第39話:『The クレーマー』。
宿『木漏れ日』の活気溢れる食堂に、その男は「毒」を撒き散らすように現れた。
豪奢な毛皮を纏い、嫌味なほどに宝石を散りばめた指で鼻を抑え、ガストル伯爵は周囲の冒険者や商人たちを汚物でも見るような目で見渡した。
「……ふん。カビ臭いな。これだから辺境の宿というのは。……おい、そこのモブ顔の女。貴様がここの店主か?」
ガストルが、カウンターで帳簿をつけていた私を、鞭のような指先で指し示す。
その不遜な態度に、警備についていたアルテミスの手が剣の柄にかかり、厨房のミアが「不敬な奴なのじゃ……」と魔力を漏らすが、私は無機質な動作で言葉を返す。
「……はい。シエルと申します。ガストル伯爵ですね。事前予約なしでのご来訪、本来であれば規約違反ですが。本日、たった一席だけ、『特別に』ご用意できる席がございます。ご案内しましょうか?」
「ふん、当然だ。王都最高の舌を持つこの私を待たせるなど、万死に値するからな」
ガストルは、シエルが案内した「他の客から隔離された特等席」に腰を下ろすと、周囲に侍らせた看板娘たち――特にエルゼを、値踏みするように眺めた。
「……それにしても、噂通りの掘り出し物だな。そこの赤い髪の娘。……辺境で腐らせておくには惜しい。どうだ、王都に来て私の『愛玩犬』にならんか? ……貴様のような卑しい女には、……この私に傅くことが何よりの栄誉だろう?」
その瞬間。
食堂の空気が、絶対零度まで凍りついた。
「古龍」であるエルゼを「犬」と呼んだその愚行に、彼女の紅色の瞳が細まり、指先から紅蓮の火花が散る。
「……ねぇ。耳、腐ってるの?♡ あんたみたいな、脂ぎった豚に飼われるくらいなら、今すぐここで、あんたを丸焼きにして、宿の朝食の肥料にしてあげるわよ? ……ばぁぁか♡」
「な……っ!? な、なんだと、この下賤な女が……!!」
ガストルが激昂して立ち上がろうとしたが、私がその肩に、羽毛のような軽さで、だが逆らえない重圧を伴う手を置いた。
「……お客様。当宿の従業員に対する、『所有権の侵害』および『人格否定』。これらは宿泊規約第十七条に基づき、追加料金の対象となります。お静かに」
「……ぐ、……離せ! 貴様、私を誰だと思っている! 私の評価一つで、この宿など一日で潰せるのだぞ!」
「……評価、ですか。承知いたしました。ならば、伯爵のその『王都一の舌』とやらが、いかに価値のないものか、私が証明して差し上げましょう。今から提供する料理を一口でも食べ、もし不満があれば、王都で記事を出してくださっても結構です。『この宿の飯は不味い』と。……ただし」
私の瞳が、一瞬だけ計算機のような冷徹な光を放つ。
「……もし、完食された上で、私の料理に屈服された場合は、相応の『対価』を支払っていただきます。よろしいですね?」
「……ふんっ、面白い! 辺境の料理人ごときが、この私に屈服だと? 良いだろう、その言葉、後悔させてくれるわ!」
ガストルが不敵に笑う。
私は無言で厨房へと下がり、現代知識に基づく「魔力調理法」を開始した。
食材の分子構造を解析し、最高に旨味が引き出される温度を制御。
異世界の調味料では再現不可能な、味の「黄金比」を、私の思考が再構築していく。
数刻後。
私が運んできたのは、一皿の「リゾット」だった。
だが、それはただのリゾットではない。
最高級の魔核米を、ドラゴンの炎で瞬間的に活性化した黄金のスープで炊き上げ、仕上げに私が調合した「禁忌の香辛料(現代科学的旨味成分)」を振りかけた、概念を揺るがす一品。
「……ほう。見た目は悪くないが、しょせんは粥ではないか。……さて、貴様の無能を証明して……」
ガストルが、自信満々にスプーンを口に運んだ。
「――っ!?」
瞬間。
ガストルの瞳孔が開き、体が激しく痙攣した。
彼の脳内に、これまで食べてきた王都の高級料理が、すべて「泥」や「砂」として上書きされるほどの衝撃が突き抜けた。
「……あ、……あ、ぁ……っ!! な、なんだこれは……っ! ……舌が、……脳が、……溶ける……っ!!」
旨味の暴風雨。
これまで「贅沢」だと思っていたものが、いかに薄っぺらなまやかしだったか。
ガストルは、自分がこれまで「最高の美食」と称して食べてきたものが、私の料理の前では「残飯」にも等しいことを、細胞レベルで理解させられた。
「……どうされましたか、伯爵。……『辺境のゴミ』ではありませんでしたか? ……手が震えていますよ?」
私が、事務的に追い打ちをかける。
ガストルはもはや、返事すらできない。
涙と鼻水を流しながら、一心不乱にリゾットを貪り、皿まで舐め回さんばかりの勢いで食らいついている。
「……あ、ああ……っ! もっと……、もっとくれ! 私は、私は今まで何を食べていたんだ! ……ああっ、……これだ、これこそが真理だ……!!」
かつての「美食家」の威厳は、どこにもなかった。
そこにいるのは、私の料理という「絶対的な快楽」に屈服し、理性を失った一匹の獣に過ぎない。
その惨めな姿を、エルゼが至近距離で、最高に軽蔑に満ちた笑顔で覗き込んだ。
「……ねぇ。みっともな~い♡ さっきまでの威勢はどこに行ったの? お口、汚れちゃってるわよ?♡ 王都一の舌が、宿のまかない料理に、そんなに夢中になっちゃうなんて。……みじめ~♡」
「……ひ、ひぃぃ……っ!! 申し訳ございません! 私は、私は……っ!!」
ガストルは、エルゼの足元に跪き、床を這いつくばった。
「……完食ですね。……では、精算の時間です。……伯爵」
私が、あらかじめ用意していた請求書を、ガストルの目の前に突きつけた。
そこには、王都の貴族街が一軒買えるほどの、天文学的な数字が記されていた。
「……な、……これは……っ!? い、いくらなんでも、……一皿でこの金額は……!!」
「……いいえ。内訳をご覧ください。『精神的苦痛に伴う慰謝料』、『従業員へのハラスメント賠償金』、そして、『あなたの腐った味覚を矯正して差し上げた教育料』です。……妥当な金額ですね?」
「……あ、……あぁ……っ!!」
ガストルは、顔面を蒼白にさせ、その場に崩れ落ちた。
彼が一生をかけて積み上げてきた富も、名声も、誇りも。
私の「たった一皿」と、エルゼの「一言」によって、完全に差し押さえられたのだ。




