第47話:『アルテミス』。
騎士団。帝国が誇る武の精髄が集うその場所で、私に与えられたのは「不落」という二文字だった。
早朝の鍛錬場。まだ朝霧が石畳を白く覆う時刻から、鉄と鉄が激突する硬質な音が響き渡る。
私の前に立っているのは、団内でも剛腕で知られる三人の男騎士だ。彼らは額に青筋を立て、大剣や戦斧を構えて私を包囲している。対する私は、左腕に大盾を構え、右手の剣は未だ鞘に収めたまま。
「……アルテミス! 女だと思って侮るなとは言ったが、剣も抜かずに我ら3人を相手にするとは、随分と舐められたものだな!」
一人が咆哮と共に、身の丈ほどもある戦斧を振り下ろした。空気を引き裂く凶悪な一撃。だが、私は瞬き一つせず、左足を一歩踏み出した。
「舐めているわけではない。……貴公らでは、私の盾を抜くことすら叶わぬと言っているのだ」
ガキンッ、という、耳の奥まで痺れるような衝撃音が爆ぜた。戦斧の刃は、私の大盾の表面に刻まれた紋章に一分の狂いもなく受け止められ、そのまま火花を散らして地面へと弾き飛ばされた。
「なっ……!? 体重が、乗っていないのか!?」
「いいや。重心を逸らしただけだ。……次、来なさい」
左右から同時に迫る剣閃。私は盾を翻し、一人の剣を面で叩き落とすと同時に、もう一人の懐へ盾の縁を叩き込んだ。
「がふっ……!」
鎧越しに肋骨が軋む音が聞こえ、男騎士の巨躯が数メートル後方へと転がった。私はそのまま、残る一人に向けて冷徹に言い放った。
「……一分。貴公らが私に触れるまでにかかった時間です。実戦であれば、既に三度死んでいますよ」
三人の男たちは、屈辱と驚愕が混ざり合った表情で膝をついた。
周囲で観戦していた他の団員たちからも、声にならない溜息が漏れる。彼らは知っているのだ。この「アルテミス」という女騎士が、決して小細工で勝っているのではないことを。
圧倒的な質量、神速の反応、そして何より―― 一歩も退かぬという狂気的なまでの「拒絶」の意志。それが私の盾を、物理法則すら超越した壁へと変えているのだ。
騎士団における私の日常は、常にこの「強さ」という名の孤独の中にあった。
訓練を終え、汗を拭いながら歩いていると、一人の女騎士が駆け寄ってきた。同期のベアトリクスだ。彼女は頬を上気させ、憧れに満ちた瞳で私を見つめる。
「アルテミス卿! 今日も素晴らしい武勇でした。……あの、もしよろしければ、今夜、私の実家から届いたワインを一緒に如何でしょうか? 貴女に、是非お聞きしたいお話が……」
彼女の視線に含まれる熱量を、私は無機質に切り捨てた。
「ベアトリクス。誘いは有り難いが、辞退する。今夜は装備の補修と、明日の戦術演習の予習がある。……私には、貴公の言葉に応える余裕も、資格もないのだ」
「……資格? どういう意味ですか? 貴女はこれほどまでに美しく、そして強い。誰もが貴女の隣を望んでいるのに」
「……私は誰かの隣に立つために、この盾を握っているのではない。……誰かの『身代わり』として死ぬために、私はここにいる」
私の言葉に、彼女は息を呑んで立ち尽くした。
それは本心だった。
騎士団に入団して以来、私は一度として、自分の命を自分のものだと思ったことはない。
強大な魔物との戦い、国境を侵す賊との紛争。私は常に、最も激しく火花が散る最前線に立った。
降り注ぐ矢の雨、猛り狂う剣の奔流。それらをすべてその身に受け止め、背後の仲間たちに一傷も負わせないこと。
誰かが傷つくはずの痛みを、私が肩代わりする。その瞬間だけが、私の虚無的な心に唯一の「価値」を与えてくれる。
ベアトリクスを後にし、独り歩いていると、今度はエリート騎士として名高い男が立ち塞がった。
「アルテミス。いい加減、その頑なな心を解いたらどうだ? 帝国は君に勲章を授与しようとしている。君の将来は約束されているんだ。私の妻になれば、前線に出る必要もなくなる。……君を、守らせてくれ」
私は彼を一瞥し、静かに首を振った。
「……貴公に守られるような柔な命を、私は持ち合わせていない。それに、私は死地を求めているわけではない。……死地が私を呼んでいるのだ。……盾は、守るべき者がいなければ、ただの重い鉄塊でしかない。……私の人生に、安らぎなどという不合理な要素は不要」
「……君は、いつか壊れてしまうぞ。そんな、自分を愛さない戦い方を続けていては」
「壊れることが本望だ。……誰かの命を繋ぐための『盾』として砕けるなら、それこそが私の騎士道だ」
私は彼を置き去りにして、独り、夕闇に包まれる鍛錬場へと戻った。まだ熱の残る体に鞭を打ち、さらに重い盾を構える。
なぜ、これほどまでにストイックになれるのかと問われれば、答えは一つしかない。
私は、自分が怖いのだ。この圧倒的な力を、自分のためだけに行使して、誰かを踏みにじってしまうことが。
だから私は、この力をすべて「誰かのための防壁」として使い切ることで、自分という怪物を抑え込んでいるのかもしれない。
私の盾は、重い。それは物理的な重量だけでなく、私が肩代わりしてきた無数の「痛み」と「恐怖」の重さだ。
夜の静寂の中、私は独り、盾の表面を磨く。
傷一つないその表面には、私の冷徹な瞳が映っていた。
愛も、情も、名誉も。
すべてを削ぎ落とした先に残るのは、ただ「盾」として在り続けるという、純粋で、そして狂気的な渇望だけだった。
(……いつか、私が守りきれずに倒れる時が来るだろう。……その時こそが、私が私であることを許される時なのかもしれない)
そんな危うい諦観を抱きながら、私は翌日の戦場へと想いを馳せる。最強の盾として、孤独な頂点に立ち続けること。それが、騎士団におけるアルテミスの、偽らざる真実であった。
◆
空は重苦しい鉄灰色に染まり、戦場には湿った土と鉄の匂いが立ち込めていた。
帝国北方の要衝、バルカの断崖。そこにかかる一本の石橋が、今、帝国の命運を分ける唯一の境界線となっていた。
「アルテミス卿! 撤退の合図です! 敵の先遣隊だけで三千、後続を含めればその倍は下りません! このままでは全滅です!」
伝令の兵士が、恐怖に震える声で叫ぶ。
私の背後では、重傷を負った騎士たちが這うようにして後退を始めていた。彼らを安全な拠点まで逃がすためには、少なくともあと一刻、この橋を封鎖し続けなければならない。
だが、今の防衛部隊にそんな余力はなかった。盾は砕け、槍は折れ、兵たちの目からは光が消えかけている。
「……副官。生存している者をすべて連れて、直ちに撤退せよ。これより、本橋の守備は私一人が引き受ける」
「なっ……!? お、お一人で!? 相手は一個軍団に匹敵する軍勢ですよ! 正気ですか!」
「……騎士団の『盾』が、いつ正気であったことがある」
私は静かに、けれど有無を言わせぬ威圧感を持って大盾を構え直した。騎士団に入団して以来、私は常にこの瞬間のために己を磨いてきたのだ。誰かが犠牲にならなければならない時、その「誰か」は常に私でなければならない。それが、この圧倒的な力を授かった者の義務であり、呪いだ。
「命令だ。行け。……一人でも多く、生きて帝都の門をくぐらせろ」
「……っ、……ご武運を、不落のアルテミス卿!」
副官たちが涙を呑んで駆け去っていく足音を聞きながら、私は独り、橋の中央へと歩み出た。前方からは、地鳴りのような足音が響いてくる。
蛮族の連合軍。略奪と破壊を目的とした、飢えた狼のような軍勢。彼らの瞳には、橋の上に独り立つ私への侮蔑と、それを踏みにじろうとする残酷な愉悦が宿っていた。
『……ハハハ! 女一人か! 帝国も、もはや人材が尽きたようだな!』 『その鎧、剥ぎ取って酒の肴にしてくれるわ!』
先鋒の騎兵隊が、大地を揺らして突撃してくる。私は深く腰を落とし、大盾の裏側にあるグリップを、皮が軋むほど強く握りしめた。
心臓の鼓動が、ゆっくりと、けれど力強く脈打つ。 余計な思考はすべて捨て去った。私は今、一人の人間ではない。ただの「石壁」であり、絶対に抜くことのできない「門」そのものだ。
「……来い。ここより先、私の一片でも残っている限り、一歩たりとも通しはしない」
激突。凄まじい質量と速度を持った馬体が、私の盾に叩きつけられた。
普通の人体ならば、一瞬で木っ端微塵に砕け散る衝撃。だが、私は一寸たりとも後退を許さない。
「……おおおおおっ!!」
盾の表面で衝撃を受け止め、そのまま真横へと弾き飛ばす。激突した騎兵は馬もろとも橋の欄干を突き破り、断崖の底へと消えていった。
止まることなく、次から次へと暴力が押し寄せる。
槍が盾を突き、剣が鎧を削り、斧が私の肩を叩く。
私は右手の剣すら抜かず、ただ左腕の盾だけで、迫りくる敵をなぎ倒し、押し返し、粉砕し続けた。
一人が盾の下を潜り抜けようとすれば、膝を叩き折って排除する。
複数が同時に仕掛けてくれば、盾の面でまとめてなぎ払う。私の動きには華麗さも、優雅さもない。ただ、徹底的に「通さない」という一点にのみ特化した、無骨で冷徹な防衛技術。
(……まだだ。まだ、背後の鼓動が遠のいていない)
戦いは、一時間を過ぎた頃から地獄の様相を呈し始めた。私の足元には、もはや数えきれないほどの敵の骸が積み重なり、石橋は彼らの流した血で赤黒く染まっている。
私の鎧も、もはやその輝きを失っていた。無数の傷が刻まれ、敵の返り血と泥にまみれ、所々は凹み、歪んでいる。左腕の感覚は、とっくに消失していた。盾を握っているのではなく、意志の力だけで盾を腕に「固定」している状態だ。
『魔導士隊! あの女を焼き払え! 橋ごと崩しても構わん、放てッ!』
敵の指揮官の絶叫と共に、空から数多の火球が降り注ぐ。私は盾を頭上に掲げ、全身の魔力を一点に集中させた。
「……抜かせる、ものか……っ!」
爆炎が視界を埋め尽くし、凄まじい熱風が私の皮膚を焼く。盾の表面が赤熱し、金属の焼ける不快な臭いが鼻を突いた。骨が軋み、内臓が衝撃で悲鳴を上げる。口の中に鉄の味が広がり、私はこらえきれずに鮮血を吐き出した。
それでも、私の足は一歩も引かなかった。煙の中から現れた私の姿を見て、蛮族の兵士たちが戦慄に顔を歪める。
『……ば、化け物……。なぜ死なない! 心臓を貫いても倒れないのではないか!?』
恐怖。それが伝染していくのを肌で感じる。私は、もはや視界すら半分以上が血に染まりながら、ただ静かに、次の獲物を求めて盾を構え直した。
なぜ、そこまでして守るのか。自分でも分からなかった。
この手に触れた者たちが、男女問わず私に愛を囁き、隣に立ってほしいと願ってくれた。だが、私はそのすべてを拒絶してきた。
私にとって、愛されることや、守られることは、自らの存在理由を否定することに等しかった。
私は「盾」だ。盾が守られてどうする。盾が誰かを愛して、その手を止めてどうする。
私の価値は、この極限の戦場で、誰かの身代わりとなって傷つく瞬間にしかない。降り注ぐ悪意を一心に引き受け、それを無に帰す。その自己犠牲の中にしか、私は自分の居場所を見出せなかった。
(……ああ。……これで、いい)
意識の混濁の中で、私は妙に冷静な自分を感じていた。全身の傷口から熱が逃げていく。鎧の隙間から、冷たい雨が入り込む。
私は、自分が壊れていくのを楽しんでいるのかもしれない。この強すぎる力から、騎士という重すぎる責務から、ようやく解放される。
「不落」という名の呪いが、今、物理的な限界を迎えて砕けようとしている。
『……とどめだ! 全員で突っ込め! 肉の壁など食い破れ!』
残存する敵の全軍が、最後の大突撃を仕掛けてくる。数千の意志が、ただ一人の女を殺すために殺到する。私は、折れかけた大盾をもう一度だけ、力強く地面に叩きつけた。
「……騎士団、アルテミス。……我が命が尽きるとも、……この橋は……一寸たりとも……渡らせはしない……!」
石橋が激しく揺れる。私の魂が、最後の咆哮を上げた。
死の淵で、私は初めて笑ったかもしれない。誰のためでもなく、ただ己の誇りを貫き通すために。
最強の盾として、孤独な頂点で果てることができる。それは、私のような「怪物」に与えられた、最高に美しい幕引きだと思っていた。
激突の瞬間、私の意識は真っ白な閃光に包まれた。
◆
静寂が、耳を劈くようだった。
どれほどの時間が経過したのだろうか。視界を覆っていた爆炎も、敵軍の罵声も、肉を断つ不快な感触も、すべてが遠い過去の出来事のように霧散していた。私の耳に届くのは、ただ、バルカの断崖の下を流れる激流の音と、鎧の隙間から滴り落ちる自らの血が石畳を叩く、規則正しい音だけだ。
「……あ、……ぁ…………」
声を出そうとして、喉が焼けるように痛んだ。私は、まだ立っていた。
左腕に固定された『獅子』の盾は、もはや元の形状を留めていない。獅子の紋章は中央から無残に割れ、縁はボロボロに欠け、無数の矢が墓標のように突き刺さっている。だが、その盾は、最後まで私の腕を離れることはなかった。
前方を一瞥する。橋の向こう側、かつて数千の軍勢がひしめき合っていた場所には、もはや動く者の姿はない。私の背後を守り抜くために積み上げた死の山と、得体の知れない絶望に当てられて撤退していった侵略者たちの足跡が残されているだけだ。
勝ったのだ。独りで、帝国を救ったのだ。
普通なら、ここで歓喜の声を上げるべきなのだろう。あるいは、生き延びた幸運に感謝すべきなのかもしれない。だが、私の心に去来したのは、吐き気がするほどの虚無感だけだった。
(……私は、また……死に損なったのか)
これほどの死闘を演じ、全身をズタズタに引き裂かれながら、私の心臓は未だに図太く脈動を続けている。「不落」という呪いは、死に場所すら私に与えてはくれないらしい。
遠くから、馬蹄の音が近づいてくる。撤退した味方の本隊が、体制を立て直して戻ってきたのだろう。やがて、私の周囲を数十人の騎兵が取り囲んだ。彼らは馬から降り、目の前の光景――地獄を一人で作り上げた私の姿を見て、戦慄し、跪いた。
「……アルテミス卿! ご無事か! 信じられん、本当に独りで……!」
「奇跡だ! 帝国が救われた! 万歳! 不落の英雄、アルテミス卿に栄光あれ!」
口々に叫ばれる賞賛の言葉。だが、彼らの瞳の奥にあるのは、純粋な敬意ではない。
それは、自分たちには到底理解できない「異物」を見る目だ。あるいは、どんな暴力にも屈しない、壊れることのない「便利な道具」を見出した、安堵の眼差し。
彼らは私の盾に触れようとはしなかった。私の傷を案じて手を貸そうとする者すら、私の身体から放たれる凍てつくような拒絶のオーラに、一歩退いてしまう。
ああ、やはりそうなのだ。最強になればなるほど、私は「人間」から遠ざかっていく。私は、彼らが安心して背後を任せるための「壁」であり、共に酒を酌み交わす「仲間」にはなれない。
かつて私に告白してきた男たちの顔を思い出す。彼らは私を守りたいと言った。だが、今の私のこの姿を見ても、同じことが言えるだろうか。血泥にまみれ、己の死すら道具として使い切ろうとするこの怪物を、愛するなどと言えるだろうか。
私に憧れを抱いた女騎士たちはどうだ。彼女たちは私の強さに酔いしれていた。だが、その強さの代償が、この底冷えするような孤独であることを知れば、きっと悲鳴を上げて逃げ出すだろう。
「……卿、大丈夫か? 今、救護班を――」
「寄るな」
私は、掠れた声で一言だけ放った。副官の手が、空中で止まる。
「……私は、まだ、……盾だ。……命令が解除されるまで、……ここを動くわけにはいかない」
「何を言っているんです! 敵はもう退却しました! 貴方の任務は終わったんです!」
「……終わった? ……そうか。……終わったのか」
私は、ゆっくりと左腕のベルトを解いた。重い。重すぎる。
ガシャン、と重厚な金属音を立てて、私の誇りであった大盾が石畳に落ちた。その瞬間、私の身体の支えが失われ、膝が地面を叩いた。
空を見上げる。雲の切れ間から、冷ややかな月光が差し込んでいた。
私は英雄になった。帝国最強の騎士として、歴史に名を残すだろう。けれど、私の手の中には、何も残っていない。守り抜いたはずの命たちは、私の視界の届かない場所で、私とは無関係な喜びを享受している。
私は、独りだった。最初から、最後まで。誰かの盾になるということは、誰とも手を繋げないということだ。誰かの身代わりになるということは、誰とも人生を分かち合えないということだ。
(……いつか報われると思っていた。……だが、待っていたのは、この空虚な頂だけか)
私は、自分の内側で何かが音を立てて砕けるのを感じた。それは盾ではなく、私の心を形作っていた「騎士」という名の硬い殻だった。もう、これ以上、何を求めて剣を振ればいい。誰のために、この傷だらけの身体を晒せばいい。
「……。……もう、十分だ」
私は、駆け寄ろうとする部下たちを片手で制し、ふらつく足取りで歩き出した。帝国からの表彰も、地位も、名誉も、すべてをその場に捨て置いて。
血の匂いがしない場所へ。私が「盾」であることを求められない場所へ。ただの一人の、脆く、傷つき、誰かに温かい食事を振る舞ってほしいと願う……そんな「ただの女」に戻れる場所へ。
私は、鎧を一枚ずつ脱ぎ捨てながら、夜の闇へと消えていった。背後で、私を呼ぶ声が聞こえる。
だが、その声に応えるアルテミスは、もうどこにもいない。
最強の盾は、戦場の果てで、静かにその機能を停止したのだ。心の中に、一筋の光を求めて。それが、後に『不落の退役騎士』と呼ばれることになる私の、孤独な栄光の終わりだった。




