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第4話:備品のメンテナンスは主人の義務ですので


白こそが、世界の正義だ。


……唐突に何を、と思うかもしれないが、前世の私にとってそれは比喩ではなく、生存戦略そのものだった。


深夜二時。誰もいない薄暗いコインランドリーや、ワンルームマンションの狭い浴室。そこで私は、仕事で泥を被り、上司の失態を吸い込み、部下の涙を拭ったブラウスを洗っていた。


どんなに理不尽な一日だったとしても、真っ白な石鹸を塗り込み、汚れを根こそぎ叩き出し、翌朝にピンと張った清潔なシャツに袖を通す。その瞬間だけが、私が私として、この「汚れた世界」に対して唯一コントロール権を持っている時間だった。


中でも、私の救世主だったのが『ウタマロ』だ。


あのどこか懐かしい緑色の塊を、頑固な襟汚れに擦り付けて揉み洗いする。みるみるうちに汚れが浮き上がり、新品のような白さが戻ってくる。あの快感。あの達成感。


締切に追われ、心臓が悲鳴を上げていた私の正気を繋ぎ止めていたのは、間違いなくあの緑色の石鹸だったと言っても過言ではない。


(……ああ。次はもっと、汚れを真っ白にできる仕事がしたい……)


死の間際にそんなことを願ったせいだろうか。


今世の私……宿屋『木漏れ日(こもれび)』の店主であるシエルには、特殊な「生活魔法」が備わっていた。


私が「ウタマロ」の質感を強くイメージしながら魔力を指先に集めると、そこから発生するのは、通常の浄化魔法とは一線を画す、圧倒的な洗浄力を持った弾力のある泡。


私はこれを勝手に『ウタマロ魔法』と呼んでいる。


これさえあれば、宿のシーツは常に雲のように白く、客の心にこびりついた汚れさえも……まあ、それなりに落とせる。


「……さて。本日のメインタスクを確認しましょうか」


私は一階の厨房で、宿泊客……もとい、昨夜収容した「アルテミス様」に提供するための朝食を用意し終え、トレイを持って二階へと上がった。


昨夜、泥まみれで捨てられていたあの聖騎士。


あの後、ウタマロ魔法を駆使して彼女の体を最低限「洗浄」し、薬草風呂でリラックスさせた。今は、私が用意したオーバーサイズの部屋着……前世の感覚で言うところの「彼シャツ」ならぬ「宿シャツ」を着て寝ているはずだ。


二一三号室の前で立ち止まり、ノックをする。


「お客様、失礼します。モーニングコールの時間です」


返事はない。


まあ、あれだけの激務と魔力枯渇だ。そう簡単に起きられるはずもない……と思っていたのだが。


ガチャリ、と扉を開けて中に入った瞬間、私の視界に飛び込んできたのは、あまりにも「不用心」な光景だった。


「……んぅ……あ、シエル……?」


ベッドの上。そこには、昨夜までの悲壮感あふれる最強騎士の姿はなかった。


銀色の髪は乱れ、大きなサイズのシャツは肩からはだけ、細い首筋と鎖骨が朝露に濡れたように光っている。


さらに問題なのは、彼女の姿勢だ。


彼女は仰向けになり、あろうことかシャツの裾がずり上がって、その滑らかな「お腹」を完全に露出させていた。


鍛えられているが、女性らしい柔らかさを残した真っ白な肌。


そこを、アルテミスはあろうことか、


「……ぅ……ん……?」


ぽりぽり。


無防備極まりない手つきで、自分のお腹をぽりぽりと掻いていたのだ。


ぽりぽり、というよりは、実家の茶の間でくつろぐおっさん……いや、受験勉強を放棄した女子高生のような、あまりに品のない仕草。


世界を救うと言われた聖騎士の威厳は、現在、推定マイナス一万といったところだろう。


「お客様。そのだらしない姿は、当宿の『おもてなし空間』の規律に抵触します。あと、お腹を出しっぱなしにすると冷えますよ」


私は無表情のまま近づき、トレイを置くと、彼女が掻いていた手を無機質にペシッと叩いた。


「ふぎゃっ!? ……え、あ、シエル?」


ようやく意識がはっきりしたのか、アルテミスが金色の瞳を大きく見開いた。


自分の姿……はだけたシャツ、露出したお腹、そしてそれを今、小さな女主人の前で晒しているという状況を、彼女の脳がようやく処理し始めたらしい。


「あ、あああ、す、すまない! これは、その、あまりにもシーツが心地よくて、つい……!」


「言い訳は不要です。……人間、極限まで追い詰められた後に極上の安息を与えられると、退行現象が起きるのは医学的にも証明されています。私の部下も、残業一〇〇時間を超えたあたりで哺乳瓶を欲しがった事例がありましたから」


「なんだその地獄のような職場は……。だが、その、私としたことが……こんなに無防備に眠れるなんて、何年ぶりだろうか」


アルテミスは顔を真っ赤にしながら、慌ててシャツの裾を整え、お腹を隠した。


だが、その瞳には昨夜のような死の色はない。


戸惑いと、気恥ずかしさと、そしてほんのわずかな……甘えの色。


「……シエル」


「はい、なんでしょう」


「……お腹、空いた。あと、まだここ、少し痒いんだが」


彼女は上目遣いに、今度は掻くのを我慢するように、もじもじと指先を動かした。その様子は、まるで飼い主に構ってほしい大型犬のようだ。


私は心の中で「やれやれ」と嘆息……はせず、ただのタスクとして処理することにした。


「食事は今ここに。痒みについては、昨夜の薬草風呂のデトックス効果による好転反応でしょう。……あまりに痒いようでしたら、追加料金として『軟膏の塗布サービス』も承りますが?」


「……お、お願い、する……。あと、その……あーん、とか……してくれたり、するのか?」


聖騎士様が、ついに思考まで幼児化し始めたようだ。


勇者のパーティでは「最強の盾」として常に最前線で気を張り、誰にも甘えることを許されなかった彼女。


そんな彼女にとって、この不感症でドライな私の接客は、逆に気を使わずに済む「究極の揺りかご」になっているらしい。


「あーんは『自立支援サービス』外ですので、割増料金になりますが、よろしいですね?」


「ああ、いくらでも払おう……。だから、その……私を、放っておかないでくれ」


シャツの裾をぎゅっと握りしめるアルテミスの指先。


私は無感情に、けれどその手に温かいスープのスプーンを添えた。


これほど美しい女が、ただのスープ一口で、涙を流さんばかりに喜んでいる。


……あーあ。これはもう、完全な依存ルート確定ですね。


前世のブラック企業よりはマシだが、この「太客(ヒロイン)」、メンテナンスが相当大変そう。


「……まずは一口。話は、胃袋を満たしてからです」


私は事務的に、けれど誰よりも丁寧に、彼女の口元へ「救済」を運んだ。




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