第52話:嫌なことは『雨』に流しましょう。
豪雨の王都を背に、私は震える彼女を連れて、我が家である宿屋『木漏れ日』へと帰り着いた。
玄関を潜れば、そこは雨音さえも遠のく静謐な空間。魔法的な温度調節によって、常に春の陽だまりのような暖かさが保たれている。私は彼女の手を引いたまま、迷わず浴室へと向かった。
「……。……。……さて。……ここからは、プロの領域です」
私は彼女を脱衣所へ促し、ボロボロになった布切れ……もとい、服を優しく脱がせた。露わになった彼女の身体は、驚くほど痩せ細っていた。浮き出た肋骨、無数の擦り傷、そして何より、毛並みが泥と油で固まり、本来の輝きを完全に失っている。
「……し、シエル……。……あたし、こんなに汚いのに……。……いいの?」
「汚れを落とすために、お風呂はあるのです。……不潔は、宿主の最大の敵ですから。……さぁ、入ってください」
私は自分も袖をまくり、浴室の椅子に彼女を座らせた。
『木漏れ日』の自慢は、なんといってもこの大浴場。壁には癒やしの魔力が込められた魔石が埋め込まれ、お湯は常に浄化され、肌を刺さない柔らかな硬度に調整されている。
私は、前世の知識を活かして自作した特製のシャンプーを手に取った。数種類の薬草と、最高級の油脂を配合し、洗浄力と保湿を極限まで高めた逸品だ。
「……まずは、その固まった殻を脱ぎ捨てましょう」
たっぷりとお湯を使い、丁寧に泥をふやかしていく。指先で毛並みの絡まりを一つずつ解き、泡立てたシャンプーを、彼女の耳の付け根から尻尾の先まで、隅々まで行き渡らせる。
「ふ、ふにゃぁ……。……いい匂い。……お花……? ……ううん、もっと優しい……」
「リラックスしてください。……。……。……いいですか、髪や毛並みというのは、その人の心のバロメーターです。ここを整えれば、心も少しずつ前を向くものですよ」
私は職人のような手つきで、彼女の汚れを徹底的に洗い流した。最初は怯えていた彼女も、次第にお湯の温かさと私の指の動きに身を委ね、最後には蕩けたような顔で「ひゃっ……」と声を漏らしていた。
風呂上がり。私は彼女をふかふかのタオルで包み込み、食堂へと案内した。ここからは、内側からのケアだ。
「……お待ちかねの、お食事です」
テーブルに並べたのは、牛骨と香味野菜を3日間じっくり煮込み、余分な脂を丁寧に取り除いた黄金色のコンソメスープ。そして、表面はカリッと、中は雲のように柔らかい自家製酵母のパン。
「……食べて。……いいの?」
「ええ。……冷めないうちにどうぞ」
彼女は、震える手でスプーンを握り、スープを一すすりした。その瞬間、彼女の瞳が大きく見開かれた。
「……。……。……美味しい。……美味しいよ、シエル……っ!」
飢餓に苦しんでいた身体に、栄養が染み込んでいく。彼女は一心不乱にスープを啜り、パンを頬張った。
その食べ方には、どこか名残惜しそうな上品さが混じっている。単なる浮浪児ではないという私の直感は、この時、確信に変わった。
食事が終わり、彼女の頬に微かな赤みが戻ってきた頃。私は彼女を、私の私室へと招き入れた。稼働率10%の今だからこそできる、店主による「過剰な特別待遇」だ。
「……さて、仕上げです。……こちらへ」
私はベッドに腰掛け、自分の太ももをポンポンと叩いた。
「……膝枕……? ……ど、どうして……?」
「サービスです。……眠る前に、一日の疲れを完全にリセットしましょう」
戸惑いながらも、彼女は私の膝に頭を預けた。私は、自作の耳かき――先端に柔らかな鳥の羽をあしらったものを手に取った。
「……耳をお貸しください。……獣族の方は、聴覚が鋭い分、ストレスも溜まりやすいですから」
耳かきを優しく差し入れる。カサリ、という心地よい音。彼女の大きな耳が、ぴくりと跳ねる。
「……ぁ、……あぁ……っ。……。……そこ、……すごく、いい……」
「リラックスしてください。……。……深呼吸をして、……今日の嫌なことは、すべてこの雨に流してしまいましょう」
耳かきの次は、ヘッドマッサージだ。指の腹で頭皮を優しく解き、髪を梳く。前世のドライヘッドスパの技術と、この世界の「鎮静の魔法」を僅かに混ぜた私の秘技。彼女の呼吸が、次第に深く、一定のリズムになっていく。
私はそのまま彼女をベッドへ横たえ、私もその隣に潜り込んだ。
「……独りで眠るのは、まだ怖いでしょう? ……今日は、私が守りますから」
私は彼女の細い背中を、トントンと優しく叩き続けた。
社畜時代、不眠症に悩む部下たちを数多く救ってきた、究極の安眠リズム。
「……。……。……シエル……。……あたし、……こんなに幸せで、……いいのかな……」
「ええ。……幸せになることに、許可はいりませんよ」
彼女は、私の腕の中で、穏やかな寝息を立て始めた。幸せに包まれた、泥の中の眠りとは違う、本当の安息。
……けれど、運命はまだ、彼女を許さなかった。
深夜。時計の針が2時を回った頃。腕の中にいた彼女の身体が、突如として鋼のように硬直した。
「……。……。……う、……うぅ……っ!!」
唸り声。それは、喉の奥から絞り出されたような、獣の威嚇。
「……嫌、……やめて! ……お父様! お母様っ!! ……殺さないでっ!!」
「……っ、……悪夢ですか!?」
私が彼女を起こそうとした、その瞬間だった。
――ザシュッ!!
「……ぁぐ、……っ……!!」
鋭い衝撃が、私の肩を貫いた。続いて、腕、胸元、そして頬。
彼女の指先から伸びた鋭利な「獣爪」が、無意識の暴走によって、私の肉を無慈悲に切り裂いていく。
暗闇の中で、鮮血が飛び散り、清潔だったシーツが瞬く間に赤黒く染まっていく。
凄まじい痛み。肉を削がれ、骨を削るような衝撃。前世でさえ経験したことのないほどの物理的な破壊。
普通なら、突き飛ばして逃げる場面だろう。あるいは、防御魔術で彼女を弾き飛ばしてもおかしくはない。
けれど、私は彼女を、さらに強く抱きしめた。
「……大丈夫。……大丈夫ですよ。……私は、ここにいます」
「……殺してやる! ……お前ら、……みんな殺してやるぅっ!!」
彼女の爪が、さらに私の背中を深く切り裂く。温かい血が、彼女の腕を濡らしていく。その温もりを、彼女はどう感じただろうか。
数分間。血まみれになりながら、私は彼女を抱きしめ、あやし続けた。やがて、彼女の動きが止まった。大きく見開かれたその瞳が、虚空を彷徨い、最後には私の「血に濡れた顔」へと固定された。
「……あ、……ぁ……。……ぁ……っ!!」
意識を取り戻した彼女の絶叫が、真夜中の宿屋に響き渡った。




