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第53話:『あの日』の出来事。

寝室を支配していたのは、鉄の匂いと、喉を掻き切るような悲鳴だった。


私の腕の中で、少女は震えていた。


先ほどまでの安らかな寝顔はどこにもなく、その瞳は恐怖と自責で、今にも壊れてしまいそうなほど激しく揺れている。


彼女の視線の先――そこには、彼女自身の爪によって切り刻まれ、どくどくと鮮血を流す私の肩と腕があった。


「……あ、……あぁ……っ! ……し、シエル……? ……あたし、……何を……」


彼女は、自分の爪に付着した、まだ温かい「私の血」を見て、顔を紙のように真っ白にさせた。


ガタガタと歯の根が合わないほどに震え、彼女は弾かれたように私から距離を取ろうと、ベッドの端へと這いずった。


「……ごめんなさい! ……ごめんなさい、ごめんなさいっ!! ……あたし、また……あたしのせいで、また誰かが……!!」


彼女は自分の頭を抱え、蹲った。その姿は、橋の下で見かけた時よりもさらに深く、暗い絶望の泥沼に沈んでいるように見えた。


「……あたしなんて、助けなきゃよかったんだわ! ……あたしは呪われてるの! ……あたしの側にいる人は、みんな、みんな死んじゃうのよっ!!」


泣き叫ぶ彼女の言葉。それは、彼女がどれほど残酷な「過去」を背負わされてきたのかを物語っていた。


私は、痛む身体を無理やり動かし、ゆっくりと彼女へと近づいた。傷口が開き、シーツに新たな赤の斑紋が広がる。けれど、今の私にとって、自分の肉体の損傷など、お客様の「心の傷」に比べれば些末な問題だ。


「…………」


私は無言で、彼女の細い肩に手を置いた。彼女はビクッと身体を強張らせ、拒絶するように私を突き飛ばそうとしたが、私はそれを許さず、傷だらけの腕で、彼女を力いっぱい抱きしめた。


「……っ、離して!」


「……いいえ。……離しません」


私は彼女の耳元で、静かに、けれど揺るぎない確信を持って囁いた。


「……怖い夢でも、見たのですか?」


私の問いかけに、彼女の動きが止まった。


「……な、……何を言ってるの……? ……あたし、あんたを殺しかけたのよ!? ……こんなに酷い怪我をさせて……! 怒ってよ、追い出してよ!!」


「……ふふ。……お客様の『寝相』が悪いくらいで、目くじらを立てる宿主はいませんよ。……それに、見てください。……私の傷は、もう塞がり始めています」


今の私は訳あって、普通の人間よりも少しだけ治癒力が高い。


前世で培った「不測の事態への即応力」はこの世界でも健在だ。血は止まり、深い裂傷も表面上は薄い傷へと変わっていく。


「……。……。……。……シエル……。……どうして……?」


「それが、私の仕事だからです。……さぁ、もう大丈夫ですよ。……貴女が何と戦っていたのか、……私に、少しだけ分けてくれませんか?」


私の包容力に、彼女の張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。彼女は私の胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣きじゃくった。


やがて、夜が白み始める頃。彼女は、掠れた声で、自らの忌まわしい記憶を語り始めた。


「……あたしは……。……王都の獣族の名家、ルナリス家の娘……」


語られたのは、あまりにも凄絶な「滅び」の物語だった。獣族の中でも高い地位にあり、帝国からも信頼されていたルナリス家。けれど、ある新月の夜、その栄華は唐突に終わりを告げた。


「……屋敷の門が、……紙みたいに簡単に破られたの。……衛兵も、お父様も、……誰も抗えなかった。……あいつは……、たった一人で……、屋敷にいた百人以上の人間を……、まるでお花を摘むみたいに、笑いながら殺していった……」


彼女の瞳に、その時の情景が反射しているかのように、鋭い恐怖が宿る。


「……暗闇の中で、……黒い旅装束を翻して……。……魔族の、女だった。……お母様が、あたしを隠し通路に押し込んで、最後に言ったの。……『生きなさい』って。……。……でも、そのすぐ後に、お母様の悲鳴が聞こえて……」


彼女は、自分の腕を強く抱いた。生き残ったのは、彼女一人。


名門の令嬢という身分を奪われ、家産を奪われ、追っ手から逃れるために、彼女はあの日から「死人」として橋の下に身を潜めていたのだ。


「……あたしが生きている限り、……あの黒い影が、また誰かを殺すかもしれない。……だから、あたしは独りで死ぬつもりだった。……それなのに、あんたが……っ」


彼女の語った「黒い旅装束の魔族」。


その描写を聞いた瞬間、私の脳裏を過ったのは、あの森で出会った、「お姉さん」の姿だった。


……けれど。私が知るあのお姉さんは、無意味な殺戮を楽しむような、そんな卑俗な存在には見えなかった。


これは、他人の空似か。それとも、私が知らない彼女の「別の顔」なのか。


私は、思考を一度脇に置いた。今、最も優先すべきは、目の前で震えている「お客様」のケアだ。


「……大変な思いを、されましたね」


私は彼女の涙を指で拭い、その大きな獣の耳を優しく撫でた。


「……もう、大丈夫ですよ。……あぁ、まだ、正式にお名前を聞いていませんでした」


少女は、私の瞳をじっと見つめ返し、意を決したように、その「禁忌」となった名前を口にした。


「……フィー。……フィー・ルナリス。……それが、あたしの本当の名前」


「……フィーさん、ですね。……素敵な名前です。……改めて、ようこそ、宿屋『木漏れ日』へ」


私は立ち上がり、彼女に向かって、完璧な礼法で頭を下げた。暗い部屋に月明かりが差し込む。一瞬だけ、私の瞳が赤い熱を帯びる。


「……今日から、ここが貴女の家です。……黒い影が追ってこようと、王都の軍勢が押し寄せようと。……お客様の安眠を守り抜くのが、この宿のモットーですから」


「……シエル……」


フィーの瞳に、絶望ではない、小さな希望の光が灯る。


「……宿代、出世払いでもいい? ……あたし、……あんたのために、……働きたい」


「……ふふ。……ちょうど、従業員が少なくて困っていたんです。……では、フィー。……今日から、貴女は私の大事なパートナーですよ」


外では、雨が上がり、雲の間から黄金色の朝日が差し込み始めていた。血まみれの部屋の中で、私たちは新しい「家族」としての契約を交わした。


没落した令嬢と、中身が社畜の店主。


この歪で、けれど温かな出会いが、長い旅路の、輝かしい第一歩となる。


……けれど、私はまだ気づいていなかった。


フィーの背後で蠢く、王都の闇。


そして、あのお姉さんが遺した「予言」が、果たされようとしているのかを。



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