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第45話:そして店主は『復帰』する。

窓の外から聞こえる控えめな小鳥のさえずりが、私の意識を静かに浮上させた。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、瞼の裏を優しく叩いている。


「…………ふぅ」


まずは深く、肺の隅々まで空気を吸い込んだ。昨日まで思考を濁らせ、鉛のように体を引きずっていた熱の気配は、もうどこにもない。視界は驚くほどに明瞭で、頭の芯が冷たく、透き通っているのを感じる。


私はゆっくりと上体を起こし、乱れた髪を指先で整えた。隣で誰かが眠っている気配はない。昨夜、私が深く眠りについたのを確認して、それぞれの部屋に戻ったのだろう。


机の上には、飲みかけの水が入ったグラスと、数枚の濡れたタオルが整然と置かれていた。不器用な彼女たちが、慣れない手つきで一生懸命に世話をしてくれた証拠だ。それを見つめていると、胸の奥がじんわりと、心地よい温度で満たされるのを感じた。


「……随分と、皆様に甘えてしまったようですね」


私は独りごちて、苦笑を漏らした。宿を管理する身でありながら、自らの体調管理を怠り、逆に皆様に管理される側に回ってしまうとは。主として、少しばかり反省しなければならない。


私はベッドから降り、冷たい水で顔を洗った。鏡の中に映る自分の瞳は、いつもの冷静さを取り戻している。清潔な制服に袖を通し、指先で最後の一つのボタンまで丁寧に留めた。髪を整えれば、そこにはいつもの「宿の主人」としての私がいた。


部屋を出て、静かな廊下を歩く。まだ夜明けの冷気が残る宿の空気は凛としていて、私の背筋を自然と伸ばしてくれた。


一階へ降りると、厨房の方から微かに火を使う音が聞こえてきた。本来なら私が一番に起き、朝食の仕込みを始めるはずだが、どうやら先客がいるようだ。


「おはようございます、アルテミス」


厨房の入り口で声をかけると、大鍋をかき混ぜていた銀髪の騎士が、弾かれたようにこちらを振り向いた。


「……シ、シエル!? お前、もう起きて大丈夫なのか!?」


アルテミスは驚きのあまり、おたまを鍋の中に落としそうになっていた。彼女の目の下には、わずかに隈が浮いている。きっと、夜遅くまで私のことを心配してくれていたのだろう。


「ええ。おかげさまで、体調は完全に万全です。昨日は本当にありがとうございました、アルテミス。貴女の作ってくれたスープが、何よりの薬になりましたよ」


「……あ、ああ。礼なんていい。お前が無事なら、それで……。だが、本当に無理はするな。お前に倒れられると、私は……その、心臓に悪い」


アルテミスは照れ隠しのように視線を逸らし、また鍋に向き直った。彼女の不器用な優しさが、言葉の端々から伝わってくる。


「アルテミス、少し手伝いましょうか? 今日は宿泊客の皆様も多いですから」


「いや、お前は座っていろ! ……と言いたいところだが、お前のことだ。じっとしている方が毒なんだろうな。……分かった、野菜のカットを頼めるか?」


「喜んで。それが私の仕事ですから」


私は包丁を手に取り、慣れた手つきで野菜を刻み始めた。まな板を叩くリズム、鍋が煮える音。昨日までの熱に浮かされた混沌とした世界とは違う、美しく、規律ある日常。


やはり、私にはこの場所が一番似合っている。


しばらくして、二階から賑やかな足音が聞こえてきた。


「……ねぇ、シエルは!? あ、いた! 私、特製のジュースを作ってきたんだけど!♡」


「……あ、シエル! 起きてたのね!」


エルゼ様とルナが、競うように厨房へ駆け込んできた。私の姿を見るなり、エルゼ様は手に持っていたコップを調理台に置き、私の腕に抱きついてきた。


「もう! 心配したんだからね! 倒れるなんて、シエルらしくないわよ! ……ほら、もう熱はないの? 嘘ついたら承知しないわよ?♡」


エルゼ様の柔らかい手が、私の額に触れる。少しだけ甘ったるい香りが鼻をくすぐり、彼女の真っ直ぐな好意が伝わってきた。


「おはようございます、エルゼ様、ルナ。心配をかけて申し訳ありません。ですが、見ての通りです。もうどこも悪いところはありませんよ」


私は優しく、エルゼ様の手を包み込んだ。ルナも横で、安堵したように胸を撫で下ろしている。


「……本当に、驚いたんだから。シエルがいない間、宿を回すのがどれだけ大変か思い知ったわ。……でも、ルナ店主代理もなかなか優秀だったでしょ?」


「ええ、聞いていますよ。ルナ、貴女が宿を守ってくれたおかげで、私は安心して休むことができました。本当に助かりました。ありがとうございます」


私がルナの目を見て真っ直ぐに伝えると、彼女は顔を真っ赤にして、「……べ、別にあんたのためじゃないわよ。宿が潰れたら困るからよ」と、いつものようにツンと横を向いた。けれど、その口角が微かに上がっているのを、私は見逃さない。


「最後は、ミア様ですね」


私がそう呟いた瞬間、食堂の奥から、まだ少し眠たそうな、けれど威厳を保とうとしているミア様が現れた。


「……シ、シエル! 復活したのじゃな! お主、妾があれほど『寝ておれ』と言ったのに、勝手に厨房に入るなど……。……。……。……元気そうで、何よりじゃ」


ミア様は最初こそ語気を強めたが、私の顔を見て安心したのか、最後はふにゃりと柔らかな笑みを浮かべた。


「おはようございます、ミア様。昨夜は一晩中、寄り添ってくださってありがとうございました。おかげで、とても温かい夜を過ごせました」


私が深く一礼すると、ミア様は昨夜のことを思い出したのか、急に顔を赤らめて「……っ! 忘れるのじゃ! あれは……その、魔王としての慈悲じゃからな!」と慌てて言い繕った。


アルテミス、ルナ、エルゼ様、ミア様。皆様の顔を見渡し、私は改めて、自分がどれほど恵まれているかを痛感した。


ここは、単なる管理対象の宿ではない。私の、そして彼女たちの、「家」なのだ。


「さて、皆様。いつまでも立ち話をしているわけにはいきません。本日の宿泊客は満室、朝食の準備も急がねば。……さあ、営業を開始しましょうか。いつも以上に最高のサービスを、皆様に届けに参りましょう」


私の号令に、彼女たちが力強く頷く。宿『木漏れ日』の、新しく、そして穏やかな一日が、今、静かに始まった。



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