第43話:『女魔術師』の甘々看病。
宿『木漏れ日』の朝は、いつもシエルの完璧な号令で始まる。
けれど、今日のロビーに響いているのは、彼女の無機質な美声ではなく、私の荒い鼻息だけだった。
「……いい? みんな。シエルは今、過労による『強制安眠モード』に入ってるわ。……あ、アルテミスはそのまま看病を続けて。あとのメンバー、そこに並びなさい!」
私は、シエルがいつも使っている管理用のバインダーを胸に抱え、不敵な笑みを浮かべた。
目の前には、不満げな顔のエルゼと、今にも「妾が主導権を握るのじゃ!」と言い出しそうなミア。
「……ねぇ。……生意気~♡ ……ルナ、あんたに店主の代わりなんて務まるの? ……ざぁこ♡ なあんたじゃ、一時間で宿が火の海になっちゃうわよ?♡」
「なんですってぇ!? 私はシエルから直接、魔力の並列演算を教わったのよ! この宿の管理ログだって、私の解析魔法にかかれば一瞬なんだから!」
私は杖を振るい、空中に巨大な魔力スクリーンを展開した。
そこには、シエルが毎日管理していた「在庫表」「予約リスト」「客単価推移」「清掃スケジュール」が、膨大な数式となって踊っている。
「……シ、シエル……。……お主、毎日こんな複雑なことを、あの平然とした顔でやっておったのか……」
ミアが、スクリーンの情報の密度に、少しだけ引いている。
ふふん、勝ったわね。
「そうよ。シエルがいなきゃ、この宿はただの『豪華な家』でしかないわ。……でも! 彼女が起きた時に、宿がめちゃくちゃで『あちゃー、管理不足ですね(笑)』なんて言わせたくないでしょ!?」
「……それは、……癪ね。……シエルには、完璧なあたしだけを見ててほしいもの。……分かったわよ。……今日だけは、あんたの指揮に従ってあげるわ。……感謝しなさいよね?♡」
「……妾も、仕方なく協力してやるのじゃ! ……シエルのためなら、少々の妥協は厭わぬ!」
ようやく足並みが揃った。
私は、シエルの管理術を模倣しつつ、独自の『ルナ式・高効率命令』を脳内で組み立てる。
「……よし! ミア! 貴女はその王族としての威厳を『最高級の接客』に回して! 客が不満を言おうとしたら、その前に威圧感で『この宿は素晴らしい』って思わせるのよ! ただし、怖がらせすぎないこと、いいわね!?」
「……お、おう! 妾に任せるがよい! 『魔王の微笑み(ロイヤル・スマイル)』で、客の魂を鷲掴みにしてくれるわ!」
「エルゼ! 貴女は外で『メスガキ看板娘』の役割を継続! でも、今日はただ煽るだけじゃなくて、客を誘導して回転率を上げなさい! 貴女の『ざぁこ♡』で客を店内に押し込むのよ!」
「……ふん。……注文が多いわね。……でも、……おもしろそう♡ ……あたしが、客たちを『わからせて』、お金を落とさせればいいのね?♡」
2人がそれぞれの配置へと駆けていく。
私はロビーのカウンターに座り、シエルがいつも掛けている位置に眼鏡をセットした。伊達だけど、気分が出るわね。
「……さあ、営業開始よ! 『宿・木漏れ日』、オープン!」
それからは、まさに戦場だった。
客が押し寄せる。精算の列ができる。
私は脳内の全リソースを並列演算に回し、フロントの受付を行いながら、厨房の調理進捗を魔法で監視し、廊下で迷っている客には使い魔の光を飛ばして案内する。
「……っ、……あ、あつい……。……脳が、焼けそう……」
シエルが毎日やっていたことの、たった半分をやっているだけなのに。
彼女の凄さが、骨の髄まで染みてくる。
「……ねぇ。……ルナ、顔が真っ赤よ?♡ ……やっぱり、……ざぁこ♡ だったかしら? ……ほら、あっちのテーブルの注文が滞ってるわよ!♡」
私はもともと攻撃魔法専門なのよ!と心の中でツッコミを入れる。
「……分かってるわよ! 今、厨房に加速魔法をかけたから! ……エルゼ、貴女こそ、その不敬な態度で客を怒らせすぎないで! 宥めるのは私の仕事なんだから!」
「……あははっ! ……いいじゃない。……あんたが必死に宿を守ろうとしてる姿。……意外とかっこいいわよ?♡ ……だから、……あたしも、……もう少しだけ、……本気でやってあげるわ!♡」
エルゼが、不意にそう言って、さらに艶やかな笑みを客に向けた。
……あ、今、エルゼが私を認めた。ちょっと嬉しい。
◆
夕暮れ時。
なんとか大きなトラブルもなく、昼の営業を終えることができた。
宿の帳簿には、シエルの時と遜色ない、立派な数字が並んでいる。
「……ふぅ。……なんとか、……なった、わね……」
私はカウンターに突っ伏した。
達成感。それと、強烈な「会いたい」という気持ち。
「……よくやったわ、ルナ。……シエルも、これなら文句は言わないはずよ。……お疲れ様♡」
エルゼが、珍しく素直に(言葉のトゲを最小限にして)私の肩を叩いた。
「……ありがと。……でも、……本当の仕事は、これからよ」
私は、今日一日の詳細なログをまとめた報告書を手にした。
これを、愛しいあの人に届けに行かなきゃ。
アルテミスと交代して、夜の看病(独占タイム)を勝ち取るために。
◆
宿の喧騒が遠ざかり、魔法灯の明かりが淡く廊下を照らす時間。
私は、指先に残る魔力残滓のピリピリとした痺れを感じながら、シエルの部屋の前に立っていた。手には、今日一日の出来事を一文字の妥協もなく記録した、分厚い報告書。
「……ふぅ。……よし。……顔色は、大丈夫ね」
廊下の姿見で自分の顔をチェックする。頬が少し上気しているのは、疲れのせいだけじゃない。これからシエルと二人きりになれるという、不謹慎な期待のせいだ。
扉をそっと押し開けると、そこにはベッドの傍らでシエルの手を握ったまま、椅子に座って微睡んでいるアルテミスの姿があった。
「……アルテミス。起きて」
私が小さく声をかけると、彼女は騎士らしい鋭さで即座に目を開けた。
「……ルナか。……営業は、終わったのか?」
「ええ。完璧よ。……シエルの管理ログを解析して、リソース配分を最適化したわ。……報告書もまとめてある。……だから、……あとは、私に代わって」
私がバインダーを差し出すと、アルテミスは少しだけ寂しそうな、けれど納得したような顔で立ち上がった。
「……分かった。……ルナには苦労をかけたな。……シエルの熱は、もう完全に引いている。……今は深い眠りについているようだ。……あとは、頼む」
アルテミスが部屋を出ていき、パタン、と扉が閉まる。
ついに、静寂(二人きり)が訪れた。
私は吸い寄せられるようにベッドの脇へ歩み寄り、シエルの寝顔を見つめた。
彼女の顔は、月の光を浴びて、壊れそうなほどに美しい。普段の無機質な「管理者」としての仮面が剥がれ落ち、そこにあるのは、ただの、少しだけお疲れ気味な一人の少女の姿だ。
「…………シエル」
私は椅子の端に腰を下ろし、彼女がシーツの外に出していた手を、そっと両手で包み込んだ。
熱は、本当に下がっている。
ひんやりとして、けれど芯に確かな生命の鼓動を感じる、大好きな人の手。
「……今日ね、大変だったんだから。……ミアは勝手にメニューを『魔王風』に書き換えようとするし、……エルゼは客を煽りすぎて、一回乱闘騒ぎになりかけたんだから。……でも、……私が全部止めたのよ。……シエルに教わった並列演算で、……全部、……上手くやったんだから……」
誰に聞かせるでもない報告を、私はポツポツと零し始めた。
報告書に書いた数字や事実じゃない。
私がどれだけ彼女を想って、どれだけ必死にその居場所を守ろうとしたか。
その「過程」を、彼女の潜在意識に直接刻み込むように。
「……ねぇ、シエル。……私、……シエルがいない宿なんて、……全然楽しくなかった。……計算が合っても、……客が満足しても、……最後にシエルが『……よくできました』って言ってくれないと、……何の意味もないのよ……」
視界が、不意に潤んだ。
天才魔術師なんて呼ばれて、一人で何でもできるつもりでいた。
でも、シエルの隣にいる今の私は、彼女に認められたくてたまらない、ただの子供みたいだ。
「……起きたら、……また私を、……『ルナ』って呼んで。……『有能ですね』って、……冷たい声で、……でも優しく、……なでなでして……。……ねぇ、……起きてよ……シエル……」
私は耐えきれず、彼女の手を自分の頬に押し当てた。
そのまま、彼女の指先に口付ける。
シエルが不在の間、私は「店主代理」という鎧を纏っていた。
でも、今この瞬間だけは、その重い鎧を脱ぎ捨てて、ただの、寂しがり屋なルナに戻ってもいいよね?
「…………ぅ、…………ん……」
その時。
私の指に触れていた、彼女の細い指が、微かにぴくりと動いた。
「……ぁ……」
私は息を呑んだ。
ゆっくりと、本当にゆっくりと。
睫毛が震え、その奥から、澄んだ深い海のような瞳が、私を映し出した。
「…………ルナ、…………?」
熱に浮かされていた時よりも、ずっとはっきりとした、けれど寝起きの甘さを孕んだ声。
私の心臓が、耳元で鳴っているのではないかと思うほど激しく跳ねた。
「……シ、シエル……っ! ……気がついたの!? ……どこか痛い? ……それとも、喉が渇いた?」
「……いえ。……問題、ありません。……ただ、……少し、……騒がしい報告者がいるなと……思いまして……」
シエルが、少しだけ口角を上げた。……笑った。
彼女は、私の手を握り返すと、ぼんやりとした視線で私を見つめた。
「……ルナ。……今日の営業ログ、……寝入り端に、……すべて聞き届けましたよ。……完璧な、……代行業務でした。……私の、……自慢の……パートナーです」
「…………っ!!」
その一言で、私の我慢は限界を迎えた。
私は彼女の胸に顔を埋め、子供のように泣きじゃくりながら、彼女の体をぎゅっと抱きしめた。
「……バカ! ……遅い、遅いのよ! ……心配したんだから! ……もう、……もう勝手に倒れたりしないでよぉ!!」
「……はい。……善処します。……。……ルナ、頑張りましたね。……こちらへ」
シエルが、私の頭に手を回した。
弱々しいけれど、何よりも欲しかった温もりが、私の髪を、心を、ゆっくりと解きほぐしていく。
◆
月明かりが、静まり返った寝室の床に、青白い幾何学模様を描き出している。
私の胸に顔を埋めて、しゃくり上げるルナの震えが、シーツを通じて私の肌にダイレクトに伝わってきた。
私は、自分の胸元を涙で濡らす彼女の、柔らかな背中に腕を回した。
いつもなら「不合理です」と窘めるところですが、今夜は、私の回路もどこか「設定ミス」を起こしているようです。
「……ルナ。……もう大丈夫ですよ。……。……私はここにいます。……逃げも、……隠れもしません」
「……う、うぅ……っ。……うそつき……っ! ……あんなに、……あんなに死んだみたいに眠ってたのに……っ。……私、……怖かったんだから……!」
ルナが、私のパジャマの胸元を、ぎゅっと握りしめる。
その指先の震えが、愛おしくて、切なくて。
「……謝罪します。……。……お詫びに、……頑張ったあなたに、……『特別な報酬』を差し上げましょう。……ルナ、……顔を上げてください」
私が囁くと、ルナは恐る恐る、涙で潤んだ瞳をこちらに向けた。
赤くなった鼻先。乱れた髪。……ふむ、完璧な「守るべき対象」としての外装ですね。
「……報酬、って……なに……? ……また、……なでなで……だけ?」
「……いえ。……今夜は、……それでは不足していると、私の直感が告げています」
私は、ルナの腰に手を回し、そのまま彼女を自分の方へと引き寄せました。
ベッドの上に、二人の影が重なる。
「……ルナさん。……エネルギーが、……著しく欠乏しています。……。……私の魔力を、……直接、……流し込みます。……覚悟は……よろしいですね?」
「……え、……ぁ、……直接って……」
ルナが戸惑う間も与えず、私は彼女のうなじを左手で固定し、そのまま、彼女の耳元に唇を寄せました。
「…………っ!? ……ひ、……ゃぁ……っ♡」
吐息が触れるだけで、ルナの体が跳ねる。
私は彼女の耳たぶを、熱を持った指先で、ゆっくりと、執拗になぞり始めました。
「……あっ、……あぁ……っ! ……シエル……っ、……そこ、は……だめ……っ、……変な感じ、する……っ♡」
「……だめ、ではありません。……。……これは、……頑張った代理人への、……『特権』です。……。……あなたの魔力回路が、……私の温もりで、……満たされていくのを……感じてください」
私は、耳の裏から首筋、そして鎖骨のラインにかけて、自分の指先を滑らせていきました。
病み上がりの私の指先は、いつもより高い体温を宿しており、それがルナの敏感な肌に触れるたび、彼女の喉から甘い悲鳴が零れます。
「……ぅ、……ぁ……っ、……ずるいよ……っ、……シエル……。……こんなの、……私、……もっと、……おかしくなっちゃう……っ」
「……おかしくなればいいのです。……。……今夜のあなたは、……店主の所有物ですから。……。……。……ルナさん、……もっと、……近くへ」
私は、ルナの細い体を、壊れないように、けれど逃げられないように強く抱き寄せました。
彼女の柔らかな膨らみが、私の胸に押し当てられる。
ルナは顔を真っ赤にしながらも、拒絶することなく、私の肩に腕を回して、私にすべてを預けてくれました。
「……シエル、……大好き……。……。……もう、……どこにも行かないで……。……ずっと、……私の……シエルでいて……っ」
「……はい。……約束します、ルナ。……。……今夜は、……朝まで、……あなたの隣にいます」
月光の下。
病み上がりの主人の、熱っぽくも冷静な「添い寝」。
そして、それに蕩かされる、不器用な代理人の、甘い吐息。
2人の影は、夜の静寂の中で、一つに溶け合っていきました。
◆
――翌朝。
眩しい太陽の光が、宿『木漏れ日』の窓を叩く頃。
部屋の扉が、またしても「不敬な」衝撃によって開かれた。
「……シエル!! 復活したのじゃな!? ……って、……あ、あれ? ……ルナ? ……なぜお主が、……シエルのベッドで、……そんなに『賢者タイム』のような顔をして、……ぐったりしておるのじゃ!?」
乱入してきたミアが、指を指して驚愕する。
私の腕の中で、完全に「甘やかし抜かれた」ルナは、幸せそうな、それでいて少しだけ魂が抜けたような表情で、微睡んでいました。
「……おはようございます、ミア様。……ルナ代理人の貢献度が極めて高かったため、……最大出力での『特別お手入れ』を実施しました。……。……結果、……彼女の稼働率が一時的に低下しているようです」
私は、まだ少し熱の残る声で告げた。
「……な、……なんじゃとぉぉぉ!! 妾も、妾も一晩中、厨房でジャガイモの皮を、寝ながら剥いてたのじゃぞ! 不公平じゃ!!」
「……ねぇ。……抜け駆け~♡ ……ルナ、あんた……ざぁこ♡ な癖に、……シエルを独占するなんて、……お仕置きが必要ね?♡」
ミアとエルゼも加わり、宿『木漏れ日』の朝は、昨日よりもさらに激しい「争奪戦」と共に幕を開けました。
「……ふむ。……宿の評判、および従業員の士気。……。……私の体調以外は良好なようですね。……。……さあ、……本日も、……営業を開始してください」
冷静な、けれどどこか満足げな呟きが、宿の喧騒の中に、心地よく溶け込んでいった。




