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第50話:【第1部 完結】『シエル』。【第2部 続】

私の2度目の人生は、とても静かな産声と共に始まった。


深い森に囲まれた、帝国の辺境にある小さな村。そこで私は、ごく普通の村人の娘として生を受けた。


けれど、私の頭の中には、生まれた瞬間から「別の世界」の記憶が、鮮明な映像と知識として焼き付いていた。


前世の私は、どこにでもいる「社畜」だった。


夜を徹して働き、他人の機嫌を伺い、自分の心と身体が悲鳴を上げていることにすら気づかないふりをして、最後は職場のデスクの上で力尽きた。いわゆる「過労死」というやつだ。


だから、赤ん坊としてこの世界に降り立った時、私が最初に思ったのは「ああ、もう働かなくていいんだ」という、あまりにも切実な安堵だった。


私は、泣かない子供だった。


お腹が空けば静かに服の袖を引っ張り、オムツが汚れれば申し訳なさそうに視線で訴える。3歳になる頃には、村の広場で難しい顔をして「人生の再設計」について考え込んでいた。


「……シエル、今日も難しい顔をして。どうしたの? お花は好きじゃない?」


お母様が、心配そうに私を覗き込む。


私の両親は、この上なく善人だった。


お父様は力持ちで不器用だけれど、私が何かを教えれば「シエルは天才だ!」と涙を流して喜び、お母様は私が幼女らしからぬ行動をとっても、それを「個性」として優しく見守ってくれた。


……でも、流石に隠し通すのは限界だった。


5歳になったある日。私は家の食卓で、お父様とお母様を前に正座して、意を決して切り出した。


「お父様、お母様。……大切なお話があります」


「な、なんだい、シエル。そんなに真剣な顔をして……。また新しい農具の設計図でも描いたのかい?」


「いえ、……私の、中身のお話です」


私は、自分が別の世界で大人として生きていたこと。


そこでは魔法なんてなくて、代わりに鉄の箱が走り、人々は四角い箱に向かって一日中指を動かしていたこと。


そして、私は働きすぎて死んでしまったことを、たどたどしい言葉で、けれど一言ずつ丁寧に説明した。


話し終えた後、家の中には長い沈黙が流れた。


普通なら、気味が悪いと言われるか、あるいは頭がおかしくなったと神官の元へ連れて行かれるだろう。私は最悪の事態を覚悟して、ギュッと目を閉じた。


……けれど、私を包み込んだのは、温かくて大きな二つの手だった。


「……辛かったんだね、シエル」


お母様が、私を抱きしめて泣いていた。お父様も、太い腕で私の頭を撫で回しながら、鼻をすすっている。


「前世の君がどんなに苦しかったか、お父さんたちには想像もつかない。……でも、一つだけ言わせてくれ。……シエル、この世界に、俺たちの子として生まれてきてくれて、本当にありがとう。君が誰であろうと、中身が何歳であろうと、君は俺たちの自慢の娘だ」


「そうよ。2度目の人生なんですもの。……シエル、今度は好きなように生きなさい。もう、誰かのために無理をして死ぬようなことは、絶対にさせないわ」


私の鼻の奥が、ツンと痛くなった。


前世の私は、誰かに「生きていていい」と言われたことがあっただろうか。


期待に応え、成果を出し、役に立つことでしか、自分の存在価値を見出せなかった。


けれど、この二人は、私の「役に立つ天才性」ではなく、ただの「私」を、丸ごと受け入れてくれた。


(……ああ。……。……私、今度こそ、間違えないように生きよう)


それからの日々は、穏やかで輝かしいものだった。


私は両親の手伝いをしながら、前世で培った「効率的な家事」や「整理整頓の技術」を駆使して、家の中を居心地の良い空間に整えた。


いつか、この恩返しとして、誰もが両親のように心から寛げる場所を作りたい。


そんな小さな夢が、私の胸の中で芽生え始めていた。


そんなある日のことだった。


私は薬草を摘みに、村の外れの古い神殿の跡地へと足を運んだ。そこで見つけたのは、見たこともないような「黒い毛並みの獣」だった。


大きさは子犬ほど。けれど、その背中には小さな翼が生え、額には小さな角がある。  明らかに普通の野生動物ではない。魔物、と呼ばれる存在。


その獣は、後ろ足に深い傷を負い、力なく倒れていた。


「……痛そうですね。……少し、我慢してください」


私は怖くなかった。


前世で何千人という気難しい顧客を相手にしてきた私からすれば、傷ついた動物なんて、ただの「困っているお客様」と同じだ。


私は清潔な布を取り出し、前世の知識で調合した消毒液を塗り、丁寧に包帯を巻いてあげた。


「キュゥ……」


獣は、警戒心を解いたように私の指をペロリと舐めた。


……けれど、次の瞬間だった。


獣の瞳が、ふいにどす黒く光った。


怪我の痛みで理性を失ったのか、あるいは魔物としての本能が目覚めたのか。小さな牙を剥き出しにし、私の喉元に飛びかかろうとした。


「っ……!」


避ける時間はなかった。だが、その牙が私の肌に届くよりも早く。


――ピキッ。


周囲の空気が、一瞬で凍りついた。物理的な温度ではない。精神を凍結させるような、圧倒的な「格」の違いによる威圧感。


襲いかかろうとしていた獣は、見えない重圧に押し潰されるように地面に伏せ、ガタガタと震え出した。


その人は、ただそこに立っているだけで、周囲の風景を塗り替えてしまうような存在だった。


私が手当てをしていた黒い獣――魔獣は、お姉さんの姿を見た瞬間、先ほどまでの凶暴性が嘘のように消え失せ、地面に這いつくばって震えている。それは恐怖というより、絶対的な上位者に対する、本能的な服従の姿勢に見えた。


私は、お姉さんをじっと見つめた。


この世のものとは思えないほど整った容姿。夜の闇を跳ね除けるような銀色の髪。村では一生かかっても見ることのできないような、洗練された黒い旅装束。


そして、何よりも目を引くのは、その圧倒的なまでのスタイルの良さだ。村の女性たちとは根本的に骨格のつくりが違うのではないかと疑うほど、その立ち姿は洗練されており、どこか浮世離れした美しさを放っている。


「……あ。……。……こんにちは、旅人さん」


私は、自分が5歳の幼女であることを思い出し、努めて可愛らしく挨拶をした。中身が社畜の私からすれば、どんなに威圧的な人物が現れようと、まずは挨拶から。それが「接客」の基本だ。


お姉さんは、私の言葉を聞いて、少しだけ意外そうに眉を動かした。その瞳が私を射抜く。すべてを見透かし、魂の深淵まで覗き込むような、深紅の輝き。普通の子供なら、この視線だけで腰を抜かして泣き出すだろう。


「……旅人さんが、助けてくれたのでしょう? ……ありがとうございます。……この子は、お姉さんのお友達ですか?」


私は、震える魔獣を指差した。お姉さんは、短く一度だけ頷いた。


やはり、多くは語らない人らしい。私は「なるほど」と納得し、手当てのために広げていた道具を片付け始めた。そして、包帯を巻いた魔獣の背中を、優しくポンポンと叩いた。


「……お姉さんが迎えに来てくれて、よかったですね。……もう、勝手に飛び出しちゃダメですよ。……さぁ、お帰りなさい」


魔獣は、私に一度だけ感謝するように鼻を鳴らすと、逃げるようにお姉さんの足元へと駆け寄った。お姉さんは、その獣を冷淡に、けれどどこか慈しむような一瞥をくれると、再び私の方へ向き直った。


お姉さんの視線が、私の手に止まる。前世の知識を活かして自作した、薬草の練り香と清潔な布。


私は、お姉さんの旅装束の裾に、魔獣を追いかけてきた時についたのであろう泥の汚れを見つけた。


普通の幼女なら気にしないだろうが、元・社畜の私の目は誤魔化せない。


「……旅人さん、少し失礼しますね」


私はお姉さんの前にトコトコと歩み寄り、自作のハーブ水を染み込ませた布を取り出した。


「……。……?」


お姉さんは、私が何をしようとしているのか測りかねている様子で、ただ沈黙して私を見下ろしている。


私はお姉さんの足元にしゃがみ込み、その美しい黒い布地にこびりついた汚れを、丁寧に、けれど素早く拭き取っていった。


「……綺麗な服が汚れていると、……心が落ち着きませんから。……はい、これで大丈夫です」


私が顔を上げると、至近距離でお姉さんと目が合った。


お姉さんは、まるで見慣れない生き物を見るような、奇妙な好奇心が混じった瞳で私を見つめていた。


5歳の子供が、見ず知らずの、それも圧倒的な威圧感を放つ他人の汚れを、平然と拭う。その異常性に気づいているのだろう。


けれど、お姉さんは何も言わなかった。ただ、長い睫毛を伏せ、私の頭に、そっと掌を置いた。


その手は、驚くほど冷たかった。冬の夜の空気のように、ひんやりとしている。


けれど、その掌から伝わってくるのは、私の存在を肯定するような、静かで確かな温もりだった。


「…………」


お姉さんは、一度だけ、満足そうに口角を上げた。それは微笑みと呼ぶにはあまりに微かな変化だったけれど、私には分かった。


この人は、私のことを「認めて」くれたのだと。それが嬉しかった。


お姉さんはそれ以上、何も言わず、獣を連れて森の奥へと歩き出した。その歩調は優雅で、まるで空間そのものを滑っているかのようだった。


「……旅人さん! ……また、どこかでお会いできたら、……その時は、温かいお茶でも飲んでいってくださいね!」


私は、遠ざかる背中に向かって、精一杯の声をかけた。お姉さんは、足を止めることはなかった。


けれど、風に乗って、ほんの一瞬だけ、微かな声が届いたような気がした。


『…………ええ』


それが、幻聴だったのか、それとも本当に彼女が応えてくれたのかは、分からない。私は、お姉さんが消えていった森を、いつまでも眺めていた。


前世で疲れ果て、誰のことも信じられなくなっていた私。


けれど、この世界の両親に出会い、そして今日、あの不思議なお姉さんと出会ったことで、確信した。


この世界には、守るべき優しさも、報われるべき慈悲も、確かに存在している。


私は決めた。


いつか、お姉さんがまた旅をして、疲れ果てた時に。


あるいは、最強の騎士や、天才魔術師、我儘な竜の姫が、自分の居場所を見失った時に。


「おかえりなさい」と言って、彼女たちを迎え入れられる場所を作ろう。


誰もが、ただの「自分」に戻って、ぐっすりと眠れるような宿を。


5歳のシエルが抱いた、その小さな決意。それが、後に大陸最高の宿屋『木漏れ日』となる、すべての物語の始まりだった。



                                              第1部 完

                                              第2部 続

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