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第44話:『自称魔王』の甘々看病。

宿『木漏れ日』の朝。


いつもなら、あの無機質で冷徹、けれど耳に心地よいシエルの号令が響き渡り、妾の眠気を一気に吹き飛ばしてくれるはずの時間じゃ。


しかし、今日、その部屋から聞こえてきたのは、微かな、そして苦しげな吐息だけだった。


「…………シエル?」


妾は、自室を飛び出し、シエルの寝室の扉を遠慮なく開け放った。


目に飛び込んできたのは、銀色の髪を乱し、頬を薔薇色――いや、不吉な熱病の色に染めて、シーツを握りしめているシエルの姿じゃった。


「……ぁ、……ミア……様……? ……。……おはよう、ございます。……。……すぐ、……準備を……」


シエルは、震える腕で上体を起こそうとする。その瞳にはいつもの知性的な光ではなく、深い霧のような混濁が宿っておった。


「馬鹿者ッ! その状態でどこへ行くつもりじゃ!」


妾は、無意識に叫び、彼女の細い肩をベッドに押し戻した。


触れた肌から伝わる熱。それは、並の人間なら意識を失っていてもおかしくないほどの、凄まじい高熱じゃった。


「……シエル、お主、昨夜のルナの看病で治ったと言っておったではないか! なぜ、これほどまで……っ!」


激しい咳き込み。


その時、廊下から騒がしい足音が近づいてきた。アルテミス、ルナ、エルゼの3人が、顔色を変えて部屋に踏み込んでくる。


「シエル! 様子がおかしいと聞いたが……っ!」


「……うそ、……シエル!? 昨日より熱いじゃない!!」


「……ねぇ。……これ、……かなり……ヤバいんじゃないの?♡」


3人がベッドを囲もうとするのを、妾は魔王の覇気を以て一喝した。


「下がれ! お主ら!!」


空気が震え、騎士も魔術師も龍姫も、一瞬だけ動きを止める。


「……いいか、よく聞くのじゃ。シエルは、今、限界を超えて壊れかけておる。中途半端な知識で触れれば、取り返しのつかぬことになるぞ」


「……しかし、ミア! 警備や、今日の営業はどうするんだ! シエルがいない今、私たちが支えなければ……!」


アルテミスの言葉に、妾は不敵に、そして断固とした決意で笑ってみせた。


「布陣の再編を行う! よいか、今日、宿『木漏れ日』の警備は不要じゃ! 賊の一人や二人、入ってきたところで妾がまとめて灰にしてくれるわ! ……アルテミス! お主は今日一日、厨房に入れ! お主の作る、あの栄養だけは無駄にある『騎士団の滋養スープ』を、シエルのために作り続けるのじゃ!」


「なっ……、厨房だと!?」


「四の五の言うな! シエルの胃袋を支えるのがお主の任務じゃ! ……ルナは会計! エルゼは客引き! 昨日の体制を継続し、表の騒ぎをこの部屋に一切入れるな! ……そして!!」


妾は、自分自身を親指で指し示した。


「……シエルの『専属看護』は、この魔王ミアが執り行う! 一歩たりとも、この部屋には入れぬ! 掃除も、洗濯も、シエルの汗の処理も……すべて、妾一人が、妾の責任において完遂してやるのじゃ!!」


「「「…………っ!!」」」


三人が、驚愕と、そして少しの嫉妬が混じった顔をする。だが、今の妾の覇気には、誰も逆らえんかった。


「……分かった。……不本意だが……シエルを、頼むぞ」


アルテミスが苦渋の決断を下し、ルナとエルゼを連れて部屋を出ていく。


パタン、と扉が閉まり、ついにこの空間には、妾とシエルの二人だけが残された。


「……ミア……様……。……。……宿の、……稼働率が、……低下……します……。……。……警備なしは、……非合理的……」


「うるさいのじゃ、この阿呆が! 店主が消えてしまえば、効率もクソもないわ! お主は黙って、妾の慈悲に浴しておればよいのじゃ」


妾は、いつもシエルがそうするように、背筋を伸ばす仕草を真似してみた。


「……さて。まずは、熱を下げねばならんな」


妾は、冷水を入れた洗面器を用意し、真っ白なタオルを浸した。


普段なら指先一つで水を氷に変えるなど造作もないが、シエルの肌に触れるものじゃ。冷たすぎてもいかん。妾は、自分の魔力で、タオルの温度を極めて繊細に調整した。


(……ふん、どうじゃシエル。お主の計算能力、魔王である妾が本気を出せば、再現できぬことなどないのじゃぞ)


心の中で自慢しながら、妾は、熱に浮かされるシエルの額に、そっとタオルを置いた。


「…………ひゃ……っ」


シエルの小さな肩が震える。


いつもは鉄面皮な彼女が、今はただの、か弱い獲物のように見える。


その首筋からは、ひっきりなしに汗が流れ落ち、白い寝巻きを透けさせておった。


「……。……。……シエル、我慢するのじゃぞ。……これから、……その……着替えを、させるからな」


妾の顔が、火が出るように熱くなった。


魔王として、幾千の死体や裸体を見てきたはずじゃ。だが、今、目の前で無防備に横たわる、この自分を救った「人間」の肌に触れると思うと、指先が生まれたての小鹿のように震えて止まらん。


「……不本意じゃ。……これは、衛生管理という名の……任務なのじゃ! 決して、決して妾がシエルの素肌を見たいとか、そういう不純な動機ではないのじゃ!!」


誰にともなく叫び、妾は、震える手でシエルの寝巻きのボタンに手をかけた。


一つ、外すたびに、白い肌が露わになる。


シエルの肌は、月光で磨かれた真珠のように白く、そして熱に当てられて、桃のような赤みを帯びていた。


その、あまりにも美しく、儚い姿に、妾は一瞬、息をするのも忘れて見惚れてしまった。


「…………ぁ、……っ、……ミア……様……?」


微かに開かれたシエルの瞳。


妾は、心臓を直接握られたような衝撃を受けながらも、必死に「管理者の顔」を作った。


「……騒ぐな、シエル。……今から、……妾が、お主のすべてを……綺麗に……拭いてやるのじゃ」


宿『木漏れ日』の深奥。


外の喧騒を完全に遮断した、熱い空気の満ちる部屋で。


魔王ミアによる、世界で最も甘く、そして不器用な「看病」が、今、静かに幕を開けたのじゃった。



 ◆



部屋の中に満ちる、湿り気を帯びた熱い空気。


妾の指先は、さっきからずっと、シエルの柔らかな肌に触れるたびに小さく痙攣しておった。


寝巻きを新しいものに替え、汗を拭き取ったまでは良かった。だが、シエルの熱は一向に引く気配を見せぬ。


むしろ、その頬の色はさらに濃くなり、喉の奥から「……う、……ぅ……」と、熱に焼かれるような小さな悲鳴が漏れ続けている。


「……シエル、苦しいのか? 待っておれ、今すぐにアルテミスのスープを……」


妾は、お盆に乗せておいた特製滋養スープ――アルテミスが厨房で半泣きになりながら、材料の魔力を一滴も逃さぬよう煮込んだ一品――を手に取った。


「……。……。……ぁ、……ミア……様……。……。……申し訳、……ありません。……。……味が、……判別……できません……」


「馬鹿者、味などどうでもよい! これを飲んで、体調を正常に戻すのじゃ!」


妾はスプーンを口元に運ぶが、シエルの唇は熱で乾き、細かく震えておった。


……これでは、普通に飲ませても零してしまうだけじゃ。


(……くっ、……仕方のない奴じゃな。……これは、緊急措置。……そう、魔王としての慈悲に他ならぬ!)


妾は、自らスープを一口含んだ。


そして、羞恥で爆発しそうになる理性を「魔王の威厳」という名の力業でねじ伏せ、シエルの顔を両手で包み込んだ。


「…………っ、……ん、…………」


唇と唇が触れ合った瞬間、シエルの熱が直接、妾の肺腑にまで流れ込んできた。


驚きに目を見開くシエルの舌先を、妾はスープと共に優しく押し流していく。


嚥下(えんげ)する音。シエルが弱々しく、けれど必死に妾の衣類を掴み、その口付けを受け入れた。


「…………ぷはっ、…………。……ど、どうじゃ……。……少しは、……落ち着いたか……?」


離れた唇から一筋の銀糸が引く。シエルの瞳は、もはや管理者のそれではなく、ただひたすらに熱に浮かされた、一人の少女の顔であった。


「…………ぁ、…………ミア……様……。…………。……暖かい、……です。…………。……私の、……中に、……直接……流れて……きます……」


「……当たり前じゃ。妾が、魔王の魔力を込めて流し込んだのだからな」


その後も、水を飲ませ、氷嚢(ひょうのう)を替え、妾は休むことなく立ち働いた。


普段なら「お主に任せるのじゃ」と丸投げしていたあらゆる雑事を、今はこの手で行うことが、不思議と不快ではなかった。


いや、むしろ。


こうして無防備なシエルを、自分だけが世話し、自分だけがその弱音を聞いているという状況に、妾は暗い悦びすら感じていたのかもしれぬ。



 ◆



夜も更け、月が天頂を過ぎた頃。シエルの呼吸が、急に浅くなった。


「…………っ、……。…………さむい、……です。…………。……だれ、か……」


ガタガタと震えだすシエル。


熱が高すぎるあまり、脳が逆に「寒さ」を誤認しておるのじゃ。


彼女の指先は、空を掴むように彷徨い、そして、近くにいた妾の手を……千切れんばかりの力で握りしめた。


「…………ここに、……いて……。…………ひとりに、……しないで……」


その掠れた声に、妾の胸は締め付けられた。


いつも完璧で、独りで何でも管理し、私たちを導いてきたこの少女が。


その深層では、これほどまでの孤独と、誰かを求める渇望を抱えていたというのか。


「…………。…………。……分かっておる。……お主は、阿呆じゃな、シエル」


妾は、意を決して自らの上着を脱ぎ捨てた。そして、シエルの横たわるベッドに、その小さな体と共に滑り込んだ。


「…………っ、……。…………ミア、……様……?」


「……動くな。……『魔力譲渡による熱源確保』じゃ。……お主はただ、妾の体温を、妾の鼓動を吸い取っておればよいのじゃ」


シエルの細い体を、背後からぎゅっと抱きしめる。


熱い。焼けるように熱い。


けれど、シエルの柔らかな体は、妾の存在を確認するように、ぐいと背中を預けてきた。


「…………。…………。……暖かい、です。…………。……ミア様。……私、……本当は……怖かった……のかも……しれません。…………。……もし、……このまま……こわれて……しまったら……、……もう、……あなたたちと……笑えない、のではと……」


「……笑わせるな。お主が壊れたら、妾が地獄の果てからでも部品を拾い集めて直してやるわ。……お主は、妾の所有物。……妾が許さぬ限り、壊れることなど許さぬ」


妾は、彼女の首筋に顔を埋め、その甘い香りと、必死に生きようとする脈動を感じながら、静かに呟いた。


「……ゆっくり眠るがよい。……目が覚めるまで、妾がずっと、ここにおってやるからな……」


シエルの震えが、次第に収まっていく。規則正しくなった吐息が、妾の腕の中で穏やかに繰り返される。


魔王ミア。かつて世界を恐怖させたその名を持つ少女は、今、ただ一人の愛しい者を守るため、その小さな翼で、静かな夜を包み込んでいた。



 ◆



窓の外から、朝を告げる小鳥のさえずりが微かに聞こえてくる。


カーテンの隙間から差し込む一筋の陽光が、妾の瞼を優しく叩いた。


「…………ん、…………。…………シ、エル……?」


意識が覚醒すると同時に、腕の中にあったはずの「熱」が引いていることに気づき、妾は跳ねるようにして体を起こした。


「……シエル! どこじゃ! お主、また無理をして立ち上がったのでは……っ!」


「……ここにいますよ、ミア様」


静かな、そして澄み渡るような鈴の音にも似た声。


視線を向ければ、そこにはいつの間にか着替えを済ませ、窓際で眼鏡を拭いているシエルの姿があった。


朝日に照らされた彼女の銀髪は、昨日の熱病が嘘だったかのように輝き、その瞳には非の打ち所のない「管理者」としての理知が戻っておった。


「……おはようございます。体調は万全です。すべては、あなたの献身的な『看病』のおかげですね、ミア様」


シエルは眼鏡をかけると、こちらに向き直り、静かに、けれどどこか熱を持った眼差しで妾を見つめた。


「……お、お主……。本当に大丈夫なのか? 無理をしておるのではないか? まだ顔が赤いような……」


「……ええ。……顔が赤いのは、熱のせいではありません。……。……昨夜の、その……あなたの『スープの飲ませ方』や、えっと……『添い寝での独白』。それから……あの。……その時の記憶が、私の頭に鮮明に残っているせいです」


「…………っ!? ……ひ、……ひゃああぁぁぁっ!!」


妾の顔面が、一瞬で沸騰した。


お、覚えておったのか!? 朦朧としておったのではないのか!?


あの不器用な接吻(スープ運び)も、泣きながら手を握ったことも、一緒にベッドに潜り込んだことも、全部、全部……!


「……不、不敬なのじゃ! 忘れるのじゃ! あれは緊急措置! 魔王としての慈悲に過ぎぬと言ったであろう!!」


「……いいえ。……私にとっては、……何よりも重要な『記憶』です。……。……ミア様。……あなたは一日中、……私一人のために、……その気高い力を使ってくださいました。……。……次は、……私の番です」


シエルが、一歩、また一歩とベッドに近づいてくる。


なぜじゃ。昨夜まではあんなに脆く、守ってやりたいと思っていたはずなのに。今のシエルから放たれる圧倒的な「主」のオーラに、魔王であるはずの妾の体が、蛇に睨まれた蛙のように竦んでしまう。


「……な、……何を……」


「……今回の看病報酬の支払いです。ミア様。あなたは今、極度の緊張と寝不足により、魔力経路が乱れています。……私が、直接整えてあげましょう」


シエルは、妾の隣に腰を下ろすと、その細く白い指先で、妾の顎をクイと持ち上げた。


逃げられぬ。シエルの瞳の奥にある、深い慈愛と……そして、少しだけの「意地悪な愉悦」が、妾の魂を縛り上げる。


「……シ、……シエル……っ」


「……静かに。……。……昨夜の、お返しです」


シエルが顔を近づけ、その柔らかな唇が、妾の額に、そしてまぶたに、優しく触れる。


「…………っ……」


「……まだ、始まりですよ、ミア様。あなたは私に、『ひとりにしないで』と言わせてしまいましたね。その責任、たっぷりと取っていただきます」


シエルの指先が、妾の首筋を、背中を、魔力を流し込みながらなぞり始める。指が触れるたび、妾の体の中から、自分でも聞いたことがないような甘ったるい声が漏れ出した。


「……ぁ、……あぁ……っ! ……シエル……っ、……そこは……だめ、なのじゃ……っ、……妾の、……魔王の威厳が……溶けて……っ♡」


「……威厳など、いりません。……。……私の腕の中では、……あなたはただの、……健気で可愛い、……私だけのミア様であれば……それでいいのです」


シエルが妾を押し倒し、覆いかぶさる。


銀色の髪が妾の頬を撫で、シエルの心地よい香りが鼻腔を支配する。


「……なでなで、……してほしいのでしょう? ……。……いくらでも、……してあげます。……。……あなたが、……もう十分だと……泣いて許しを請うまで……」


「…………っ、……あ、あぁ……っ♡ ……ずるい、……お主、……ずるいのじゃ……っ!!」


妾は、シエルの胸にしがみつき、降参するように目を閉じた。


病み上がりのはずの主人の指先は、誰よりも熱く、そして誰よりも深く、妾の心を「わからせて」いく。


――数刻後。


部屋の扉をノックする音が響いた。


「シエル! 復活したというのは本当か!? 厨房に連絡があったが……」


「……ねぇ。……おまたせ♡ ……シエル、元気になったのね?♡ ……って、……あ、あれ?」


飛び込んできたアルテミスとエルゼ、そしてルナが見たのは。


シエルの膝の上で、完全に魂を抜かれたような、幸せそうな顔で丸まって眠っているミアと。


その頭を、慈しむように「なでなで」しながら、涼しい顔で書類に目を通しているシエルの姿だった。


「……おはようございます、皆様。本日の営業に、遅滞はありません。……ただし、ミア様が少々『過剰なお手入れ』により、稼働不能となっておりますので、午前中の給仕は、私が、直接行います」


「「「…………っ!!(ずるい!!)」」」


三人の嫉妬の叫びを、シエルは「……不合理な音量ですね」といつもの無機質な声で受け流す。


店主の帰還。


宿『木漏れ日』の支配権は、再び彼女の手に戻った。


けれど、その指先には、今までよりもずっと温かな、家族を、そして愛する者を想う「不合理」な熱が、確かに宿っていたのだった。



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