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第5話:店主は『最強の騎士』を仲間にした!▼


お腹に軟膏を塗布して、特有の冷感に慌てるアルテミスを横目に、私は部屋の隅に転がっている「それ」に視線を向けた。


泥と返り血、そして得体の知れない魔獣の体液にまみれた、銀のフルプレート。昨夜、私が彼女の体から「剥ぎ取った」ものだ。


一国の近衛騎士団に支給されるような最高級の業物だが、今は見る影もない。それは単なる汚れではなく、彼女が味わった「屈辱」そのものがこびりついているように見えた。


「……シエル、それはもう捨ててくれ。あんな男に指揮され、最後列で泥を舐めた証なんて、見ているだけで吐き気がするんだ」


アルテミスが、苦々しく吐き捨てた。


彼女の怒りは、勇者への個人的な感情ではない。プロとしての、あまりに真っ当な憤りだ。


話を聞けば聞くほど、その勇者の采配は、前世の「無能なプロジェクトマネージャー」を彷彿とさせた。


彼は初任務だというのに、アルテミスの「盾」としての能力を過信……いや、軽視していた。


本来、最前線で敵のヘイトを稼ぐべき彼女を、自分の恋人である聖女を「個人的に」守らせるためだけに、最後列へ配置したのだ。


結果、正面と側面から敵を殲滅するはずの矛……魔術師との連携は崩壊。背後から奇襲を受けた際、アルテミスはたった一人で、支援も補給もないまま、その「無能な布陣」の穴を埋めるために戦い続けた。


「……聖女様を守れ、それがお前の仕事だ。勇者はそう言って、私を置き去りにした。……騎士にとって主を守るのは絶対だ。だが、あいつは私の『忠誠』を、ただの都合のいい防壁としてしか扱わなかった」


アルテミスの拳が、シーツを白くなるほど握りしめている。


彼女は聖女を憎んでいるわけではない。ただ、自分の命と誇りを、あまりに非効率で独りよがりな理由で使い潰されたことに耐えられないのだ。


「……ハズレ案件ですね、完全に」


私は無表情のまま、その泥だらけの鎧の前にしゃがみ込んだ。


「お客様。当宿において、不潔な備品の放置は許可されておりません。この鎧はまだ使用可能です。……『汚れ』が落ちないものなど、この世には存在しませんよ。たとえそれが、無能な上司につけられた泥であっても」


「な……何を……」


私は瞳を閉じ、脳内にあの「道具」を召喚する。


深夜、静まり返ったユーティリティルーム。手に馴染んだ、あの長方形の緑色の塊。


「生活魔法――『ウタマロ・あわあわストリーム☆』」


私の指先から、爆発的な勢いで「泡」が溢れ出した。それは通常の洗浄魔法のような、表面を撫でるだけの生易しいものではない。


きめ細やかで、弾力があり、ほんのりとハーブの香りが漂う「ウタマロの泡」が、銀の鎧の隙間、そして金属の結晶の奥深くにまで浸透していく。


「……っ!? なんだ、この魔法……。汚れが、吸い出されていく……?」


アルテミスが、ベッドから身を乗り出して目を見開いた。


私の指が鎧の表面を滑るたび、どす黒い泥が真っ白な泡に包まれ、消滅していく。


さらには、物理的な傷跡――勇者の無謀な突撃の余波でついた凹みや擦過傷までもが、魔法の泡の下で「あるべき形」へと復元されていった。


前世の私は、部下が真っ赤に炎上させたソースコードを、一晩かけて完璧なクリーンコードへ書き直したことが何度あっただろうか。


過去を責めてもバグは消えない。


重要なのは、修繕して再び「戦える状態」に戻すことだ。


「……ふぅ。これでよし」


私が指をパチンと鳴らすと、鎧を覆っていた泡が一気に霧散した。後に残ったのは、朝の光を乱反射し、部屋全体を照らすほどの輝きを放つ「純銀の防具」だった。


「……嘘。新品、いや、私がこれを受け取ったあの日よりも……輝いている」


アルテミスはふらふらとベッドを降り、吸い寄せられるように鎧に触れた。


そこにはもう、勇者がつけた不名誉な泥は一滴も残っていない。


「お客様。これで、あなたのキャリアに付いた『汚れ』は清算されました。……この鎧は、もう誰の使い捨ての駒でもありません。ただの、高品質な盾です」


私は無表情のまま、彼女の顔を見上げた。


鎧に映った自分の顔を見て、アルテミスは息を呑んだ。


そこには、絶望に打ちひしがれた「捨て駒」ではなく、磨き上げられた一人の騎士の姿があったからだ。


鎧が蘇ったことで、部屋の空気は一変した。


だが、その輝きが増せば増すほど、アルテミスの瞳の奥にある「影」が濃くなっていくのを、私は見逃さなかった。


物理的なメンテナンスは完了した。しかし、彼女というユニットには、まだ致命的な空虚が存在している。


「……綺麗だな。本当に、驚いたよ。……ありがとう、シエル。……でも」


アルテミスは、美しく蘇った籠手に指先で触れながら、ぽつりと零した。


「……騎士は、守るべき主がいて初めて、騎士なんだ。……今の私には、守るべき姫様(あるじ)がいない」


それは、誇り高いプロフェッショナルが陥る、アイデンティティの喪失だった。


彼女にとって、勇者はもはやどうでもいい存在だ。しかし、「聖女を守る」という大義名分を、あのような形で踏みにじられ、強制的に解任された。


今の彼女は、高性能なOSを搭載しながら、主への忠誠という名の実行すべきメインプログラムを失ったサーバーのようなものだ。


「……あの勇者を名乗る男の元へ戻る気は、一ミリもない。……だが、守るべき対象を失った私の剣は、これからどこへ向ければいいんだ?」


アルテミスは再び、ベッドの端に腰を下ろしてうつむいた。


騎士としての教育を受け、誰かの盾になることだけを存在理由としてきた彼女にとって、自由という名の「不在」は、どんな拷問よりも残酷なのだろう。


……あー、なるほど。


前世でもいましたね。会社のためにすべてを捧げ、リストラされた途端に「何をすればいいかわからない」と言って、私のデスクの前で呆然としていた有能な中堅社員たちが。


「……お客様。……いえ、アルテミス様」


私はトレイを片手に、彼女の目の前に立った。


相変わらず私の声には抑揚がなく、表情は鉄板のように固い。


「守るべき主がいないことが問題なら、新しい『管理責任者』を登録すればいいだけの話です」


「……え?」


「当宿『木漏れ日』は、現在、深刻な人手不足に陥っています。特に、深夜の酔っ払い客や、無能な勇者が再び現れた際の『宿屋防衛』を担当するセキュリティ要員が、喉から手が出るほど欲しい」


アルテミスが、顔を上げて私を凝視した。


「……私が、あなたを泥の中から『拾い上げ、修繕した』のです。……ならば、あなたのこれからの運用権は、第一発見者である私が所有するのが合理的だと思いませんか?」


「それ……は、つまり……」


「お客様から、従業員へのランクアップの提案です。……当宿の備品として、私の指示に従い、私の宿を守る。……守るべき『姫様』がいないのなら、当面は私をその代わりにするというのはいかがでしょう?」


アルテミスの瞳に、戸惑いと、それ以上の「熱」が灯り始めた。


「君を……私が、守るのか? ……勇者のような命令ではなく、君の『管理』の下で?」


「はい。私は勇者ほど甘くありませんよ。業務規定は厳しいですし、リソースの無駄遣いは一切許しません。……ですが、あなたが二度と泥を舐めないことだけは、経営者として保証します」


アルテミスは、じっと私の顔を見つめた。


不感症で、冷徹で、仕事のことしか考えていない小柄な店主。


だが、その指先がもたらした「白さ」を、彼女は知っている。


「……ふっ、くくく……。ははははは!」


突然、アルテミスが声を上げて笑い出した。


それは騎士の礼儀を忘れた、一人の少女としての、晴れやかな笑い。


「……いいだろう。その契約、受けようじゃないか。……勇者のような素人の下で戦うより、君のような冷徹な『支配者』に使われる方が、よほど騎士冥利に尽きる」


彼女はベッドから降り、私の前で騎士の礼を取った。


はだけたシャツの間から、先ほどまでポリポリと掻いていた真っ白なお腹が見え隠れしているが、その瞳はもう、迷子の犬のそれではない。


「……我が剣と盾、これより宿屋『木漏れ日』の備品として、シエルに捧げる。……好きに私を使ってくれ、店主」


「はい。まずはそのだらしない部屋着を脱いで、顔を洗ってきてください。……業務開始は、朝食を完食してからです」


私は事務的に答え、部屋を後にした。


……やれやれ。これで一人目の「従業員」が確定しましたね。


廊下を歩きながら、私は少しだけ口角を上げた……つもりだったが、相変わらず鏡に映る自分の顔は無表情のままだった。


しかし、私の背後で、かつての最強騎士が「はいっ!」と元気よく返事をする声が響いた。


その声は、朝の宿屋に、新しい、そして少しだけ騒がしい日常の始まりを告げていた。




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