第42話:『女騎士』の甘々看病。
「――シエル!!」
在庫室から響いた不自然な衝撃音。私の直感が、心臓を直接掴まれたような不吉な予感を告げていた。
駆け込んだ先で目にしたのは、床に散らばったリネンと、その中央で糸の切れた人形のように倒れ伏している、愛しい人の姿だった。
頭が真っ白になった。
戦場でも、追放の宣告を受けた時でも、これほど指先が震えたことはない。
「シエル! しっかりしろ! シエル!!」
彼女の細い肩を抱き寄せ、その顔を覗き込む。
いつも整然と整えられていた表情が歪み、陶器のように滑らかだった肌は、驚くほどの熱を帯びて赤らんでいた。
「……ああ、なんてことだ。これほどの熱を出しながら、君は平然と、無表情のまま、仕事をこなしていたのか……っ!」
彼女の無機質さに甘えていた。
彼女が「問題ありません」と言えば、それが真実だと信じ込んでいた。だが、彼女は機械ではない。私たちと同じように、いや、誰よりも宿のために、私たちのために、その身を削っていたのだ。
「アルテミス!? 何があったのじゃ!? ……シエル!? シエルがどうしたのじゃ!!」
「……そんな、シエル……っ! うそでしょ……っ!?」
騒ぎを聞きつけたミアとルナ、そしてエルゼが廊下に雪崩れ込んできた。
「……皆、静かにしろ。シエルは過労で倒れた。……今は、休ませるのが最優先だ」
私は努めて冷静な声を出し、彼女たちを制した。だが、私の腕の中でぐったりとしているシエルの重みが、彼女がいかに「今、壊れそうか」を雄弁に物語っており、胸が張り裂けそうになる。
「……あたしが、あたしが看病するわよ! 竜族の魔力なら、これくらいの熱……っ!」
「……ならぬ! 妾が、妾の秘術で……っ!」
詰め寄る彼女たちを、私は鋭い眼光で射抜いた。
騎士として戦場を支配していた頃の、本気の威圧だ。
「……だめだ。君たちは、宿の営業を続けろ。シエルが一番悲しむのは、自分がいないことで宿の管理が疎かになることだ。……ここは、私が看る。……騎士の誓いにかけて、彼女を元の『完璧な管理者』に戻してみせる」
私の剣気に押され、三人が言葉を呑む。
……正直に言えば、騎士の使命感だけではない。
今の、弱りきって、私の助けを必要としているシエルを、誰にも渡したくないという……醜い独占欲が、私の胸の内で鎌首をもたげていた。
私は彼女を横抱き(お姫様抱っこ)にし、彼女の自室へと運んだ。
シエルの部屋は、彼女の人柄を表すように簡素で、清潔だった。
ゆっくりとベッドに横たえる。
「……眠っていると、本当に……幼く見えるな、君は」
熱に浮かされ、時折「……効率が……」「……在庫が……」と、うわ言を漏らす彼女。
私は洗面器に水を汲み、冷たいタオルで彼女の額を拭った。
「……すまない、シエル。君にばかり、重荷を背負わせていたな」
私は彼女の手を握りしめた。
いつもなら「非合理的です」と撥ね除けられるであろう行為。だが、今の彼女は、私の体温を求めるように、微かに指先を絡めてきた。
トクン、と心臓が跳ねる。
「……ぁ、……アルテミス…………?」
長い睫毛が震え、虚ろな瞳が私を捉えた。
だが、その焦点は定まっていない。
「……シエル、気がついたか!? わかるか、私だ。アルテミスだ」
「……はぃ、……アルテミス……。……すみません……、……処理能力が……低下……していて……。……すぐ……戻り、ます……から……」
そう言って起き上がろうとする彼女を、私は強引に押し留めた。
その体は驚くほど軽く、そして熱い。
「……ダメだ。動くな。……いいか、シエル。……君は今から、全力で『休養』という任務を遂行しろ」
「……任務……? ……休養、……ですか……」
「そうだ。……私が、君を看病する。……だから、安心して……私に、甘えてくれ」
シエルは一瞬、呆気に取られたような顔をしたが、やがて熱のせいか、それとも私の言葉のせいか、頬をさらに赤くして、小さく頷いた。
それからの時間は、私にとって生涯忘れることのできない、甘美で、切ない時間だった。
水を飲ませようとしても、彼女は自分ではグラスを握れない。
私はスプーンで一杯ずつ、彼女の唇を湿らせるように運んでいく。
「……ぁ、……美味しい、です……。……アルテミスの……淹れてくれた、水……」
「……ただの水だ。……だが、君がそう言ってくれるなら、いくらでも運ぼう」
汗をかけば、新しい寝巻きに着替えさせなければならない。
……もちろん、理性との戦いだった。
露わになる、白く繊細な肌。彼女が普段、鉄の規律で隠している、あまりにも無防備な少女の輪郭。
私の手は震え、視線を泳がせながらも、彼女を清潔に保つために、丁寧に、そして壊れ物を扱うように体を拭った。
「……シエル。……君は、本当に……ずるいな」
眠りに落ちかけた彼女の額に、私は耐えきれず、唇を寄せた。
騎士としてではなく、一人の女として。
この時間が、ずっと続けばいいと思ってしまった。
彼女が弱っている今だけは、彼女のすべてが、私の腕の中にあるのだから。
◆
窓の外では、夜の帳が降り、静謐な月光が宿の庭を青白く照らしていた。
自室の中もまた、揺らめくランプの火影が壁に長い影を落とすだけの、穏やかな時間が流れている。
ベッドの傍らで、椅子に座ったまま机に突っ伏して眠っているのは、アルテミスだった。
彼女はあれから一睡もせず、熱が上がるたびにタオルを替え、うわ言を漏らせばその手を握り、騎士の誓いを守るように看病を続けていた。だが、極度の緊張と安堵が重なり、明け方を前にしてついに力尽きたらしい。
「…………ん……」
不意に、睫毛が微かに震えた。
数時間に及ぶ「昏睡」を経て、彼女の脳内もようやく動き出す。
私はゆっくりと上体を起こした。
視界に入ってきたのは、ぼやけた世界。そして、自分の右手をしっかりと、けれど守るように優しく握りしめたまま、安らかな寝息を立てているアルテミスの銀髪だった。
(……アルテミス。……あなたが私をここまで運び、……10時間以上にわたり、……看病してくださったようですね)
アルテミスの寝顔は、普段の凛々しさが嘘のように無防備で、眉間にわずかな疲れを滲ませていた。
「……不合理です、アルテミス。……一介の店主のために、……あなたが、……これほどリソースを割くなんて」
言葉とは裏腹に、自分の胸の奥――感情が薄いはずの場所に、言語化できない「熱」が灯っていた。それは、先ほどまでの熱病による不快な熱さではなく、回路の隅々まで行き渡るような、甘く、痺れるような感覚。
私は、自分の手を握るアルテミスの手に、そっと自分の手を重ねた。
そして。
いつもは自分が彼女たちに施している「お手入れ」を、今は自分が受ける側ではなく、与える側として行うことに決めた。
「……お疲れ様、アルテミス。……私のために、……ありがとう」
弱々しく、けれど確かな意思を持って、アルテミスの頭に手を置いた。
指先が、銀色の滑らかな髪に沈み込む。
――なで、なで。
普段の「お手入れ」を目的とした効率的な愛撫ではない。
感謝。労り。そして、自分を必死に繋ぎ止めてくれたことへの、深い情愛。
「……ん……、シ……エル……?」
その温もりに反応して、アルテミスがゆっくりと顔を上げた。
寝ぼけ眼の彼女の視線の先に、微かに微笑んでいるように見える私の顔があった。
「……あ、……起きたのか!? シエル! 体調は!? 気分はどうだ!?」
「……落ち着いてください、アルテミス。……少し楽になりました。……それよりも、……あなたの管理不足を指摘しなければなりません」
「……管理不足?」
アルテミスが呆気に取られる中、彼女の頬にそっと手を添え、至近距離でその瞳を見つめた。
「……あなたは、……自分の限界を超えて私に尽くしすぎました。……そんなに憔悴した顔をされては、……私が、……悲しいではありませんか」
「…………っ!!」
アルテミスの顔が、一瞬で耳まで真っ赤に染まった。
私が「悲しい」という言葉を使った。自分のために「心」を露わにした。
「……あ、……ああ……。……すまない。……だが、私は……君がいない世界など、想像しただけで……怖かったんだ」
「……分かっています。……ですから、……今夜は、……私があなたを『お手入れ』して差し上げます。……病み上がりの私の指先は、……いつもより、……少し熱いかもしれませんよ?」
私がアルテミスをベッドの方へと引き寄せ、その胸に顔を埋めさせるように抱きしめた。
夜の静寂。
私の指先が、アルテミスの背中を、うなじを、耳の裏を、丁寧に、熱っぽくなぞっていく。
「……ぁ、……シエル……っ。……これじゃ、……どっちが看病されてるのか……わから、ない……っ」
「……いいのです。……今は、……私だけを見ていてください。……主としての、……わがままです」
アルテミスは、私の熱っぽい指先に翻弄されながら、甘い溜息を漏らし、その温もりに完全に身を委ねた。
――だが。
幸せな時間は、常に「外的な雑音」によって遮られるのが、宿『木漏れ日』の常だった。
バァァァァァァァン!!
扉が、凄まじい勢いで蹴破られた。
「……ちょっとぉぉぉ!! アルテミス!! 二人きりで、……何してるのよぉぉぉ!!♡」
乱入してきたのは、憤怒の形相と、隠しきれない嫉妬の涙を浮かべたエルゼだった。
その後ろには、般若のような笑みを浮かべたミアと、杖を構えたルナが立っている。
「……アルテミス。……不敬なのじゃ。……シエルが目覚めたのなら、……真っ先に妾に報告すべきだったのではないか? ……ん? ……その、……シエルの寝巻きの乱れは、……どういう説明になるのじゃ?」
「……そうよ。……シエル、……アルテミスだけに『ご褒美』なんて、……不公平だわ。……私も、……私も心配したんだから!」
「……ねぇ。……おそ~い♡ ……アルテミス、あんたの看病なんて、大したことないんだから……今すぐそこを代わりなさい! ……シエルは、あたしが『わからせて』あげるんだから!!」
エルゼがベッドにダイブし、私の空いている方の腕を強引に奪い取る。
宿『木漏れ日』は、昨日よりもさらに騒がしい。
店主の不在は、皮肉にも、彼女たちの絆と「依存度」を、より強固なものへと書き換えてしまったようだった。




