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第48話:『ルナ』。

視界に入るすべてが、泥のように濁って見えていた。


帝立魔道学院。そこは帝国中の「才」が集う場所であり、同時に私にとっては、耐え難い「無能」と「欲望」が渦巻く掃き溜めのような場所だった。


私は、名家の最高傑作として、その頂点に立っていた。髪をなびかせ、指先一つで高位の術式を構築する。周囲の学生たちが数ヶ月かけて習得する呪文を、私は一読しただけで「最適化」し、さらなる高みへと昇華させてしまう。


「……ルナ、今日も君は美しい。その魔導の輝き、まさに一族の誇りだ」


演習場の廊下で、また一人、男が声をかけてきた。自称「次期侯爵」の、実力も品性も伴わない男。彼は私の才能ではなく、私の容姿と、私の背後にある家名を、己のコレクションに加えようと必死だった。


「……近寄らないで。貴方の発する魔力の残滓、酷く不快だわ」


「なっ、……相変わらず手厳しいな。だが、君のような高嶺の花を屈服させることこそ、男の誉れというものだ」


彼は笑いながら、私の肩に手を置こうとした。その瞬間、私の周囲の空気が、パチリと小さく爆ぜた。無意識に展開された防衛術式。男の手は私の服に触れる寸前で、目に見えない高熱の障壁に阻まれ、指先を焼いた。


「あ、熱っ……! 貴様、何をする!」


「……警告したはずよ。次にその汚い手を伸ばしたら、貴方の魔導回路ごと焼き払ってあげるわ」


私は氷のような冷徹な瞳で彼を見据えた。


男。男。男。


学院に溢れる男たちは、誰もが自分を「主体」だと信じ、私を「客体」――つまり、飾られるべき人形か、征服されるべき領土としてしか見ていない。彼らの欲望が混ざった魔力の色。それが、私にはたまらなく吐き気がするほど醜く見えた。


だが、私を苦しめていたのは、彼らの無能さだけではなかった。私には、誰にも言えない秘密がある。名家の令嬢として、帝国の将来を担う魔導師として、決して抱いてはならない、禁忌の「狂い」。


(……気持ち悪いのは、私の方なのかもしれないわね)


自室の鏡の前で、私は自分の身体を抱きしめるようにして蹲った。私は、男に触れられることを考えるだけで、肌が粟立つほどの嫌悪感を覚える。


けれど、その一方で、夢に見る温もりがあった。かつて、私の家の庭で、泥だらけになりながら私を守るように立っていた、あの背中。


アルテミス。彼女は、私の幼馴染だった。


魔術の才能などひとかけらも持たず、ただひたすらに重い剣を振り、木剣が折れるまで打ち込みを続けていた不器用な少女。


私は、彼女が好きだった。幼い子供の「仲良し」などという生温いものではない。


彼女が騎士団へ行くと言って私の前から姿を消したあの日、私は自分の心臓の一部が抉り取られたような、凄まじい喪失感に襲われた。


自分が「女の子を愛している」という自覚。それは、当時の私にとって、死刑宣告にも等しいものだった。


名家の令嬢は、優秀な男と結婚し、より強力な魔導の血を次代に繋ぐのが唯一の義務だ。愛などという不確かなものは、契約のついでに与えられる副産物に過ぎない。ましてや、同性を愛するなど、帝国の法においても、魔導の理においても、許されざる「異常」とされていた。


(……ねぇ、アルテミス。貴女も私のことを、気持ち悪いと思うのかしら?)


届くはずのない問いを、夜の闇に投げる。私は、天才であり続けることで、自分の内側にある「空洞」を埋めようとした。誰よりも強く、誰よりも高慢に振る舞えば、この歪な秘密を誰にも悟られずに済む。


男たちを徹底的に見下し、寄せ付けないことで、自分の純潔を守り、アルテミスへの想いを心の奥底に封じ込めてきた。


けれど、限界は近づいていた。父が持ってきた見合い写真の数々。将来の「夫」となるべき男たちの、傲慢な笑顔。


「ルナ、お前はもう十分に学んだ。次は、我が家名に相応しい後継ぎを残すことが仕事だ」


父の言葉を聞いた時、私の内側で、何かが決定的に壊れた。私は、誰の「器」にもならない。私のこの魔力も、この身体も、この心も、すべては私だけのもの。


……そして、いつか再会できるかもしれない、あの凛々しい彼女のためだけのもの。


私は机の奥に隠していた、決して出すことのできないアルテミスへの手紙を取り出した。そこには、私の醜いほどの執着と、誰にも言えない秘密が、震える文字で綴られていた。


私はそれを、手元に灯した紅蓮の炎で灰にした。


「……さよなら、我が家。……さよなら、お父様」


私は窓を開け、夜の風を全身に浴びた。天才令嬢としての輝かしい未来を捨て、私は一人の、名もなき「狂った魔術師」として生きる決意を固めた。


たとえ、この想いが誰にも受け入れられず、一生を孤独の中で終えることになったとしても。愛してもいない男の隣で、死んだように生きることだけは、絶対に御免だ。


私は、赤い髪を振り乱し、学院の門を音もなく通り抜けた。背後に残したのは、名門の重圧と、男たちの欲望。前方に広がるのは、冷たい雨の降る、漆黒の荒野。


私は、走り出した。自分の秘密が、いつか希望に変わる日を夢見て。


……あるいは、その秘密を抱えたまま、野垂れ死ぬことを覚悟して。



 ◆



雨が、私の視界を白く煙らせていた。学院を飛び出してから、どれほどの月日が流れただろうか。家の追手から逃れ、泥を啜り、洞窟で夜を明かす日々。かつての令嬢としての面影は、ボロボロに裂けたドレスの裾と共に、とっくに荒野の風にさらわれて消えていた。


「……はぁ、……はぁ、……っ」


荒い呼吸を整えながら、私は背後の森を睨みつけた。木々の間から、金属の触れ合う嫌な音が聞こえてくる。父が差し向けた衛兵たちではない。執拗に私を「コレクション」として追い回す、あの傲慢な元婚約者、ヴィクトールの私兵たちだ。


「ルナ! 観念して出てきたらどうだ! 君のような女が一人で生きていけるほど、この外の世界は甘くないぞ!」


森の奥から、ヴィクトールの勝ち誇ったような声が響く。彼は、私が自分を拒絶した理由を、ただの「お嬢様のわがまま」だと思い込んでいる。私が、彼という男そのものを、そして男という生き物すべてを、生理的な嫌悪と共に拒絶していることなど、想像だにしていないのだ。


「……私の人生を、貴方の所有物になんてさせないわ。……そんな屈辱にまみれるくらいなら、私はここで、業火に焼かれて死ぬ方を選ぶ!」


私は杖を地面に突き立て、残りの魔力をすべて解放した。足元の水たまりが一瞬で蒸発し、周囲の空間が歪む。


「……降り注げ、重力の咆哮メテオ!!」


私の指先から放たれた光は、天へと向かい、無数の隕石があたり一体に降り注ぐ。降り注ぐ無数の隕石は、もはや魔術という枠を超えた、純粋な「拒絶」の塊だった。


森の一部が白光に包まれ、ヴィクトールの叫び声もろとも、追手たちの存在を粉微塵に叩き潰していく。


……けれど。その代償として、私の魔導回路は限界を超え、視界は真っ赤に染まった。膝から崩れ落ち、泥の中に顔を埋める。意識が遠のく中、私は胸元に忍ばせていた、たった一つの「宝物」を握りしめた。アルテミスが幼い頃、私にくれた、小さな盾の形をした木彫りの守り。


(……ねぇ、アルテミス。……私は、……間違っていたのかしら)


女の子が、女の子を好きになる。そんな当たり前の「好き」が、なぜこの世界ではこれほどまでに重い罪のように扱われるのか。


私は天才だった。誰もが羨む魔力を持ち、帝国の未来を担うと期待されていた。けれど、そのすべての栄光を合わせても、アルテミスの少し硬い手の温もりには、到底及ばなかった。


私が彼女を愛しているのは、彼女が強いからでも、彼女が私を守ってくれるからでもない。彼女の瞳の中にだけ、私は「名家の最高傑作」ではない、ただの「ルナ」としての自分を見つけることができたからだ。


「……。……。……ぁ」


ふと、遠くから風に乗って、聞き慣れた軍靴の響きと、地鳴りのような咆哮が聞こえてきた。それは、帝国北方の要衝、バルカの断崖の方角。騎士団が、蛮族の軍勢を食い止めるために死地に向かったという噂を、数日前の村で耳にしていた。


(……アルテミス。……貴女は、あそこにいるのね)


身体中に走る激痛を無視し、私は無理やり立ち上がった。魔力は枯渇し、足取りは覚束ない。それでも、私の魂は、あの戦場へと惹きつけられていた。


彼女は、きっとあの橋の上で、独りで「盾」になっているはずだ。馬鹿で、不器用で、あまりにも律儀な彼女のことだ。誰かを守るために、自分自身の命を勘定に入れず、ボロボロになるまで戦い続けているに違いない。


「……待ってて。……誰にも貴女に、……指一本、触れさせないわ」


私の瞳に、かつての天才魔術師としての鋭い光が戻った。これは、帝国のための戦いではない。名誉のためでも、使命のためでもない。ただ、私が愛した一人の少女を、この世界のあらゆる暴力から守り抜くための、私だけの「我儘」だ。


私は、血を吐きながらも詠唱を始めた。自分の命を燃料に変え、この空を、彼女を守るための盾へと変えるために。


戦場へと続く山道を、一人の狂った魔術師が駆けていく。ボロボロの服をなびかせ、折れかけた杖を杖代わりにして。その背中には、名門の誇りも、女性としての幸福も、もはや何も残っていない。ただ、心の奥底で燃え続ける、誰にも言えない秘密の恋心だけが、彼女を動かしていた。


「……愛してるわ、アルテミス。……たとえ、貴女が私を……化け物だと蔑んだとしても」


豪雨の中、ルナの叫びは誰にも届かず、ただ紅い魔力の奔流となって、バルカの空へと昇っていった。



 ◆



鼻腔を突くのは、雨に混じった鉄と硝煙の匂いだった。バルカの断崖。地獄を具現化したようなその場所に辿り着いた時、私の目に飛び込んできたのは、無数の骸が積み上がる石橋の上で、ただ独り「壁」として立ち尽くす黄金の騎士の姿だった。


「……あ、…………ぁあ…………っ」


声にならない悲鳴が漏れた。アルテミス。私の、たった一人の王子様。かつての凛々しかった彼女の鎧は見る影もなく砕け、その全身からは絶え間なく鮮血が溢れ出している。それでも彼女は大盾を掲げ、押し寄せる蛮族の軍勢を一人で食い止めていた。


(……なんて、……なんて馬鹿なやつなの)


胸が、引き裂かれるように痛んだ。私が家を捨て、泥を啜りながら彼女を追っていた間、彼女はこうして一人で世界の悪意を受け止め続けていたのだ。誰に甘えることもなく、誰に弱音を吐くこともなく。


蛮族の魔導士たちが、一斉に呪文を唱え始める。アルテミスを焼き払うための、無慈悲な火球の雨。彼女はもう動けない。盾を掲げるのが精一杯で、回避することも、防御結界を厚くすることも叶わないだろう。


「……させない。……絶対に、触れさせないわッ!!」


私は、折れかけた杖を天に突き出した。身体中の細胞が、魔力の暴走によって焼き切れる音がした。血管が浮き出し、瞳の端から血が滲む。私が家を捨て、女であることを捨て、天才であることを捨てて得た唯一の力が、今、彼女を守るためだけの「盾」へと変わる。


「……狂え、……紅き絶望のスカーレット・ケージ!!」


ドォォォォォォンッ!!


私の周囲から放たれた深紅の魔力が、橋を覆う巨大なドーム状の結界を形成した。空から降り注ぐ火球をすべて弾き飛ばし、迫りくる兵士たちをその圧倒的な熱量で灰へと変えていく。


『な、なんだ!? どこからこれほどの魔術が……!?』


『魔女だ! 帝国の魔女が現れたぞッ!!』


敵の叫び声など、今の私には羽虫の羽音にも等しい。蛮族たちは次々と灰になっていく。私の魔法でアルテミスの前に立ちはだかる敵を全て焼き払う。


アルテミスはとうに限界を迎えていた。立ち続けながらも、意識が飛びかけており、私を認識できない。


秘密は、秘密のまま。私は、一人の天才魔術師としての誇りと、一人の「女の子を愛した少女」としての絶望を抱え、孤独な放浪者へと戻った。


いつか、どこかで、また彼女と出会う日が来るかもしれない。その時も、私はきっと、冷たくて、高慢な「ルナ」として振る舞うだろう。


彼女の隣に立つ資格なんて、私にはないのだから。髪を風になびかせ、私は独り、夜の荒野を歩き続ける。心の中に、消えることのない紅蓮の炎を灯したまま。


誰にも言えない秘密が、私の唯一の、生きる糧だった。



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