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第49話:『エルゼ』。

世界は、黄金色の光と、お母様の優しい匂いで満たされていた。


雲よりも高く、天を突くほどに聳え立つ竜族の聖域『天鱗宮』。そこが私の世界のすべてだった。


私は今、お母様の膝の上に頭を預け、夢心地の中にいる。竜族の女王として君臨し、その一睨みで嵐を鎮め、その一息で山を燃やすと言われる最強の竜――それが私のお母様。


でも、私にとっては、世界で一番温かくて、世界で一番甘い匂いのする、大好きなお母様だ。


「……ふふ、エルゼ。そんなに甘えて、将来お外に出た時に困ってしまうわよ?」


お母様が細く白い指先で、私の金色の髪を優しく梳いてくれる。私はお母様の腰にぎゅっと抱きつき、その柔らかい太ももに顔を埋めた。


「いいの! エルゼは一生、お母様の膝枕がいいんだもん。お外なんて行かない。ずっとここでお母様とデレデレして過ごすの!」


「まぁまぁ。竜族の王女がそんなことでどうするのかしら。……でも、そんな可愛いことを言ってくれるのは、今だけかもしれないわね。……いいわ、今日はお仕事もお休み。たっぷり可愛がってあげる」


お母様が私を抱き上げ、その広い胸の中に包み込んでくれる。お母様の鼓動がトクトクと伝わってくる。それはとても力強くて、この世のどんな暴力からも私を守ってくれる、絶対的な安心の鐘の音だった。


私はお母様の頬に何度も自分の頬を擦り寄せた。お母様は「くすぐったいわ」と笑いながら、私のおでこに優しく口づけを落としてくれる。


幸せだった。この時間が永遠に続くのだと、当時の私は信じて疑わなかった。


「……ねぇ、お母様。またあのお話をして? 下界にいる、お母様のライバルのお話」


私が尋ねると、お母様は少しだけ表情を凛とさせた。けれど、その瞳にはどこか懐かしむような色が宿っている。


「……魔王、ミアのことね」


魔王ミア。竜族が天を統べる者なら、彼女は地を統べる者。


「彼女はね、エルゼ。とても美しくて、そして……ひどく孤高な女性よ。誰にも媚びず、ただ独りで世界の理を背負って立っている。冷徹なようでいて、その奥底には誰よりも激しい情熱を秘めている……。私とは何度も刃を交えたけれど、あんなに手強い相手は他にはいなかったわ」


お母様が語る魔王の話は、まるで美しいお伽話のようだった。


孤高の魔王。いつか会ってみたいような、でも少し怖いような。


「でもね、エルゼ。これだけは忘れないで。……ママの方が、あの魔王よりも絶対に強いんだから! 次に戦ったら、今度こそママが彼女を泣かせてあげるんだから!」


「あはは! お母様ったら、また負けず嫌いが出てる。魔王様も大変だね」


「あら、本気よ? 竜族は世界で最も気高く、最強の種族なの。……そして、最強であるということは、弱き者を慈しみ、守る責任があるということ。エルゼ、貴女もいつか下界へ降りる時が来たら、ママの教えを忘れないでね。人間は弱くて、愚かで、けれど守ってあげるべき愛おしい存在なのよ」


「……うん、お母様。エルゼ、お母様みたいな優しくて強い竜になるね!」


私はお母様の首に抱きつき、何度も頷いた。


最強の力は、誰かを守るためにある。弱き者に慈悲を与え、正しく導くのが、高貴なる竜族の義務である。


お母様の膝の上で、私はその教えを聖典のように心に刻み込んだ。


……けれど、運命の日がやってきた。


「エルゼ。貴女ももう、立派な若龍。天鱗宮の中で甘えてばかりでは、真の強さは身につきません。……さぁ、下界へ降りて、修行してきなさい」


お母様の言葉は、優しくも厳格だった。私は泣いて嫌がったけれど、お母様は最後にもう一度だけ私を抱きしめると、私の背中をそっと押した。


「大丈夫よ、エルゼ。貴女なら、立派に務めを果たせるわ。……ママはいつでもここで、貴女の帰りを待っているからね」


「……お母様……。……うん、エルゼ、頑張る! 人間さんたちをいっぱい助けて、お母様に自慢しに来るね!」


私は涙を拭い、紅の翼を広げた。


下界は、雲の下。


お母様の語った、弱くて愛おしい人間たちが住む世界。私は期待に胸を膨らませ、眩い光の中を急降下していった。


お母様の教えを胸に。慈悲の心を翼に乗せて。


まさか、その先に待っているのが、お母様の語った「愛おしい人間」などではなく、反吐が出るほどに醜悪な、欲望と裏切りの泥沼だとも知らずに。


私の、純粋だった心が、音を立てて砕け散るまでのカウントダウンが、この時から始まっていた。



 ◆



お母様のいる空は、あんなに綺麗だったのに。下界に降りて、最初に感じたのは、吐き気がするほど濃密な「欲」の匂いだった。


最初は、それでも頑張ったんだよ?


お母様の教え通り、私は人間たちを助けようとした。竜族の強大な魔力を惜しみなく使って、病に苦しむ村人を癒やし、干ばつに喘ぐ土地に雨を降らせた。


「……ありがとう、神様。……いえ、竜の巫女様!」


村人たちが私の前に跪き、涙を流して感謝する姿を見て、私は誇らしかった。


ああ、お母様が言っていた通りだ。人間は弱くて脆いけれど、助けてあげればこんなに喜んでくれる。私はお母様の自慢の娘になれるんだって、本気で信じていた。


……でも、それは全部、真っ赤な嘘だった。


ある夜のこと。私が村の宿で眠っていると、部屋の扉が乱暴に蹴破られた。


現れたのは、昼間に私が病を治してあげたはずの村長と、見たこともない強欲そうな顔をした男たちだった。


「村長……? どうしたの、こんな夜中に。……。……ねぇ、その網は何?」


「……すまねぇな、お嬢ちゃん。……いや、竜のガキ。お前の力は凄まじい。……だがなぁ、お前が一人で気まぐれに奇跡を起こすより、お前を領主様に差し出したほうが、村の税が一生分免除されるんだわ」


村長の瞳には、昼間の感謝の色なんてひとかけらも残っていなかった。そこにあるのは、自分たちの生活を豊かにするための「道具」を見つけた、醜い安堵と計算高さだけ。


「……何を言っているの? 私、貴方のおじいさんの病気を治してあげたじゃない。……どうして、そんな酷いことが言えるの?」


「あぁ、あれか。感謝はしてるさ。……だが、感謝で腹は膨れねぇんだよ!」


男たちが一斉に、魔力を抑制する特殊な銀の網を投げつけてきた。お母様の聖域で温室育ちだった私は、人間の「不意打ち」なんて想定していなかった。網が身体に絡みつき、竜としての魔力が急速に奪われていく。


「……い、痛い……っ! やめて、離して……っ!!」


「騒ぐな! 売り飛ばすまで傷をつけんようにしろ。……へへ、竜族の王女様だってなぁ。こりゃあ、一生遊んで暮らせる金になるぞ」


私は檻の中に閉じ込められ、馬車で揺られた。道中、私は何度も願った。きっと誰かが助けてくれる。お母様が言っていた「良心」を持った人間がどこかにいるはずだって。


でも、現実はもっと残酷だった。私は領主の館に連れて行かれ、そこからは地獄のような日々が始まった。


彼らは私を人間として扱わなかった。


「竜の涙は真珠になる」という迷信を信じて、私を棒で叩いて泣かせようとした。  「竜の血は不老不死の薬になる」と言って、私の腕をナイフで切り刻んだ。


私が痛みに泣き叫び、助けを求めても、周りにいる騎士やメイドたちは、ただ冷淡な目で私を見ているだけ。それどころか、こぼれ落ちた私の血を、我先にと器で掬い合っている。


「……ねぇ、どうして……。……あたし、何か悪いことした……?」


檻の中で、私は自問自答を繰り返した。


お母様。お母様の言っていた人間は、こんなに醜い生き物だったの?


弱きを助ける? 慈悲を与える?


そんなの、ただの「つけ込まれる隙」でしかないじゃない。


私が優しくすればするほど、彼らは付け上がり、私の肉を食らい、骨をしゃぶろうとする。


感謝なんて、喉元を過ぎれば忘れるゴミクズ。


人間という生き物は、自分より強い者が「優しさ」を見せた瞬間、それを「自分たちが支配できる弱さ」だと勘違いする、救いようのない馬鹿の集まりだったんだ。


一ヶ月が過ぎた頃。私の心の中にあった、お母様譲りの「慈愛」は、一滴も残らず枯れ果てていた。代わりに、真っ黒で、ドロドロとした「嘲笑」と「殺意」が、胸の奥からせり上がってくるのを感じた。


「……あは。……あははははっ!!」


ある日、私を拷問しに来た領主の目の前で、私は突然笑い出した。


「……何がおかしい、このトカゲ風情が! さっさと泣け、涙を流せ!」


領主が鞭を振り下ろそうとした、その瞬間。私の身体を縛っていた銀の網が、どす黒い魔力の爆発によって木っ端微塵に弾け飛んだ。


「……ねぇ、おじさん。……勘違いしないでほしいんだけど。……あたしが今まで大人しくしてたのは、お母様に『優しくしなさい』って言われてたからなの。……我慢してただけなんだよ?」


私の瞳が、紅色から、底なしの闇を湛えた「竜の眼」へと変わる。


「……でも、もういいや。……あんたたちみたいな『ゴミ』に、慈悲なんて無駄だったわ。……だっておじさんたち、あたしがいなきゃ、自分一人の力じゃ何にもできない、ただの無能なんだもんね♡」


「な、……な、なんだその目は! 衛兵! 衛兵を呼べッ!!」


「無駄よ♡ ……あんたたちが信じてた『網』も、その『剣』も……。……私の前では、おもちゃ以下の価値しかないんだから!」


私は指先を軽く振った。それだけで、領主の館を支えていた柱が、バターのように溶け落ちる。悲鳴。絶叫。逃げ惑う人間たち。


……あぁ、これだ。これだよ、お母様。


人間が一番美しく見えるのは、感謝している時なんかじゃない。自分たちの無力さを思い知り、圧倒的な力の前に跪いて、絶望に顔を歪めている時だわ。


私は、逃げようとする領主の首根っこを掴み、その耳元で、甘く、残酷に囁いた。


「……ねぇ、おじさん。……おじさんみたいな『ざぁこ』には、これからたっぷりと、あたしの優しさを『わからせて』あげるね♡ ……死ぬまで、あたしの足元で這いずり回りなよ」


黄金の光に包まれていた私の翼は、いつの間にか、夜を凝縮したような黒い光沢を帯びていた。


純粋無垢だったエルゼは、この日、死んだ。


生まれたのは、弱者を煽り「身の程を思い知らせる」ことに至上の愉悦を感じる、史上最悪のメスガキ――竜姫エルゼ。


私は、燃え盛る館を背に、夜の街へと歩み出した。


お母様の教え? そんなの、もういらない。この世界には、私に分からされるべき、愚かな下等生物しかいないんだから。



 ◆



真っ赤な炎に包まれる領主の館を見上げながら、私は自分の指先についた血を、ぺろりと舌で舐めた。鉄の味がする。不快な、けれど同時に、自分の「生」を強く実感させる温度。


「……あは。……あははははは! 傑作ね。あんなに威張ってたおじさんたちが、私がちょっと本気を出しただけで、あんなに情けない顔をして逃げ惑うなんて♡」


私の背後には、もはや生きた者の気配はない。瓦礫の下から聞こえる微かな呻き声も、私にとっては心地よい子守唄に過ぎなかった。かつてお母様の膝の上で聞いた、あの優しい子守唄とは正反対の、死と絶望のメロディ。


私は、夜の街道を独り歩き出した。


光を失い、血で黒く染まった翼。ドレスは返り血で汚れ、足元は泥にまみれている。  けれど、心は驚くほど軽かった。


もう、お母様の教えに縛られる必要はない。


「人間を慈しめ」? 「弱きを守れ」?


冗談じゃないわ。守ってあげた結果が、あの檻の中での地獄だったじゃない。人間なんて、本質的にはただの強欲なケダモノなのよ。


自分より弱いものがいれば徹底的に搾取し、自分より強い者が現れれば、尻尾を振って慈悲を乞う。


そんな救いようのないゴミクズたちには、相応しい「接し方」があるの。それは、彼らが二度と牙を剥こうなんて思えないほどの、圧倒的な暴力と恐怖で、その魂ごと「わからせて」あげること。


「……ねぇ、そこに隠れてるお兄さんたちも、あたしに『わからされたい』のかしら?♡」


物陰で息を潜めていた、賞金稼ぎの男たちが数人、顔を青くして飛び出してきた。彼らは私が「竜族の生き残り」だと聞きつけ、一攫千金を狙って待ち伏せていたのだろう。


「ひ、ひぃ……! バ、化け物……!」


「化け物? 失礼しちゃうわね。……あたしは、あんたたちみたいな『ざぁこ』を正しく管理してあげる、優しいお姫様だよ?♡」


私は杖も使わず、ただ魔力を指先に集める。竜族の魔力は、怒りと憎しみを得て、さらに禍々しく、鋭利に研ぎ澄まされていた。


「……跪きなさい。あんたたちの薄汚い頭を、地面に擦り付けて。……。……いい? 許してほしかったら、あたしの靴の裏を舐めてみなよ。そうしたら、一秒だけ長く生かしてあげるかも♡」


男たちは、私の足元に転がり、必死で命乞いをした。昼間まで威勢よく酒を飲んでいたであろう屈強な男たちが、幼い少女の姿をした私に、涙と鼻水を流して縋り付いている。


……あぁ、気持ちいい。これよ。これなのよ。


優しくしていた時、彼らの瞳にあったのは「欲望」だった。


でも、こうして踏みにじってあげている今、彼らの瞳には純粋な「畏怖」が宿っている。これこそが、竜族と人間のあるべき正しい関係性。


支配者と、家畜。わからせる者と、わからされる者。


私は、泣き叫ぶ男たちを塵へと変え、さらに歩みを進めた。けれど、どれほど人間を蹂躙しても。


どれほど多くの街を恐怖で支配しても。私の胸の中に空いた、あの真っ黒な穴は埋まらなかった。


ふとした瞬間に、思い出してしまう。お母様の、あの温かい膝枕。


「エルゼ、貴女なら立派に務めを果たせるわ」と言って笑ってくれた、あの眩しい微笑み。


今のあたしを見たら、お母様は何て言うのかしら。きっと、悲しむだろうな。私を「汚れた子」として、天鱗宮から追放するかもしれない。


「……。……。……。……別に、いいもん」


私は、夜空に浮かぶ月を見上げた。天高くにある、あのお城には、もう二度と帰れない。私はもう、お母様が愛した「純粋なエルゼ」じゃないんだから。


旅を続けて数年。私の名は、大陸中に轟いていた。


『絶望の黒竜』。


私の通った後には草一本残らず、街は沈黙し、王たちは私の機嫌一つで国を捧げた。


私は、血に染まった王座を蹴り飛ばし、不敵な笑みを浮かべた。


「……さぁ、次は誰を、絶望させてあげようかしら?♡」


夜の静寂に、エルゼの残酷で愛らしい笑い声が、どこまでも響き渡っていった。



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