熱心にレクチャーした。


フィーは、手帳(これも私がプレゼントした、革表紙の高級品だ)に、びっしりとメモを取っている。


慣れない言葉遣いや、初めて触る掃除道具に翻弄されながらも、彼女は一度も「嫌だ」とは言わなかった。


むしろ、私が教えるたびに、彼女の垂れていた耳は少しずつ持ち上がり、その瞳には「自分も誰かの役に立てる」という、小さな、けれど確かな自信が宿り始めていた。


……けれど、そんな彼女の頑張りが、思わぬ「失敗」を招くことになる。


昼下がり。私が裏庭で薬草の整理をしていた時のことだった。


――ガッ、シャァァァンッ!!


宿のメインホールから、心臓を鷲掴みにされるような、激しい破壊音が響き渡った。


「……!? ……フィー!?」


私は慌てて宿の中へと駆け込んだ。そこで私が見たのは――。


床に飛び散った、青い陶器の破片。それは、この宿の開業時に、私がなけなしの貯金を叩いて購入した、帝国最高峰の陶芸家による一点物の大花瓶だった。


そしてその破片の中心で。フィーが、呆然と立ち尽くしていた。


彼女の手は小刻みに震え、せっかくのメイド服は、花瓶に入っていた水で無残に濡れ、肌に張り付いている。


「……あ。……あ、ああ……。……シエル……。……あたし、……あたし……っ!!」


彼女の声は震え、今にも消え入ってしまいそうだった。せっかく持ち上がり始めていた耳は、絶望の色を帯びて、これ以上ないほどぺしゃりと伏せられていた。



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