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第51話:新たな『出会い』。

あれから、数年の月日が流れた。


私が帝国のはずれ、街道の要所に念願の宿屋『木漏れ日』を構えてから、季節は何度目かの巡りを見せている。


前世の社畜時代、満員電車に揺られながら夢想していた「理想の隠居生活」は、この異世界という舞台で、意外なほど形になっていた。


宿の建物自体は、私のこだわりが詰まった最高傑作だ。前世の近代的な建築知識と、この世界の便利な魔法技術をハイブリッドさせた構造。廊下の一枚板は、鏡のように磨き上げられ、私のパジャマ姿を容赦なく反射する。寝具のリネンは、太陽の匂いと魔法的な乾燥技術によって、常に新品のようなふかふかさを保っている。


……けれど、そんな私の「夢の城」の現状はと言えば。


「……本日も、宿泊客はゼロ。予約は一週間後の一件のみ。稼働率は……誤差を抜けば実質10%といったところですね」


私は、手に持った愛用の雑巾をバケツに投げ入れ、大きく溜息をついた。


広い。広すぎるのだ。


かつては、あの騎士や、魔術師、そして毒舌な竜の姫といった、騒がしくも愉快な面々がこの廊下を賑わせていた。けれど、今は訳あって、私一人。


一応、シエルという立派な店主としての名はあるが、鏡に映る姿は相変わらず「中学生、あるいは小学校の高学年」程度の体型。数年経っても横への発育ばかりが気になり、縦への伸びは完全に停滞している。


「以前より感情は豊かになった気がしますが、一人で廊下にツッコミを入れるのは、少々虚しいものがありますね」


私は、かつての「過労死」した社畜時代を思い出す。あの頃に比べれば、今の私は、寂しさを寂しさとして感じ、暇を暇として愉しめる。それは一つの幸福なのかもしれない。


しかし、宿屋の経営者としては、この閑古鳥をどうにかしなければならない。私は気分転換を兼ね、王都への食材の買い出しへ向かうことにした。これが、運命の歯車が再び回り出すきっかけになるとも知らずに。


王都までの道のりは、徒歩と乗り合い馬車を継いで数時間。市場での交渉は、前世の営業スキルを活かして、強欲な商人たちから最高級の野菜を安値で叩き落とすことに成功した。収穫は上々。


……だったのだが、帰路につこうとした私の行く手を、不機嫌な空が遮った。


ポツリ、と額に冷たいものが落ちたかと思えば、一気に視界が白く煙るほどの豪雨が降り始めた。


「……あちゃぁ。これは『土砂降り』なんて生易しい言葉では足りませんね。前世なら確実に交通機関が麻痺するレベルです」


私は傘を広げ、ぬかるむ道を急いだ。雨音は激しく、周囲の音をすべて掻き消していく。王都の街外れにある巨大な石橋の下に差し掛かった時、私はふと、視界の隅に映った「汚れ」のようなものに足を止めた。


最初は、捨てられたボロ布の塊だと思った。けれど、その塊には、小さな「命」の灯火が、今にも消えそうな揺らぎを持って宿っていた。


石橋の巨大な柱の陰。泥水が跳ね、冷たい風が吹き抜けるその場所に、彼女はいた。  ボロボロに引き裂かれ、もはや服としての機能を成していない布を纏った、獣族の少女。彼女の耳は力なく垂れ、その腕の中には、すでに動かなくなった一匹の小さな子猫が抱かれていた。


「…………。…………」


少女は、私の接近にすら気づかない。その瞳は、焦点の合わないガラス玉のように虚ろで、雨に濡れた頬には、涙なのか雨水なのか判別のつかない雫が絶え間なく伝っている。


「……私も。……こうやって、死ぬのかな」


震える唇から漏れたのは、祈りでも呪いでもない、ただの淡々とした「予感」。


「……独りで。……この子みたいに、誰にも知られず、泥の中で……」


その言葉は、絶望という名の深淵よりも深く、冷たかった。


前世で、過労死の寸前、私も同じようなことを思ったことがある。このまま誰にも気づかれず、山積みの書類の中で、私の人生は一つの「記号」として処理されるのだろうか。そんな乾いた虚無感が、彼女の周囲には渦巻いていた。


私は、無言で歩み寄った。泥を跳ね上げ、少女の隣で足を止める。


そして、自分の肩や食材の袋がずぶ濡れになるのも構わず、持っていた大きな傘を傾け、彼女と、彼女が抱く小さな骸を、まるごと包み込むように差し出した。


「……っ!?」


少女が、弾かれたように顔を上げた。泥だらけの顔の中で、獣特有の大きな瞳が私を射抜く。


驚愕。警戒。そして、何より「なぜ」という拒絶の色。


私は何も言わなかった。


彼女の境遇を憐れむ言葉も、大丈夫だという無責任な励ましも、今の彼女には猛毒でしかない。ただ、この冷たい雨が彼女をこれ以上叩かないように、私は傘の柄を強く握りしめた。


激しい雨音だけが、橋の下に反響する。


5分、10分……。少女は、私を睨みつけるように見上げていたが、私が一向に動かず、微動だにせず傘を差し続ける姿を見て、次第に戸惑いへと表情を変えていった。


私の右肩はすでに冷たい雨に打たれ、服が肌に張り付いて体温を奪っていく。


けれど、私は彼女を見捨てない。前世で培った「顧客対応の忍耐力」は、こんな時にこそ真価を発揮するのだ。


30分が経過した。少女の細い肩が、寒さと緊張でガタガタと震え始める。私は無言で、自分の上着を脱ぎ、彼女の肩にふわっと掛けた。


「……っ、いらない……! ……ほっといてよ!」


彼女は鋭い声で拒絶したが、私は無視して、さらに一歩距離を詰めた。


1時間が過ぎた。雨の勢いは衰えず、私の体温は限界近くまで下がっていたが、私の心は不思議と穏やかだった。


ただ、隣にいる。「貴女はまだ、独りではない」という事実を、身体を張って証明し続ける。


やがて、少女の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。それは雨よりも激しく、彼女の顔の汚れを洗い流していく。


「……あ、……あぁぁぁ……っ!!」


彼女は私の足元に崩れ落ち、私の服を掴んで、獣のような慟哭を上げた。私は空いた方の手で、彼女の泥まみれの頭を、ゆっくりと、何度も何度も撫でた。


「……1時間ほど、客引きをしてみましたが……。……なかなか、手厳しい反応ですね」


私の静かな声に、少女が涙で濡れた顔を上げた。


「……は、……え……?」


「私は、宿屋の店主をしておりまして。……あいにく、今は客が来なくて、経営が危機的状況なんです。……もしよろしければ、貴女、うちの宿に来ませんか?」


「……無理、だよ。……お金なんて、一銭も持ってない。……あたしは、ただの……」


「……あら。……おかしいですね」


私は彼女のボロボロのポケットを、指差した。そこには、一枚の純金貨が光っていた。


「……え!? ……なに、これ……!?」


「きっと、雨の神様からの贈り物ですよ。……。……さぁ、行きましょう。……美味しいスープと、温かいお風呂が、私の宿で貴女の到着を待っています」


私は、震える彼女の手を、力強く握りしめた。それは、冷たくて、けれど確かに温かな、新しい縁の始まりだった。



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