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第46話:死ぬほど働いたので、今世は『宿屋』でまったり

朝食の提供が始まると、宿『木漏れ日』は一気に活気づいた。


厨房からはアルテミスが焼き上げる香ばしいパンと、野菜を煮込むスープの香りが漂ってくる。食堂を忙しなく動き回るルナとエルゼ様。そして、時折客席から聞こえるミア様の高笑い。


昨日までの静まり返った自室とは対照的な、心地よい喧騒だ。私はカウンターの奥に立ち、全体の流れを見守りながら、必要に応じて的確な指示を飛ばしていった。


「ルナ、3番テーブルのコーヒーが空いています。補充をお願いします。それから、5番テーブルのお客様がチェックアウトの相談をされていますので、準備ができ次第声をかけてください」


「わかったわ! もう、相変わらずシエルはよく見てるわね。……はい、コーヒー、すぐ持っていくわ!」


ルナが忙しそうに、けれどどこか嬉しそうに返事をして駆け出していく。彼女の動きは、店主代理を務めた経験からか、以前よりも無駄がなくなっているように見えた。


「エルゼ様、テラス席のお客様に、本日のおすすめのジャムの説明を添えていただけますか? 貴女のその明るい声で勧められれば、きっと喜んでくださいます」


「ええ、任せてちょうだい! シエルが戻ってきたんだもの、あたしのサービスも今日はいつもより豪華版よ!♡」


エルゼ様は弾むような足取りでテラスへと向かった。彼女たちの献身的な働きのおかげで、宿の空気は驚くほど円滑に流れている。


ふと視線をやると、客席の隅でミア様が、旅人の子供と熱心に話し込んでいるのが見えた。


どうやら、昨日の看病中に自分がどれほど甲斐甲斐しく働いたかを、誇らしげに語っているようだ。子供は目を輝かせて「魔王様、すごいんだね!」と拍手を送っている。


「……ミア様。接客中に自慢話に花を咲かせるのは感心しませんが、……今日ばかりは多めに見ましょう」


私は小さく呟いて、手元の帳簿を整理した。すると、厨房からアルテミスが顔を出し、私の手元に温かいお茶の入ったカップを置いた。


「シエル。少し休め。お前は働き始めると止まらなくなるからな。これは私からの……その、追加の薬だ。飲み終わるまで次の仕事には手を出すなよ」


「ありがとうございます、アルテミス。貴女の淹れてくれたお茶は、いつも心が落ち着きます」


私は素直に彼女の言葉に従い、カップを手にした。立ち上る湯気の向こうで、仲間たちが笑い、客たちが満足そうに食事をしている。


以前の私は、この光景を単なる「管理の成功」としてしか見ていなかったのかもしれない。滞りなく宿が回り、数字が積み上がることがすべてだった。


だが、今は違う。


ルナの少し乱れた後ろ髪、エルゼ様の弾けるような笑顔、アルテミスの少し煤けたエプロン、ミア様の誇らしげな横顔。


それらすべてが、私にとってかけがえのない、守るべき「財産」のように感じられた。


私が倒れた時、彼女たちは私のために泣き、怒り、そして必死にこの場所を守ってくれた。その事実が、私の内側にある冷たい理性を、ゆっくりと溶かしていくような感覚があった。


昼時のピークが過ぎ、客足が一段落した頃。


私は宿の裏手にある菜園の様子を見に行った。瑞々しい野菜が育つその場所で、私は一人、空を仰いだ。


雲ひとつない青空。風が私の頬を撫で、どこか遠くでルナが私を呼ぶ声が聞こえる。


「……不思議なものですね」


感情というものは、時として論理的な判断を鈍らせる厄介な存在だと思っていた。だが、今の私は、その非合理性の塊すらも愛おしく感じていた。


彼女たちのために尽くし、彼女たちのためにこの宿をより良くしていく。それは義務ではなく、私の心が望んでいることなのだ。


菜園の入り口に、ルナが立っているのが見えた。彼女は私の姿を見つけると、少しだけ気恥ずかしそうに近寄ってきた。


「シエル、こんなところにいたのね。……あのさ、ちょっと聞きたいことがあったんだけど」


「何でしょうか、ルナ? 私に答えられることなら何でも」


「……昨日のこと。私が店主代理をしてた時、シエルはどう思ってた? ちゃんと、合格点だったかなって……」


ルナの瞳は、不安と期待が混ざり合っていた。私は彼女の隣に歩み寄り、その少し冷たい手を、優しく包み込んだ。


「ルナ。貴女は私の期待を遥かに超えて、素晴らしい仕事をしてくださいましたよ。私が不在の穴を、貴女の知性と、何よりこの宿への愛情で埋めてくれた。……私は、貴女を誇りに思います」


「…………っ!!」


ルナの顔が、見る間に赤くなっていく。彼女は俯き、震える声で絞り出した。


「……そ、そう。ならいいわ。……。……ありがと、シエル」


「どういたしまして。これからも、私の右腕として力を貸してくださいね」


私は微笑みながら、彼女の頭をそっとなでた。ルナは抵抗することなく、目を細めてその温もりを受け入れてくれた。


宿『木漏れ日』。


ここは、不完全な私たちが、お互いの欠けた部分を補い合いながら生きていく場所だ。私はこの場所の主として、これからも彼女たちの隣で歩んでいこう。


そんな決意を新たにしながら、私はルナを連れて、再び活気に満ちた我が家へと戻っていった。



 ◆



全ての業務が終わり、宿『木漏れ日』は深い静寂に包まれた。


心地よい疲労感が体を巡る中、私は最後の一仕事を終えるべく、ロビーの明かりを落とした。


バルコニーへと続く扉を開けると、夜の冷たい風が私の髪を揺らした。見上げれば、満天の星空が広がっている。


私は手すりに寄りかかり、一人で夜の空気を楽しんだ。思えば、この宿を始めてから、こうして何もしない時間を過ごすのは初めてかもしれない。倒れるという経験は、私に「止まること」の大切さを教えてくれたようだ。


「……シエル、ここにいたのね」


背後から、懐かしい鈴の音のような声がした。振り返ると、薄手のナイトドレスの上にガウンを羽織ったエルゼ様が、少し不安そうな表情で立っていた。


「エルゼ様。こんな夜更けに、どうされましたか? まだお休みになっていなかったのですね」


「……なんだか、目が冴えちゃって。……ねぇ、隣、いいかしら?」


「ええ、もちろんです」


私は横に一歩ずれて、彼女のために場所を開けた。エルゼ様は私の隣に並ぶと、震える指先で手すりを握りしめた。その横顔は、いつもの勝気な「龍姫」としての面影はなく、今にも泣き出しそうな、か弱い少女のようだった。


「……怖かったのよ、シエル」


ぽつり、と彼女が呟いた。


「あたし、シエルは絶対に倒れないと思ってた。いつも完璧で、あたしたちが何をしても笑って許してくれて、全部を管理して……。だから、シエルがいなくなった時のことを考えただけで、目の前が真っ暗になったの」


「エルゼ様……」


「……お願いだから、もうあんな風にいなくならないで。あたし、シエルのいないこの宿なんて、一秒だって耐えられないわ」


エルゼ様の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。私は胸が締め付けられるような思いで、彼女の細い肩を引き寄せた。彼女がどれほど私の存在に依存し、そして深く愛してくれていたか。その重みを、私は肌を通じて感じ取った。


「……申し訳ありません、エルゼ様。貴女にそこまでの不安を与えてしまうとは、私の管理不足でした」


私は彼女の涙を、指先で優しく拭った。そして、その震える小さな手を、自分の両手で包み込んだ。


「約束します、エルゼ様。私はもう、どこへも行きません。貴女が望む限り、私は貴女の隣で、この宿の主として、そして貴女を愛する者として、ここに在り続けます」


「……本当に? 嘘じゃないわね?」


「ええ。私の言葉に、嘘はありません。……エルゼ様、そんなに強く手を握らなくても、私は逃げたりしませんよ。……ふふ、貴女の熱が、私の手まで伝わってきます」


私が少しだけ茶化すように微笑むと、エルゼ様はようやく顔を上げ、潤んだ瞳で私を見つめ返した。


「……もう、シエルのバカ。……大好きよ。……ねぇ、今夜は、あたしが眠るまで一緒にいてくれる?」


「もちろんです。朝が来るまで、貴女の不安が消えるまで、何度でもお伝えしましょう。私はここにいると」


私は彼女を優しく抱きしめた。


エルゼ様の柔らかな体温が、私の胸を満たしていく。かつての私は、この感情を「非合理的」だと切り捨てていただろう。


けれど、今は違う。


この不合理で、熱くて、愛おしい時間が、私の存在理由なのだ。


夜の帳に包まれたバルコニーで、私たちは静かに寄り添い続けた。明日もまた、忙しい一日が始まる。


アルテミスが美味しい朝食を作り、ルナが元気に帳簿を付け、ミア様が高笑いを上げ、そしてエルゼ様が私に甘える。


その光景を守り続けることが、私の、そしてこの宿の幸福なのだと、確信していた。


「さあ、エルゼ様。そろそろお部屋に戻りましょう。夜風は体に障りますから」


「……ええ。おやすみなさい、シエル」


「おやすみなさい、エルゼ様。良い夢を」


私は彼女を部屋まで送り届け、自分も自室へと戻った。鏡に映る自分に、一度だけ、穏やかな微笑みを投げかける。


宿『木漏れ日』。


今日もまた、素晴らしい一日が終わった。私は静かに明かりを消し、明日という新しい日常を迎えるために、深い眠りへとついたのだった。



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